運の研究

 空気が研究できるものであれば、「運」も研究できるはずである。「運の研究」である。

その一

 6月中ごろの日経新聞に、面白い記事があった。京大の板倉教授の研究成果だが、生後10カ月の乳児の心理実験を行ったという。まだ言葉を話す前の初期の発達段階での感情の動きである。その研究結果からは、支えあう心は生まれつきとも考えられるといい、人の発達過程のほか社会や文化の成り立ちを理解する手がかりになるという。

 実験では、2つの図形が現れて一方が他方に体当たりするアニメーションを繰り返し見せて、その後で図形の模型を机にならべて、乳児がどちらを選ぶか調べたという。
その結果、75%以上の割合で、攻撃を受けた側の模型を選んだとか。研究チームは、弱い立場に同情する気持ちが現れた結果だと推測している。
 これに対して、同じ実験をした大人の場合、攻撃側の模型を選ぶ確率が高かった。ただ、大人の場合は個人によって傾向が異なるらしい

その二

 京都大学大学院の藤井聡教授らが「認知的焦点化理論」というものを唱えているとか。人が心の奥底で何に焦点を当てているか。そこに着目した心理学上の研究らしい。たとえば人には、幸運、福運、強運の人と、不運、悲運、悪運の人がなぜか生まれるようだが、両者はなぜそうなり、どこが違うのだろうか。この研究は、ひとことで言えば、ある人が物事に向き合うときに、どのぐらい他人のことを配慮できるかという観点から、人を分類しようとする試みらしい。周囲を見回してみると、仕事もプライベートもトントン拍子に進む幸せな人と、何をしてもトラブルに見舞われる不運続きの人がいるのはなぜだろうか、知りたいところである。

 「認知的焦点化理論」とは、人が心の奥底で何に焦点を当てているか、そこに着目した心理学上の研究らしい。ひとことで言えば、ある人が物事に向き合うときに、どのぐらい他人のことを配慮できるかという観点から、人を分類しようとする試みである。

 その概念図の横軸は社会的・心理的距離軸を示し、自分を原点として、家族・恋人→友人→知人→他人……と、右に進むほど関係は遠くなる。他方、縦軸は時間軸である。物事の対処に当たり、思いを及ぼす時間の幅を示すもの。「現在のことだけ」か「2、3日先」か「自分の将来まで」か「社会全体の将来まで」か……と徐々に幅が広がっていく。横軸と縦軸を結ぶ曲線で囲まれた面積は、配慮範囲の大きさを表している。

 たとえば、極端に利己的で目の前の自分の損得のみに心の焦点を合わせている人は、横軸、縦軸とも目盛りゼロの原点付近に位置する。後先を考えずに怒りに任せて人に暴力をふるう犯罪者などがこれである。逆に、自分から遠い存在である他人のことまで思いやる人ほど、あるいは遠い将来のことまで配慮する人ほど、曲線で囲まれた面積は大きくなる。人望あるリーダーがこちらに当てはまる。
 そして、この配慮範囲の面積が広い利他的な人ほど得をし、面積が狭い利己的な人ほど損をするというのが、藤井聡教授らの研究から導き出される結論だそうである。世の中には、利己的な人ほど運をつかむチャンスを失い、ますます損をする法則があると藤井聡教授は論じる。

 他者からの評価の上がらない人は、自分の心の幅、つまり潜在的な配慮範囲が少し狭く、利他性が低いことに原因が潜んでいるのかもしれない。自分の損得ばかりを考えて行動する利己主義者は、正直者を出し抜いて一時的には得をするが、長い目で見れば必ず損をする運命にあるらしい。

 それは、人間の社会には次の3つの原理が存在しているからだという。

(1)互恵不能原理
(2)暴露原理
(3)集団淘汰原理

 まず、(1)の互恵不能原理から。自分の損得ばかりに焦点が合っている利己主義者は、「お互いさま」で成り立っている人間社会で、最終的には「嫌なヤツ」として人々から村八分にされる。そのため、よいパートナーに恵まれて力が倍加したり、窮地を支援者の助けで脱したりという幸運にも恵まれづらく、「互恵」が「不能」になるので、結局は正直者より損をするす。これは構造がわかりやすいため、あからさまにわがままな行動をとる人は、実際のところ少数派であろう。

 心理学的に、より注目すべきは(2)の暴露原理である。暴露原理とは、人間には利己主義者を見分ける能力がきわめて強力に備わっているということらしい。

 利己主義者は((1)の互恵不能原理によって)周囲から排除されるのを防ぐため、表面を取り繕う行動に出る。「この人の力を利用できれば得だ」と計算した相手の前では、愛想よく振る舞い、自分はいい人だとアピールする。逆に自分にとって利益がないと判断した相手には冷たい態度をとる。損得計算に基づく姑息な「態度」の使い分け。見せかけの利他性である。

 ところが、いくら表面をごまかしても、利己主義者であることはすぐバレてしまう。進化心理学の考え方によると、イヌは嗅覚を高度に発達させることで生き残ってきた。コウモリは超音波を聴き分ける能力を身につけたものが淘汰を免れた。同様に、社会的な存在である人間の場合は「悪者を見破る能力」を、進化の過程で異常に発達させてきたのである。

 さまざまな人間が蠢く社会のなかで、「見破り能力」を発達させられなかった人は誰かに騙され、生きのびることができなかった。今日生きている私たちはみな、騙されない能力を発達させることに成功した人々の子孫であり、「悪者」を瞬時に検知する遺伝子を強力に受け継いでいる。このことは以下の実験からも証明できるとか。

 藤井聡教授らは、まず「ウェイソンの実験」と「コスミデスの実験」で説明する。そして、その結果は、人は純粋に論理学的な問題より、社会ルールの違反者を発見するという人間関係にまつわる問題に対してのほうが、アンテナがより高感度に働くということを表しているらしい。心理学者コスミデスは、このような心理的メカニズムを「裏切り者検知モジュール(装置)」と呼び、人間は悪者をすばやく発見する装置を備えた生き物だと指摘している。

 したがって、利己主義者が本性を隠して表面を取り繕っていることを、私たちはほんのささいな言動からでも敏感に察知する。たとえば、いい人だと思っていた人物が店員にとった横柄な態度を垣間見たり、目が笑っていないことを発見した瞬間に感じる違和感などがそれである。

 (1)や(2)の原理の結果、利己主義者には真の友人やビジネスパートナーができない。一方、配慮範囲が広く利他性の高い「いい人」には、いい人も悪い人も寄ってくる。相手の利益を考え、裏切ることもない人と一緒にいると得なので、誰もがその人と一緒にいたくなるからである。この場合、人は、必然的にいい人のほうをパートナーとして選ぶ。はじかれた悪い人は、結果的に、残った悪い人同士でタッグを組むしかない。1人よりはマシだという心理が働くためである。無作為抽出400人を対象とした調査でも、「利己的な傾向を持つ人々のほうが、そうでない人々よりも、主観的な幸福感が低い」というデータが得られている。

 利己主義者が必ず損をする第3の原理は、(3)の集団淘汰原理である。これは、利己主義者が支配する社会は社会ごと自滅し淘汰されてしまうという話である。利己主義者がせっかく天下を取っても、その社会自体が破滅してしまうので、結局は利益を失い、損をする。企業も同じであり、成果主義が効果を上げても、全社的に利己的体質が過剰になれば、やがては会社自体が崩壊に向かうであろうと藤井聡教授らはいう。
 利己主義者が効率を追求してビジネスライクに当面の利益をあげる一方、利他性の高い人は商売抜きで幅広い会合に付き合ったり、得にならない役割を自発的に引き受けたりで、日頃は何かとても非効率な存在に見えるもの。ところが、状況がひとたび「平時」から今回の大震災のような「危機」に変われば事態は一変する。利他主義者ほど変化に強い。平時の“無駄”が培った人脈や関係が対応策の選択肢を広げてくれるからである。日頃の無駄がノリシロとなり、環境の変化に対するしなやかさに繋がるの。言わば、心理学的に証明された「損して得取れ」の科学である。

 他方、損得勘定1本で来た利己主義者のほうは、変化に対して脆弱である。短期的には効率よく成果をあげるが、短期局所的な最適解ばかりを求めて無駄をカットしすぎた人間関係や会社は、条件がちょっと変わっただけで暗転する。金融工学の前提条件が崩れたバブル崩壊やリーマンショックでは、多くのガツガツした企業がピンチに立たされたのは記憶に新しいところである。
少し長い目で見れば、世の中に安定など存在していない。変化は必ず訪れる。だから、他者との関係が乏しいゆえに利己主義者は変化にも弱く、この意味でも長期的には必ず損をするのだと藤井聡教授らはとく。

その三

『知の逆説』という本に、DNAの二重らせん構造を解明しノーベル賞をとったジェームズ・ワトソン博士のインタビューが載っていた。この研究は20世紀の特筆すべき画期的なものである。15歳でシカゴ大学にはいり、さらに分子生物学や遺伝学にすすむ。1953年にフランシス・クリック、モーリス・ウィルキンスとともにDNAの二重らせん構造を解明。弱冠25歳だった。だがケンブリッジ大学のキャベンディッシッュ研究所で、このDNAの二重らせんの取っ掛かりをつくったのは、ジェームズ・ワトソンとフランシス・クリックではなく、当時ロンドンのキングス・カレッジにいたX線結晶学の研究者ロザリンド・フランクリンであり、彼女が撮影したDNA構造のX線結晶構造解析写真(有名な51号写真)を、彼女の上司であったモーリス・ウィルキンスが彼らに見せ、それがヒントとなってDNA構造解明につながった。しかし、この歴史的解明をジェームズ・ワトソンは著書『二重らせん』で述べているが、そのなかで彼女の貢献に対する十分なクレジットが配慮されていないという批判がある。

「質問者」フランクリンは、いったい何をしていれば、彼女自身DNA構造を解明できる可能性が高くなったでしょうか?

「ワトソン」残念ながら違うDNAを持って生まれてくる必要があったでしょう。彼女には社交性というものがなく、どうやって他人と付き合っていいか分からなかった。おまけに明らかに被害妄想の気もあって、他の人が彼女から盗もうとするねのではないかと恐れていた。だから、誰も信用しなかった。彼女の態度のせいで、他の人は彼女を助けたいと思わなくなった。もしいい性格だったら、それだけで既に助けになる。ブスッとした不機嫌な人だったら、誰も助けたいと思わないでしょう。

「質問者」しかし、非常に微妙な線ですよね。競争には勝ちたい。だからフランクリンの競争心をあらわにした態度や自己防衛的な態度というものも、ある程度わかる気もするのですが。

「ワトソン」彼女は自分が最も他人の助けを必要としていたときに、他人を寄せ付けなかった。彼女は他人の助けなしには絶対にDNA構造解明に成功しない。だから、実際成功しなかった。それだけのことです。
成功とはある意味、「情熱」にかかっている。何をその人を突き動かす動機となっているのか。ロザリンドの場合、「成功すること」そのものが目的だった。われわれは「答えを知ること」が目的だった。われわれは答えを知りたい一心で仕事をしていた。彼女は生物学のトレーニングを受けていなかったので、その知識が全く欠けていたから、もうほとんど諦めかけていたんです。

「質問者」ロザリンド・フランクリンはX線結晶構造解析写真を八ヶ月間あまり自分で所有したが、その意味を理解することができなかったのに対し、あなたとクリックは、写真を見るなりその意味を解釈することができた。彼女はDNAモデルを作ることに興味がなかったのでしょうか?

「ワトソン」全くない。ハッキリ言って、彼女はノーベル賞に値しない。ノーベル賞は敗者には与えられない。誰も彼女から賞など奪ってなどいない。彼女には何ヶ月も自分で問題を解く時間があったのに、どうやって解釈していいかわからなかった。どうやって勝つか、つまりどうやって目的を達するかということを知らなかった。

 その二の、京大藤井教授の利己性、利他性論議があてはまるケースである。ロザリンド・フランクリンは1958年、37歳でガンで亡くなっている。二重らせん構造の発見のノーベル賞は、1962年にワトソンとクリックとウィルキンスに与えられた。(しかし最近の説では、この男たち三人がロザリンドの研究を盗んだとするのが有力だが)

 司馬遷も「天道、是か非か」問うているのである。

その四

 だが、藤井教授論の運のもつ一面は、これは一面であろう。それは必要条件ではあっても十分条件ではないはずである。身近でも人のためにとカモになる人を散々見ているし、宗教団体は財務をとなえ、ある団体は家財産まで教団に寄付させる。この「良い人たち」がとても「運」が良いとは思われない。逆に、その連続する不運に同情するくらいである。「運」の解釈あるいは定義だが、それは社会的に数量化するものか、個人的なものか、どっちだろう。脳のMRI技術等がさらに発展すれば、それを、つまりその瞬間の幸福・快楽を測定できる時代もくるかも知れないが、さて、どう数値化するのか。

 ともかく、いわゆる「運」は非日常である。この前提は、これで良いだろう。したがって、ある意味、特殊な状況の特殊な出来事である。空からふってくるような。藤井教授のように考えても、それで運が振ってくるわけではない。良い人も、たくさん淀の競馬場でさんざんに負けているわけである。日常的に、である。「運」とは、つまるところ、他者との比較である。相対的なものである。つまり、実もふたもないが「勝つ」ことかも知れない。日本語における使用としては、そうなるはずである。「運よく」貧乏で苦労し、さんざん病気をし、でも、とても良い人でした、というのはNHKの日本御伽噺でも放映されなかった。良い人は、最後は金銀財宝をゲットする結末になるのがお約束。その非日常である「運」を日常個々の特質で分類するのは、すこし無理があろう。

 だが藤井氏の言うところは、体感的に正しいと考える。ただ、それでは不足でしょ、という次第。であれば、あとは付け加えるだけである。利他性が、「運」の基本的な要素であることは賛成する。経験的に、それは賛成。しかし、それだけでは駄目。

 たまたま『知の逆転』を読んでいる。著者は女性である。このような怖い相手によくもインビューしているね、と感心する。よほど頭が良いのだろう。相手も、ちゃんと対応してくれているのである。

 そのなかで、文章を拾う。
「ワトソン」
 おお、感情は常に理性より重要です。

 われわれの世界では、15歳ではまだ才能が見出せないが、おそらく19歳くらいまでには、誰が世界を変えようという気概を持っているか、誰は全く変えなくてもハッピーなのかが大体わかるりようになると思います。シカゴ大学の教育は、学生からリーダーになる可能性というものを引き出した。つまり事実から意味を汲み取る人間にしたということです。成功したのは、よく考え、よく読み、よく知っていたからだと思います。

 勝てば官軍であり、時の運という言葉もあるが、そして運のほとんどは、あるいはそうかも知れないが、陳腐だが「正道」ということかも知れない。結論として、こうすれば、「運はこない」ということはあっても、こうすれば「運がくる」というセオリーは、それはないだろうね。第一、運を期待する人間のところに、運は来ないと思うしね。藤井教授の説は、社会のなかでどう効率よく生きるかという処方箋だが、一般論である。つまり日常である。運は、非日常である。でも、マージャンでも手を広げないとロンは出来ない。

「質問者」なぜ人間は見かけに左右されるのでしょう。
「ノーム・チェムスキー」これについては、進化論上の説明も、推測の域を出ません。人間の幼児は、チンパンジーなどの他の種と比べて幼少の頃特殊な成長の仕方をします。ほとんどの種では、幼児は早くから独り立ちするのに対し、人間の幼児は非常に長い期間、親に頼っています。その理由として挙げられているのは、人間の脳が急速に大きくなる一方、女性が無事にお産をするためには、赤ちゃんの脳の大きさには限界がある。したがって、子供が生まれてからの生長期間が長くなって、子供は自立するのに時間がかかる。そうなると、大人が世話したくなるような何かを子供が持っている必要がある。当然の、進化は、思わず抱き上げたくなるような、世話をしたくなるような姿をした子供に有利になり、彼らが選択されて残っていく。もしそういう気持ちが大人に起こらなければ、子供や幼児は死んでしますますから。「かわいい子」という表現があるように、大人をして世話をしたくなるようにさせる何かを、幼児は持っているんですね。

 笑う門には福きたる、ということか。ただし、特権的な笑いの必要があるだろうが。というより、特権的な貢物を、理由もなく受けるように生まれる必要があるのかも知れないし。ここらは理論化は不可能だが。払いもせず、飲み、食べれるのが運であるから、経済学的には非合理に過ぎる話である。フリーライダーである。

 まあ、理屈と膏薬はどこにで付くのであり、幾らでも付け加えられるが。利他だけでは、運はこない。そして、そもそも、団塊世代として言うが、運を期待するような奴のところに、来るわきゃないでしょ。誰に来ても、犬も歩けばの、天からのボーナスでしょ。ただ、それじゃ、あんた損するよ、歩く悪運なの、というタイプの人は多い。ほとんど、そうだが。

 以下、蛇足。

 ただ、ここに書いてよいか分からないが、播州に八家さんという旧家がある。氏によると、知能指数の異常に高い天才系らしい。むかしの郷士階級だろうか、八家四訓というものを教わった。伝授書面に伝八家四訓とあるから、伝えられた以上は、しゃべってよいのであるが、それには江戸後期の日本の立身の知恵が凝縮されている。
 一、引き、二、弁(べら)、三、才、四、学 である。その社会において認められる優先順位の率直な理解が、テクニカルで素適である。また、日本文化においての社会的な運動法則に対処する方法をしっかりと踏まえている。これは藤井教授の説とは一致しないが、そう現実的には矛盾しない。お元気ですか。

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