グループホームに叔母を見舞う

叔母がグループホームに入ったと聞いた。盆を利用して見舞いに行く。山陰のホームである。さすがに土地はひろく、まわりは水田と緑である。だが、新しいホームなのに、廊下を歩くと、ごみがちらばっている。叔母の部屋に入ると、前にひろびろとして水田が見えた。風景はよい。だが、部屋のすみにくもの巣がある。その巣に白い埃が付いている。叔母は、神の与えた最後の恩寵の状態だった。わたしに笑いかけるが、わたしもあまり記憶にないらしい。叔母の心の平安をただ願うのみだが、ホームの汚れ、スタッフの顔にきつさが気になる。要するに、人が足りないのだ。指定のぎりぎりの人数でホームをまわしているのだ。掃除はと聞くと、毎日利用者と一緒に掃除をしていると言う。では、この床のよごれ、ごみはなんだろう。口調がきつい。
しょうがないとは思う。グループホームは、介護報酬が「まるめ」なのだ。サービスに対してではなく、施設に報酬が支払われるのだ。ホーム維持のためには、絶対に利益をあげる必要がある。それなくしては、ホームは成り立たない。収入が「まるめ」であり、それ以上の収入も、それ以下の収入もない定額である。利益をあげる方法は、たった一つ。コストのカットしかない。つまり人員の削減しかない。いいかえれば、サービスの削減しかない。最低限のスタッフを雇用し、それに担わせるしかない。より多いサービスを受けられるのは入居者の利益だが、逆に、つまりサービスをしないことでホームは利益をあげられる。入居者とホームの利益は相反するのだ。

特養もそうである。医療サービスを嫌がる老健もそうである。一時金方式の高額な老人ホームは、入居者の残存余命を何年と想定して値段設定し、その設定期間より先に死んでいただければ、ホームの勝ちであり、それより長生きされれば損が出て、ホームの負けである。あれは、保険業界の統計に基づいたギャンブルの一面もあるのだ。すべて利用者とホームの利益は相反するシステムなのだ。サービスをするとホームが損をするシステムになっているのだ。これが現実なのである。表面はどうつくろおうと、そのようなシステムなのである。
利益を確保するには、人員をけずる、サービスをけずる、そして月の定額収入を得るという形しかとれないシステムなのだ。非人間的とも言える。

その現実を、叔母のはいったグループホームで見せ付けられながら、すこし暗澹とするしかない。そして手前味噌ではなく、わが社のシステム、サービス付の住宅型有料老人ホームが、相対的にだが、もっとも良いシステムだと実感した。

訪問介護という形で、サービスは外付けの形となる。他の施設のように、一人のスタッフが複数、場合によっては十数人をケアするという形は認められない。あくまで、一対一のサービスが基本である。会話が飛び交い、より密接であり、濃厚である。放置はありえない。入居者の顔が違う。入浴していただくのは身体介護である。床の掃除は生活援助である。「まるめ」ではなく、一つ一つが加算されていくのである。サービスをたくさん受けるのは入居者の利益である。サービスをたくさんするのは事業者の利益である。利益は相反しない。しっかりと一致する。そして、逆にトータルの費用は、どこよりもわが社のシステムが安い。より良い世話をすることはホームの損失になるシステムと、逆に、ホームの利益になるシステムとどちらが良いか、これは論じるまでもない。

そう納得した。
かって介護付有料老人ホームの指定をとろう、グループホームに手を挙げようと考えたこともあった。だが、以後は考えないようにしよう。手を出すまい。その形、そのシステムの中に入れば、おそらくわたしも必ずそのような考えになり、そのようなことをするであろう、からである。そしてスタッフもそのような顔になるであろうから。今の形でよい。そう叔母から教わった。

会社に行くと、昨日の茨木マリアヴィラの夏祭りの話をしていた。焼肉大会をしたらしい。みな大喜びをしたとか。胃ろうの人が三人おられるのだが、そばで匂いを楽しんでいたとか。そしてハーゲンダッツをスプーンにいれて、なめて頂いたら、三人とも声をあげて大喜びされたとか、そうスタッフが嬉しそうに言っていた。ほっとした。

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