サーンキヤ哲学における輪廻主体について

今は昔、東京での交流分析の研修会に参加したことがある。最近、サーンキヤ派の本を読むと、ともに人間心理を三つの構成要素の配分比率として捉えるのが、なかなかに興味深いものだ。交流分析とサーンキヤの人間分析の比較をしようと思ったこともあった。

が、インド哲学のなかで、流出論的一元論、梵我一如をとかないサーンキヤ派は、やはり異質である。ブラフマンとアートマンを出さない。でも異質であるが、それでも輪廻とそれからの解脱を目的とするのは、ダルシャナである。では、なにが輪廻するのか。輪廻主体は、何か。これが、やはり避けて通れない体系の核心となる。無我あるいは非我説、とく仏教では、その教学上の課題で、無我なのに何が輪廻するのかというアポリアに苦しみ、さまざまな理屈あるいは屁理屈を構築したが、経量部、説一切有部、唯識派と、ずいぶんと苦労している。仏教もヒンズー教の一つであり、と私は思うが、仏教も最後は有我論、アートマンとしての輪廻主体の存在をみとめるという汎インド的に方向に流れたが、サーンキヤ派も、その理論構築では、ずいぶんと苦労していると印象する。宮元啓一氏『インドの二元論哲学を読む』でも、このあたりははっきりしない。

まず、古典サーンキヤ体系では精神的存在プルシャ(purusa)が本来いかなる束縛をも離れているとされる以上、輪廻主体としてリンガ (1inga)や微細身( sUksmaSarTra )の存在が想定された。このリンガや微細身については その構成などが必ずしも明らかにされているわけではなく、その点は同体系の大綱を示すイーシュヴァラクリシュナ著 Sjpakhyaharihaにおいても同様である。

近藤隼人氏論文『生死に流転する身体』によれば、SKに対する注釈書 Yuktidipika(YD)をもとに、Mahahhrata(MBh )モークシャダルマ(Moksadharma)部の検討を通じ、イーシュヴァラクリシュナの真意の在処に対して肉薄できるとする。まず、SKにおける輪廻主体議論の端緒としてSKの記述を検討することで、YDを解読の礎石とするとか。最初にリンガの様相を示すSK40−41を掲げる。

リンガは太初に生じ、妨げられることなく、[プルシャごとに]定められ、大(統覚)にはじまり(mahadadi )、微細なるものに尽き(sakSmaparyanta)、享受なくして輪廻し、[統覚]の諸状態によって色づ けられる。( SK 40)例えば[ 画布や壁などの ]拠り所なくしては絵画もないように、[また ]例えば杭などなくしては[その]影もないように。リンガが特殊態という拠り所を離れて( vina viliesaih )存立することはない ( SK 41)。

近藤氏いわく、ここからはリンガ に少なくとも統覚 (buddhi)が含まれることが理解され、”adi”と“ paryanta ”とに対し構成内容の最初最後という意味で対比を見出せ ば「微細なるもの」もリンガを成 すことになるが、その指示内容は判然としない 。そこでSKにおけるリンガの他の用例に目を転ずると、 着目すべきは SK 20 と近藤氏は論じる。 SK 20 ではプルシャとリンガとが結びつくことで、非精神的なるリンガが精神的であるかのようになるという。精神性を帯びるというこの点からすれば、リンガに統覚 ・自我意識 (ahamkara )・マナス(manas )が含まれることは予想されるが、しかし、タンマート(tanmatra)や元素 (bhUta)に精神性が付与されるとは想定しがたい。

そして、SK41の“vinaviaih ”に関しては“ vina avigeSaih ”と読 む注釈書も多く、リンガの拠り所たる“vinaviaih / vina avigeSaih ”が何を指すかという問題は解釈上の難題となっているが、その 解明のカギは SK38−39 にあると、近藤氏は考える 。SK38 では、タンマートラに“ aviSea”、元素に“ vigesa ” という別称が示され、SK 39 では「微細なるもの 」(sakSma )、「 父母から生じるもの 」「 発生したもの 」(prabhUta)として身体と思しき三段階の”vigesa ” に言及されるが、文脈上は一連の”viSesa/avigesa ”が一貫した意味で用いられていると考えるのが普通の発想であろう、とする。

また、SK 39 の”saksma ”は死後消滅する「父母から生じるもの 」との対比から生死を超えて恒常的に存続することが予想されるが、それはいうなれば輪廻主体リンガと同じ位置づけを担うものといえよう。ただし、その場合、“ vina visesih ” の“ viliesa” が三種の“ vi esa ”を指すとすれば、“ suksma ”たるリンガが その”visesa ”を拠り所とするとは考えがたく、しかも誕生後の個々の肉体 を指すと目される「 父母から生じるもの 」を含む “ visesa ” がリンガの拠り所となると考えるのも困難であろう、近藤氏はいう。

リンガが“ visesa ”( 微細身)を拠り所とする以上、少なくとも両者は異なるタットヴァから構成されることになる、輪廻主体として動きを伴う以上、遍在するプルシャとプラクリティがその構成要素となるとは考えがたい、と近藤氏が述べるのは、理屈としてはそのとおりであるが、現代の理屈である。なにせ、あの土地には世俗諦の上に勝義諦があるから。

YD はリンガを形容する「大にはじまるもの 」を八プラーナ(prapastaka )と理解しているが、それは“ pur”、” vac ”、“ manas ”、五風 (prarpa ,apana ,samana ,udatia ,vydna)を指すという。こ の前三者について“ pur ”は統覚にある〈自我意識の状態に対する意識 〉(aharnlcaravasthasamvid ) を指し、“ vac ”は行為器官、” manas ”は知覚器官を指すとみなしている。この“pur ”の解釈は要を得ないが、SK 40 の「大(統覚)にはじまるもの 」からリンガに統覚が含まれることに異論の余地はなかろう、とか。

一方、自我意識やマナスといった他の内官がリンガに含まれるのか否かは判然としないが、YDでは内官と知覚器官が微細であると明言されているため、それらは上でみた「微細」というリンガの構成要件を満た していることになる。加えて胎児の誕生過程において最初に“ asmi ”という意識が入り込むという点は、リンガに自我意識が含まれることを推知させる。また、マナスに関しては明言されないものの、マナス を欠いては対象認識も達成されえず、しかもそれが死後や受胎後にもたらされるとは考えがたいため、マナスをリンガから排除すべき特段の根拠は見出せない。以上より、三内官がリンガの一要素を成すと考え ても大過はなかろう、と近藤氏は整理する。

また、この「 微細」というリンガの条件に照らして、行為器官も微細と考えられていたのであろうか。内官と知覚器官を微細とする根拠として YD は、それらが微細であるが故にその説示は作用の説示をもっ て代えるとする。その 前提からすれば、行為器官も内官や知覚器官 ( sk・28ab)と同様に SK28cd においてその作用が述べられる以上、同じく微細であると考えられる。そして五風も微細と考えられるため 、五風および十三器官 が八プラーナとしてリンガを成すことになろう。無論ヨーガ行者等にのみ認識されるタンマートラのような例外も生じるため、微細であればすべてリンガに含まれるというわ けではな く、” sakSmaparyanta ” はあくまでリンガの必要条件にすぎないと解されうる。そしてこの八プラーナは微細身に分立するとされ、微細身は八プラーナの担持者とみとめ、それは十三器官以外のタットヴァでプルシャとプラクリティを除いたもの、すなわちタンマートラないし元素から構成されることが理解される、と近藤氏は理解する。

器官が微細身に含まれないという点は、微細身に関する諸学匠の見解の中で、微細身が器官を特定の場へと至らしめる旨の記述がみられることからも確証される。さらにまた。大元素から成る粗大なる身体は六 鞘  (毛 ・ 血 ・肉 ・骨 ・腱 ・精液)から成る( sfitkauSika )とされているが、そ もそ も六鞘が 「鞘」( kasa )と称されるのは、それが「八プラーナを伴う微細身」(sUksmdSartrarpsap am )を包み込む(aestana)からであるという。したがって、微細身の構成要素に元素が含まれるとは考えがたいため、微細身はタンマートラによって構成されるものと推知される。近藤氏は、以上のYDを検討する限りでは、SK 41 の“ visesa ” はタンマートラないしタンマートラから成る身体を指していたと結論づけられる、近藤氏は結論する。

それでも、”visesa”と輪廻との関連は判然としないが、輪廻主体に関して一例を挙げれば、個我( saririn )は死後五元素に入ると、聴覚器官などが五種の元素の特性に依拠するという。五風の位置づけこそ不明確ではあるが、この記述からは器官がタンマートラを拠り所として輪廻するという上の見解との類似性も看取される、とか。

結語として近藤氏は、YD を読み解く限りでは、五風および十三器官がリンガとして “ visesa ”すなわちタンマートラ(微細身)を拠り所として輪廻するという構図が想定される。この“visesa ” 解釈は SKの用語法に反する可能性こそあれ、輪廻に“visesa” が伴うのか否かという古来の論題およびモークシャダルマにおける“visesa ” の用法からも確証され、“visesa”は音声などを指す伝統的術語であったことが窺い知れる、とする。
2016-09-12-13-58-40
輪廻は、ややこしい。サーンキヤ派の輪廻主体の議論も、なかなかに要領を得ない。微細身も、もともと問題に無理があるから、誰がしても正しい答えは出ない。またアーヤラ識ほどの完成度はない。宮元啓一氏は、さまざまなインド哲学の解説書を書きながら、これらのダルシャナ人種を「思考の遊び人たち」と表現するのだが、アビダルマや仏教唯識派の仏教側論師たちが、「無我なのに輪廻する」という輪廻思想に対する輪廻主体の説明に大汗をかいたように、ダルシャナ側も大変である。「思考の遊び」というより「辻褄」をいかに合わせるか、理屈と屁理屈をどうつけるか、なかなか困難な話だ。タンマートラ(微細身)を数学における虚数概念のように持ち出したが、なかなか落とし込むのは大変である。プルシャとプラクリティの二元論の中に、輪廻主体である微細身を紛れ込ますのは、二元論の破綻である。世界において論理学を成立させたのは、ギリシャとインドのみだが、そのインド人の実力をもってしても、輪廻の完全な説明は、瞑想と直感的知覚による勝義諦であるとするしかないか。

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