プールサイドで輪廻、輪廻する

私は子供の頃から空想壁の強い、超読書家であった。本の虫なのである。前世は紙魚だったのだろう。濫読である。とくに実利的目的もない読書なので、流れるままのフライング・ダッチマンである。最近、ダルシャナ、インド六派哲学にはまっている。哲学といっても、それはインド人たちの輪廻からの解脱が目的の思想であるから、輪廻思想というインド的前提自体をもたない私としては、知的興味の対象としてである。が、これがなかなかのバァーミューダトライアングルである。

そして和訳本、日本の研究者の本を読み飛ばしながら確信しているのだが、「インドの方々って、まあ、口先を器用に使って、よう言うわ」である。輪廻思想のことである。ダルシャナも仏教のような非ダルシャナも、この世を「苦」とみて、輪廻による死と再生を恐れ、それからの解脱をもとめる、そうなっている。どの本もそう書く。でも嘘だよね、インドの方々。間違ってるよ、日本の研究者さん。私は、そんな建前は信用しないよ。濫読のあげく、私はね、あれはインドの方々の嘘、じつは輪廻は「不死の思想」だと確信しているよ。アートマンがブラフマンがとか言ってなさるが、ようするに今ここで生きている自分の魂が、死後にどうなるか、その説明が欲しいだけだね。ゾロアスター教、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は、人間が魂をもつことを認め、また神の存在と天国と地獄の存在を認めた。つまり「死んでも死なない」理論を構築した。日本において浄土宗など日本仏教は、すべて、その方向に変質したね。これが素直の形の普通の宗教の形だよね。神、天国、地獄、そして私の魂の四点セットだ。それが死後世界での「生」を保証することで、宗教は成立する。もしそうなら、どんなに素敵だろうとは、私も思うが。

紀元前1500年頃にインダス河方面に進出したアーリア人のヴェーダの宗教には、個人の魂への考察も輪廻の思想もなかったはずである。死ねば、酒は旨いし、姉ちゃんは綺麗な天国に行くだけである。ちゃんとした神はいないし、地獄すら満足に用意されていない。神、天国、地獄、そして私の魂の四点セットは、その文脈には無い。とすれば、魂と死後世界への恐怖が生じ、何らかの救済論的説明が渇望されるのは人間心理の自然だろう。

旅先のプールサイドで、湯田豊氏の『インド哲学のプロムナード』も再読しながら、脳内の知識を反芻しているのだが、湯田氏は初期ウパニシャッド期には梵我一如の思想はない、初期ウパニシャッドの重要テーマはアートマンであるとする。つまり、人間の魂の発見である。わたし流にいえば、アートマン=不死の存在の発見である。それが輪廻する。湯田氏は、輪廻思想が確立されるのはブラーフマナ期ではなく、初期のウパニシャッド期であるとして、西暦前六世紀ころには、輪廻転生はほとんど広く受け入れられたとする。

整理すると、インド哲学の二大哲人は、前八世紀のウッダーラカ・アルーニとヤージャニャヴルクヤだが、ウッダーラカ・アルーニの示した五火二道説が、つまり「再生思想」が、インド全体の瞬く間に(私の想像だが)広まったのは、そのような不死の存在が輪廻するという思想に対する根源的需要、人々の死への恐怖があったからと考えられる。ウッダーラカ・アルーニも息子に、「お前がそれである…。お前は死ぬことのない生命力である」と『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』でいう。生命力は、一切の生きものに広がっている。水中においても、溶けた塩は至るところに広がっている。溶けた塩と同じように生命力は目に見えない。しかし生命は証明され得る、我が愛児よ、それが自己である、それがお前である。つまり、お前は「不死」だと父は息子にいう。死ぬことのない生命力、それは知覚されないほど微細である、しかし、その存在は確実である。この生命としてのアートマンが一切の生きものの本来的な核心である。それは愛児よ、お前である、と。タット・トヴァム・アシ! 『バガヴァッド・ギーター』も、肉体は滅しても魂は不死であることを保証する。

需要と供給の原理は、ここでも必ず働く。その弟子のヤージャニャヴルクヤは、屁理屈屋としての世俗的成功にもかかわらず、すべてを捨て、私流の表現ですれば「永遠の生命を求めて」出家第一号者となる。さらに、ブッダの時代には、出家と輪廻の思想は、すでにインド全体のものとなっていたようだ。遊牧民の宗教であったアーリア人のヴェーダの宗教は、インダス河からガンジス河に進んで農耕文明化するとともに、バラモンによる単純祭儀の宗教から、精神的宗教に変質をはじめたという流れだ。そして表面的には、輪廻からの解脱というややこしいスタイルをとりながら、ようするに「死んでも死なない」理論の構築に邁進したと、私は確信する。非難はできない。人間心理の自然であるで。ヤージャニャヴルクヤの出家は、その輪廻の動力としてのカルマンの法則、人間とは彼の行為である、一切のカルマンはその果実を有するという論理の流れだが、これも「不死の思想」をもとめた帰結であろう。

宮元啓一氏『インド哲学の教室』も旅先での再読のために持ち込んでいるが、死んだら空無に帰すという考えは恐ろしいことであり、日本人の多くが輪廻思想に好意的なのは、生まれかわる、再生できるという点にすごく救いを感じるからだという。だが、宮元氏はインド人は死を繰り返すことに着目し「輪廻転生は苦しみだと、インド人は見るわけです」と解説する。だが宮元さん、それは違うよ。わきゃないよ。口先の建前だよ。あんな自分勝手で現世享楽的で死を恐れるインド人が、そんなことを考えるわきゃないじゃないか。『マヌ法典』『実利論』『カーマスートラ』を読みなさいよ。トリヴァルガ(trivarga)だよ。人生の目的はアルタでありカーマ、ついでにダルマだよ。モークシャは口先のお飾りだ。人生は「苦」であり、止滅こそのぞましいなんぞ、いつの時代であろうと、何国人であろうと、そんなDNAに反することは考えるはずはない。また、そんな不健康な考えがそれだけ広まり、何千年もつづくはずがない。インド的輪廻思想は、「不死の思想のウラトラC的裏返し」であり、インド的レトリックなのである。神、天国、地獄、そして私の魂の四点セットの様式ではなく、つまり天啓を受けた預言者がはじめた宗教ではなく、ウパニシャッドの暑苦しい屁理屈屋のバラモンさんたちが、たがいの足を引っ張り合いながらはじめたから、こんな屈折した形になったのだよ、と私は思う。なんでも徹底的に言語表現にして大衆に主張しないと、気の済まない人たちのようだからなあ。

空無に帰する恐ろしさから、逆説的に、インド人は輪廻思想から離れられないのだ。輪廻=不死なのだ。これがインド的理由であり、「苦」はバラモン的こじつけである。中国人は不老不死の仙薬を、欧米人は神の保証による天国での復活再生をもとめたが、インド人は倒錯した屁理屈で、輪廻思想にしがみついていたのだ。つまり永遠の生命という思想に、である。ウパニシャッドの時代は、生と死を説明する神のない時代である。そのパラダイムの中での新思想の構築だった。やがて、それでは教義としてもたなくなり、具体的な人格神としてのヴィシュヌ、シヴァ神という絶対神の出現、すなわちヒンドゥー教に遷移したのは、これも自然である。神に帰依、パクティすれば、輪廻思想は御用済みとなる。仏教の四苦八苦も、ようするに死ぬのが怖いだけである。仏教も、それではもたないから、絶対的人格神が、阿弥陀仏ふくめて無数の仏として、やがて出現して人々を救済してくれる教義の流れに変容したのも、これも人間心理、マーケットの論理からすれば自然である。死すべき生を歩む人間の渇望でもある。コンシューマーの求めのあるところ、新教義がわさわさと創出開発されるのは、今も昔も、どのマーケットも同じである。

ホテルのプールサイドで、このような実もふたもないことを考える。さらにノートパソコンにパチパチまでしている。プールサイド向きの本ではないが、読んで、思いついたら、忘れないうちに文章化し、頭の中の整理をしたがるのは、癖であるからしょうがない。今日は、J・コンダを読むつもりだったが。

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