休んでくれ、わが脳よ、俺よ

人間のさまざまな器官の中で、生まれてから死ぬまで働き続けるのは、まず心臓であろう。肺もそうであろう。その他、さまざまな器官が死ぬまで休まず働きつづけるのだろう。だが、脳は眠るときはしっかり休み、そして「充電」をすると思っていた。レム睡眠のときは、脳は起きていて体を休めて、脳は記憶の整理をする。この時に夢を見ていて、ちなみに金縛りもこのときに起こる。逆にノンレム睡眠のときは、脳も寝ている。この、レム睡眠とノンレム睡眠は約90分おきに交代しており、即ち睡眠時間のおよそ半分は脳も寝ていると思っていた。最新の知見では、それは違うらしい。

脳科学者の池谷裕二氏によれば、脳の神経の活動を追っていると、大脳皮質の神経細胞は、寝ているときのほうが活動しているそうである。人間は浅い眠りと深い眠り、つまりレム睡眠とノンレム睡眠を周期的にくり返しているが、驚くことに脳は、深い眠りのときに最も活発に活動するという。この「深い」「浅い」という言い方は、活動する神経細胞の数ではなくて、意識レベルの話だとか。例えば、100個のニューロン(神経細胞)があったとする。起きているときには、特定の瞬間だけみるとある瞬間に30%ぐらいだけ、ニューロンは動いている。長い時間で見れば全部のニューロンが動いているといってもよいが、特定の瞬間では、だいたいニューロンは30%ぐらいしか使われていない。逆に言えば、そういった「部分的に必要な分だけピックアップされた活動」が、おそらく私たちが「意識」と呼んでいるものないかという。浅い眠りのときは、起きているときの状態によく似ていて、ニューロンは30%ぐらいしか活性化していない。だから、こういう実験をすると、「夢の中にいるときには、ちゃんと意識があって、それを“体験”しているんだなぁ」としみじみ感じたりするとか。ところが、深い眠りのとき、ニューロンは100個、全部が動いているらしい。つまり、寝ているあいだ脳はものすごく活動している。夜はしっかり休んで「充電」しているかと思ったが、逆のようである。池谷氏は、脳の中でも海馬の専門家らしい。なかでもCA3野という場所の専門とか。このCA3は、昼間に情報を集め、大脳皮質に保管する。このCA3で、睡眠中、とくに深い眠りのときに、情報の圧縮をするという。その作業を、夜にするという。深い眠りのときに脳細胞がフルに働くらしい。「脳は眠らない、昼以上に夜に働いている」らしい。

つまり、脳は生まれてから死ぬまで休むことはないらしい。心臓と同じようにだ。それは気の毒なことだった。疲労もするし、不調な時もあろうさ。
現代では、脳の働きを「こころ」と称するらしいが、心が疲れるのは、脳が疲れたからなのか。「こころ」を休ませてあげたいものだ。元気にしたい。「わたしのこころを」だ。事情があって、昨年以来、ほとほと疲れ切っている。思いもよらぬことばかりで、人間関係に疲れ切った。頭は重いし、気はしずみつづけている。そして、気散じにこんな雑文を書いている。

ここで、ひと理屈であるが、一昨日の9月13日の夜に、知人に連れられて、サイアム駅そばの、おぼえにくい名前の寺の夜の「行」に参加した。二時間だが、はじめの一時間は僧侶とともに読経する。パーリ語のあとタイ語で全員が読経する。音楽のような流れるようなハーモニーだ。声と夜の時間が流れていく。後半の一時間は、僧の声にあわせて、結跏趺坐し、息を吸い、息を吐く。ヴィパッサナー瞑想である。夜の僧院で、インサイトメディティーションを行う。翌日14日の昼は、王宮寺の北にある学問寺 Wat Mahadhatu のメデテーション・センターの外国人向けセミナーに行く。ヴィパッサナー瞑想については、大阪においてスリランカ上座部のスマナサーラ長老の指導を受けたことがあるので、一応、声聞である。このメデケーション・センターのメソッドも、スマナサーラ長老の指導と同じ仕組みであった。

仏教式瞑想は、宗教の枠を超えて、欧米でも流行している。心を活性化し、脳の疲れを癒すものとして捉えられているようだ。メデケーション・センターの生徒も、わたし以外は、みな欧米人である。では、なぜ瞑想により、心が活性化でき、脳の疲れが癒されるのか。これは、「脳は眠らない、昼以上に夜に働いている」ことを知れば、答えは出たようなもの、ジグソーパズルのピースがかちっとはまる。ヨガ行者などの脳波が測定されて、なにがどうしたとという議論があるが、エビデンスや論証などという煩わしいことはおいて、直感で述べれば、昼に30%ぐらいだけニューロンは動いているというが、瞑想は、それを20%ぐらいに下げる仕組みではないか。わたしは、瞑想経験者として、そう直感的に確信する。この直感は、まず正しい。やった人間なら、わかる。だが、どの瞑想の本も、そうは書かない。さとりとか、精神統一とか。脳機能を活発化させるようなことを書く。脳波がどうしたとか。効用とか眠たいことをいう。

逆だね。違うね。河畔のスターバックスで思い至ったが、「脳を働かせないことで、疲れた脳を、管理的に休ませるのだ」のだ。「管理的に」だ。「自律」という言葉でもよい。思いに至った以上は、となれば、理屈と膏薬はどこにでも付くらしいから、ひと理屈こじつけようじゃないか。アルキメデスなら、エレウカというところか。30%を40%するのではなく、30%を20%にするのだ。これが瞑想の本質だったのだ。わたしに間違いなく座布団一枚だ。
2016-09-14-12-44-39
拝啓 スマナサーラ長老様

尊師におかれては、書店の棚を見るかぎり、ご繁盛、ご繁盛、まことにご健勝のことと拝察申し上げます。
ぼくは、あきまへん。ボロボロですわ。とくに一昨年以来、脳みそをグチャグチャにされるような連発がありまして、人間やめようかな、とも何度も思いました。 それまでは、だらだらと暮らしておりましたが、脳みそグチャグチャに何度も追い込まれて、ふと、尊師のご指導の行を、やってみようかと、そんな気になったのでございます。これも尊師のご高徳のしからしむところです。

ここ数日、他郷の街のホテルの部屋で、僧院横のスターバックスで、チャンプラヤー河の水上バスの船着き場で、尊師の『気づきの瞑想法』を繰り返し拝読しました。そして、わたし個人の体験と重ね合わせて、すこし独り腑に落ちることがありましたので、それを文章化することで、自分の考えを整理したいと思います。以下は、個人的な思考整理のためのメモでございます。

その40頁で、尊師は「思考をカットし、感覚を止めると、心は成長する」とお教えなされています。そして「感覚を受けたところで心を止める」ことの重要性を語られております。また58頁では、人の心の動き、執着すなわち煩悩の発生の流れを説明なされています。
①隣の人の手が、自分の手に触れたとする。
②すると「触れた」という感覚が生まれる。
③ここまでが「事実」である。
④ところが我々は、「今触れたのは、隣の人の手だ」といった具合に、ついその先を考える。
⑤それは「判断」である。
⑥そのためには、たくさんの「思考」が必要である。
⑦しかし、判断自体には実態は無い。我々の頭の中にしか存在しない。
⑧判断から執着が生まれる。余計な探求が生まれてしまう。

そして尊師は、ともかく、触れたら「触れた」、聞こえたら「聞こえた」、思いついたら「思いついた」と事実を確認して、それ以上の思考をカットしましょう、と語られております。つまり、①から③までで、④以下はカットせよと。

それこそ釈迦に説法でございますが、仏教は人間存在を「五蘊」として捉えます。पञ्च स्कन्ध, pañca-skandhaです。「色」「受」「想」「行」「識」です。「色」は物質的存在を示し、「受」「想」「行」「識」は精神作用を示すとされます。五蘊が集合して仮設されたものが人間であるとし、またこれが煩悩と「苦」の発生原理とされます。すると、上記の①は「色」、②が「受」になります。④がいけない、これが「想」の発生ですね。そして「行」で余計なことをし、⑧で「苦」の原因となる「識」が生じる。つまり煩悩が生じる。Wat Mahadhatu のメデケーション・センターの外国人向けセミナーの午後の部は一時からオープンしますので、ちかくのスターバックスで、このような「気づき」に至りました。

つまり仏教では、人間存在は無我であり、「五蘊」の産物と捉えるのですが、尊師は、それの二段階のみ、「色」と「受」のみで止めろとお教えになる。つまり、私式の解釈では、「五蘊」の生成を「断て」とお教えになっている、と勝手解釈いたしました。と、読み換えました。ヴィパッサナー瞑想は、いわゆる身随観であり、身体感覚にからだの動き感覚にラベリング、尊師のご表現では実況中継するのですが、「色」と「受」のみをまわすのですね。
そして、私見ですが、それは瞑想系の方々、仏教系の方々がいわれるような、たとえば Wat Mahadhatuの英語の達者な指導僧も繰り返し述べていたconcentration 精神統一ではなく、逆に起きているときには、特定の瞬間だけみるとある瞬間に30%ぐらいだけ、ニューロンは動いているそうですが、その30%を40%するのではなく、「色」と「受」のみで止めることで、「想」「行」「識」でのニューロン活動を起こさせないことで、脳を活動させない、30%を20%するのだ、と気づきました。「脳を働かせないことで、疲れた脳を、管理的に休ませるのだ」という、脳のアクセルをゆるめるものだ、できればアイドリング状態まで落とすことだと、気づきました。
ジェームス・ジョイスの意識の流れではありませんが、その流れは死ぬまで止まりません。人間は、つねに考えつづけます。ニューロンの動きをオフにはできないのです。不可能です。だが、その動きを「色」と「受」だけのシンプルな、シンプルな動きにスリップさせることで、ニューロンの動きを最小限にし、脳のほかの「野」を休ませるのです。だから、ヴィパッサナー瞑想もその内容は、あきれるほどシンプルなのです。サマタ瞑想もです。煩悩の「止滅」により涅槃に至るのではなく、ニューロンの動きを「止滅」させることで、脳の疲労の回復をはかるのです。休ませるのです。そうスターバックスでカフェラテを飲みながら、思い至ったのです。

よく禅などで、無念無想で悟りにいたるなどと、子供じみた寝言をいっておりますが、そんなカバな。何も考えない状態で「智慧」が得れるわけがないじゃないですか。それこそ禅僧の煩悩です。禅も深めると、コリン・ウィルソンのいう至高体験、最近の言葉の「ゾーンに入る」ということもありましょうよ。そのハイになった脳の特別な状態を神秘的なものと考えて、悟りなどと称しているだけだと、わたしはは思いますよ。尊師のご著書、ご法話でも、つねに瞑想により、日常生活とは違う真実の人間の形があらわれるとお説きですが、失礼ですが、不遜な口上でございますが、何も考えずに座り続けて悟りなど得れるはずもないように、スタンディングメディケーションにせよ、ウォーキングメディケーションにせよ、立つだけで、歩くだけで、インサイト insight meditation 実況中継するだけで、真理にいたるとは、とても思えません。

不遜な妄見でございますが、瞑想の本義は、あまり宗教とは関係はなく、脳の活動を30%から20%にダウンさせる「脳を働かせないことで、疲れた脳を、管理的に休ませるのだ」とわたしは理解するのであります。座る瞑想は、身随観と腹式呼吸の組み合わせと理解しております。したがって、尊師のいわれる「思考をカットし、感覚を止めると、心は成長する」とのお言葉を、「思考をカットし、感覚を止めると、疲れ切った脳は休息を与えられ、元気さをとりもどす」と書き換えさせて頂きたいのであります。違うでしょうか?

尊師は、つねに仏教は「心の科学である」と説かれていますが、それについてはご高説のとおりと拝しております。してみると、瞑想の本義は、脳のニューロンの活動をスローにすること、できればアイドリングまでダウンさせることで、心臓と同じく、生まれてから死ぬまで動き続ける脳を、「ねんころろ、ねんころろ」と休ませることだと理解すれば、わたしなりに納得できるのであります。してみると、脳の休息時間ですが、尊師は歩く瞑想は一時間はしなさい、とご指導なされていますが、できるだけ長い時間を瞑想に、つまり脳の休息時間にするのがよろしいことになりますね。それには瞑想の技量、ニューロンの動きをコントロールする技量、concentration 精神統一というより雑念をカットする技量が必要であり、ある程度の修行がとうぜんに必要になりますね。Wat Mahadhatuの指導僧も、意識をbody and mind にのみ注ぐようにと繰り返し述べていました。

だが、瞑想の本義は、あまり宗教とは関係はなくと申し上げましたが、この瞑想を開発したことは、仏教をふくむインド諸宗教の、じつに偉大な成果と感謝いたしております。また、もとより仏教の瞑想は、欧米人の開発した自律訓練療法、自己催眠法のように、たんに脳のリラックスを目的とするだけではなく、人の心の仕組みを見つめることにより、「想」「行」「識」でのニューロン活動による煩悩と「苦」の生成を止滅させ、諸行無常、諸法無我の哲学に導いて、煩悩の沼であがく我々、欲と煩悩の乱れ狂う娑婆世界から離れて、人のあるべき本来の姿、あるべき人間社会を提示し、それによる救済も指向するもの(ではないか)とは、わたしなりに理解あるいは解釈はいたしているつもりでございます。ならば、いいな、ですが。

よし、しっかり瞑想をきわめるか、今そういう決意しております。わたしのグチャグチャな哀れな脳を、前頭葉前野を、側頭葉を、海馬を、わたしの疲れた哀れな心を「ねんころろ、ねんころろ」させたいのであります。すまんがった、こき使い過ぎた、ちょっと休んでくれ、と。昨日のチャンプラヤー河の河畔のスターバックスでの思い付きを、こうして文章化することで、整理がつき、なんとなく独りで納得できましたので、これから外のソイ11に出て、60バーツくらいの路上屋台の朝飯をたべにまいります。

敬具。

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