書棚を整理していると、この本が出てきた。30代の時に読んだ本だ。ダイヤモンド社昭和54年3月の刊。
今、ドラッカーと言えば経営の神様であり、書店にも、知人の社長室の本棚にもずらりと著作がならんである。しかし、当時のわたしには経営の神様など、縁のない世界だった。それよりも、その文章と立ち位置に対して興味を惹かれていた。傍観者=バイスタンダー、自らは行動せずに時代と世界を観察する者であるとか。当時、コリン・ウィルソンの「アウトサイダー」論やウラジミール・ナバコフのエミグラント文学をよく読んでいたが、その当時のわたしの読書傾向の流れの一冊としてこの本を読んでいたのだろう。ウィーン、ベルリン、ロンドン、アメリカと時代の風の中で、異郷から異郷へ、ながれつづけているドラッカーの自伝として、あるいは内面の旅の記録として読んでいたような気がする。
それから30年後。ドラッカーの経営の本を読むと、なるほど良いことを書いているとは思うが、この「傍観者の時代」を読んだときの面白さには及ばない。彼の経験した時代と人物が、じつによく書かれている。ドラッカーは小説家志望もあったと聞くが、これはつまらない小説家の愚作などよりはるかに優れた文芸だと、当時考えていた。
本書で一番面白いのは、「フロイトの神話と真実」であろう。彼の幼少時代のウィーンでは、フロイトは非常に目立つ存在、有名な存在であったとか。ドラッカーは8・9歳のとき、一度だけウィーンの町でフロイトにあったことがあるという。そのとき両親がこういったのだという。「ピーター、今日という日をしっかり覚えておくんだよ。今会った人はオーストリアで一番偉い人なんなだからね。いやそれどころかヨーロッパで一番偉い人かも知れない」当時、第一次大戦でオーストリアが敗北する以前だったので、「皇帝よりも偉い人なの?」と聞くと、彼の父は「そうだ、皇帝よりも偉い人だ」と答えたとか。
しかし、ドラッカーによれば、英語圏ではとりわけそうだが、大部分の人が、フロイトにまつわる三つの「事実」を疑いもせずに受け入れていると。第一は、生涯を通じて彼が金に困り、貧乏に近い生活をしていたという「事実」、第二は、彼が反ユダヤ主義者から多大の迫害を受け、ユダヤ人であるがゆえに正当に評価されなかったし、大学の然るべき地位にも就けなかったという「事実」、第三は、当時のウィーンの人たちが、とりわけ医学関係者が、フロイトを無視していたという「事実」である。
ドラッカーは、これらの三つの「事実」はいずれも、まったくのフロイト自身のつくりごとであると主張する。フロイトは富豪ではないが豊かな中産階級の生まれであり、少年時代でさえ何不自由なかったし、学生時代も両親から十分すぎる仕送りを受けており、パリからウィーンに帰って精神病の青年医師として開業したその日から患者がおとずれた。神経症の専門家としての彼の手腕はすぐ認められており、職業生活を切る早々からかなりの金を稼いでいた。晩年にヒトラーに追放されるまではユダヤ人として差別待遇を受けなかった。また彼は、オーストリアの医学史上、ほとんど例がないくらいはやばやと正式の評価と学問上の栄誉を受けていた。
つまり、フロイトはウィーンの医学界から無視されるどころか、非常に重要視されていたのだと。彼は、無視されたのではなく、否認されたのだという。ウィーンの医学界は、治療者としての倫理を甚だしく踏みにじっているとみなして個人としてのフロイトを否認したのであり、フロイトの理論を医学や療法ではなく、きらびやかな半面真理、詩あるいは、文芸として彼の理論を見なしたのである。
否認されたフロイトは、三つの「事実」のつくり話を自ら信じ込み、それどころか、そういった根も葉もない話を自分ででっちあげ、広めていたと書く。そして書簡の中で、そういったつくり話を繰り返し強調し、それによって、この誇り高い孤高の人物は、自己の不安を取り除いていったとドラッカーは説明する。これらは、要するに「フロイト流スリップ」であると。
その理由について、ドラッカーはまさにフロイトの理論を用いて説明する。
第一、
フロイトがしきりに不満を述べていた「反ユダヤ主義的な差別」だが、ウィーンの医学界では反ユダヤ主義はない、というより、ウィーンの医師の61パーセントがユダヤ人であり、医学界の指導的地位についているのもユダヤ人であった。ユダヤ人はウィーン大学の医学部の教授の大部分を占めて、軍医総監、皇帝の侍医などの要職もユダヤ人であったのである。
逆に、フロイトの医療は反ユダヤ的であったとされた。この当時、どんな貪欲な医者でも高い地位につけば、治療者の伝統的な倫理、無欲の奉仕だけは説いていた。貧乏人に無料診療をおこなうのが当然であった。だが、フロイトはそうではなかった。そういった倫理を鼻であしらった。ユダヤの伝統が治療者に関してこの上もなく尊重してきた価値に真っ向から挑戦した。つまりフロイトは、医療を一つの「職業」と化したのである。医者は患者に一切の思いやりを示すべきではない、患者は単なる診察の対象である。これは医師の仕事を、治療者から機械工に格下げするものの考え方と捉えられた。この医師は患者との関わりを一切持つべきではないとするフロイトの主張は、医者が患者に親身になることそこ最高の薬であるとする当時のウィーンの医師の信念を逆なでしたのだ。
第二、
それ以上に問題となったのは、治療法および科学的手法としての精神分析の有効性であった。フロイトはウィーンの近代医学の第二世代に属していた。近代医学は、百有余年のゆっくりした懐胎期を経て、フロイトの生まれるほんの数年前に開ようやく完全に成育したところだった。医学のおけるフロイトの時代は、科学以前の医学(いかさま医師どもの医術)から、診断し治療することのできる、教え学ぶことのできる近代医学に変わった時代である。細菌学が発展して伝染病の防止および治療能力が高まり、麻酔薬が出現して外科手術が耐えられるものになり、防腐法と無菌法が確立されて、外科手術にともなう感染で患者が死ぬ憂き目を見ずにすむようになった時代である。
いかさま医術から医学への基本的進歩は、大仰な理論や包括的な空論の構築を慎むことによって完成された。近代医学を成立させたのは壮大な理論体系の断念である。どの病気も特殊であり、病気は多様である。それぞれの特定の原因で発生し、特定の症状を呈し、特定の治療を持つという考えが近代医療をもたらした。
だが、フロイトの精神分析の理論は、あらゆる精神障害を同一のメカニズムで説明しようとするものであり、それは時代の医学の流れに逆行するものだった。
第三、
精神分析の効果である。精神分析がプラシーボ効果以上のものをもつのかは当時から問題となっていた。比較研究によれば、さまざまなな心理療法のそれぞれの治療法がみな一定の効果を持つとされた。ということは効果がないということなのではないか?フロイトが練達した治療者であることはみなが認めるが、その効果を検証する適切に管理されたテストはあるのか?精神分析医の手許には、しかし、そういった疑問に答える資料が全然なかった。そればかりか、フロイトとフロイトの学説の信奉者は、成果を定義することを、そういった問題について議論することを拒んだのである。
第四、
精神分析は科学か芸術か? フロイトとその信奉者以外は、精神分析の目的が病人の治療にあるのか、文芸評論にあるのかが、わからなかった。彼らは患者を説明するのと同じ論理でグリムの童話やシェイクスピアのリア王を分析した。むしろ、みなは精神分析の文学への貢献をみとめたものの、神経症の治療法としては懐疑的だった。つまり、ウィーンの医学界が困惑したのは、フロイトや彼の弟子たちが、病人を治療しているのか、「芸術批評」を一席ぶっているのか、さっぱりわからなかったのである。フロイト自身は、彼の理論が「科学」ではなく「詩」であることを、それとなく仄めかされただけでも、深く傷ついたという。つまり、彼はウィーンの医学界から無視されてはいなかった。彼は極めて真剣に受け入れられた。そのうえで否認されたのである。
第五、
性的な抑圧と金銭的な抑圧はなかった。ドラッカーによれば、精神分析の出現はしばしばビクトリア朝時代の性の抑圧に対する反動として説明がよくされるが、とりわけアメリカではそうだ。だが、イギリスには、ごく短期間をのぞいて、その種の抑圧はなかった。フロイトが開業していた当時のオーストリアにもなかった。それどころか、十九世紀末のウィーンは、性に関してはいたって放縦で開けっ広げだった、と。女性は結婚すると、婚外妊娠への恐怖から開放されるために、結婚したとたんに好き勝手なことをしはじめたと。
フロイト自身はきわめてピューリタン的であり、性は、なるほど避けられないものであるけれども、必ずしも人類のプラスにはならないと考えていたようである。
ドラッカーは、フロイトが性の抑圧の問題をとりあげたのは、当時のヨーロッパで本当に存在していた抑圧、金銭に対する抑圧の問題に直面しないための心理機制、フロイト的スリップだったのではないかという。当時のウィーンでは金銭があらゆるものを支配していたにもかかわらず、それは話題にしてはならないものとされていた。まともな家では金銭のことは口にしないのが慣わしだった。しかし、誰にとっても金銭が最大の関心事だった。それを抑圧したことにより、当時の中産階級の強迫観念となっていた「公立救貧院神経症」が生まれた。そのうち貧乏になるのではないか? 稼ぎが不十分ではないか? 家族の期待に応えてはいないのではないか? といった不安が蔓延していた。金には興味がないと称しながら、まるで憑かれたように絶えず金を話題にする神経症を、ドラッカーは当時「公立救貧院神経症」と呼ばれていたという。そして、フロイトは明らかに、この「公立救貧院神経症」にかかっていたのだ、というのがドラッカーの説である。フロイトがさかんに自分が貧困のもとで育ち、収入が人なみ以下であるとか、絶えず金銭的圧迫にさらされているとか、医師としても裕福に暮したことがなかったことを強調するのは、まさにその症状、フロイト的スリップの心理機制、不安神経症の明白な兆候だというのである。
第六、
また、自分は反ユダヤ主義の犠牲者であるという彼の繰言も、フロイトが直視できなかった一つの事実を隠していると。それは、逆に、彼が非ユダヤ人を許容できなかったことであるとドラッカーはいう。フロイトはユダヤ人として非ユダヤ人から差別されたのではなく、フロイト自身が非ユダヤ人とはつきあうことができなかった。その当時のオーストリアのユダヤ人は完全にゲルマン化していたのであるが、精神分析の世界には非ユダヤ人は一人もいなかった。そこでフロイトは非ユダヤ人を懸命に引きつけようとしたが、結果としてユングをはじめとして男性非ユダヤ人とはすべて離反してしまった。彼は、非ユダヤ人たちを許すことができなかった。フロイトの周りにはユダヤ人しかいなくなった。しかし、非ユダヤ的ドイツ文化の超大家のフロイトは、それを認めるわけにはいかなった。彼は、その責めを他人に帰さねばならなかった。それを説明するために、フロイトは自分が差別したのではなく、自分が差別されたのだといいはった。こうしてできたのが彼のフロイト的スリップ、すなわち「反ユダヤ主義的差別」であり擬似迫害だった。フロイトにとってはフロイト的スリップがどうしても必要だったのは、現実が、つまり自分のユダヤ的なものと決別できないという事実が、彼にとって堪え難い苦痛であったために、それを直視し、是認することができなかったからにほかならない、とドラッカーはいう。
第七、
同様に、ウィーンの医学界に「無視されている」という点も、フロイト的スリップだとドラッカーは言う。フロイトは学界から無視されたのではなく、否認された。だが学界から否認されているという事実をフロイトは受け入れることができなかった。だから、無視されたといいはるしかなった、というのがドラッカーの説である。フロイト自身も、内心では、精神分析の方法論にウィーンの医師たちが疑問を抱いているのも無理はない、と思っていたのではないかと。実はフロイト自身も医学界からの精神分析への疑念に同調するところがあったのではないか、と。だが、それを認めれば自分の唯一最高の業績を放棄せざるを得なくなる。
啓蒙思想の合理主義が普遍的に信奉されているけれども、それだけでは情動の力学は説明がつかないとフロイトは考える。だが、彼は科学の世界と科学的世界観を放棄することができなかった。 しかし、啓蒙思想の子である合理主義者としてのフロイトと、魂の暗夜を生きる夢想家にして詩人であるフロイトの二人がいた。その二人を一身の中で体現させようというのがフロイトの理論であった。フロイトは息を引き取るまで、精神分析は「科学」であり、心の働きは、合理的、科学的用語で、化学や電気現象の用語で、物理学の法則の用語で説明できると確信していたという。フロイトの精神分析は、科学的理性と非合理な内部体験という二つの世界、この二つの世界を一つの統合体にまとめようとする偉大な努力だった。したがって、啓蒙の合理の側からの批判をいったん受け入れてしまうと、夢想家にして詩人の非合理な部分まで一挙に崩壊してしまうことが必定であった。だから合理の側からの疑念をまともに相手にするわけにはいかなかった。その批判を無視し、批判は知らぬ顔して、自分は無視されているといいはるしかなかった、と。フロイトはウィーンの医師たちが自分を無視していると取り繕うことによって、逆に彼等を無視したのである、とドラッカーはいう。
ここで描かれているフロイト像は、あまりにも面白い。わたしでも、精神分析は「医学」なのか「小説・神話」なのか、あるいは「呪術」なのか、時折疑問に思ったりするが、章末尾の、「デカルト的合理性の世界と暗黒の魂魄の世界の統合を保ちえるフロイトの理論は、確かに見かけよりもひ弱かもしれないものの、そして究極的には自立できない理論かもしれないものの、それは見かけよりもはるかに魅力的な理論、はるかに啓示的理論であり、かつまた人間を揺さぶり、動かす理論」ではないか、との指摘が納得ができる。
ドラッカー・ブームである。ドラッカーについて言えば、フロイトの精神分析の理論が「科学」なのか「小説」なのかドラッカーが問うているように、ドラッカーの経営学は、さて「科」なのか「小説」なのか? なかなかに中小企業経営者程度の理解できるところではない。だが、この「傍観者の時代」に関していえば、すぐれたノンフィクションであり、じつにすぐれた文芸作品でもあると、むかしも感心したが、今も納得する。もちろん、これはあくまでわたしの個人的な感懐であって、そのような読み方が正しいかどうかは判らないが、ドラッカー自身は、「わたしは経済学者を自称したことはない」と述べているし、「社会学者」と呼ばれたくもないという。そして、自分の基本的な自覚は「文筆家・ライター」であるという。してみると、「断絶の時代」その他、彼の経済・経営に関する著作より、やはり文芸作品であろうこの「傍観者の時代」こそが真骨頂、彼の彼たる本ということになるのだろうか。