扁桃体至上主義 その9

この「扁桃体至上主義 その2」において、仏教はこの動物脳の働き、三毒を克服すべき煩悩の最たるものとしたが、また一面で、これは人類存続の、個人の生命存続の危機管理器官でもあり、愛と憎しみをつかさどる器官でもある。つまり、『ヨーガ・スートラ』でもいうヨーガ・チッタ・ヴリッティ・ニローダハとは「扁桃体」の働きを止めよ、あるいはコントロールせよということか。 それとも、「扁桃体」の出力を、自我意識を発生させるという「帯状回」と「前頭葉」のネットワークにわたすな、ということかと書いた。

また、瞑想と脳科学をかたるどの本も、人間脳により暴走する動物脳をコントロールするのが目的であり、新しい脳の回路をつくることにその効用があるとする。動物脳性悪説である。たしかに、情動を記憶する「扁桃体」は、プラスの感情1対マイナスの感情が5らしいから、10万年前はともかく、すでに都市文明下にあるわれわれの社会での適正な心の比率構成とはマッチしない。この1対5の比率で、不安や疑い、自己保存と逃走が情動のメインストリームなら、つねに相互不信であり、自己否定であり、生きづらくなるのは当然である。ハーバード大学の瞑想と脳科学の研究でも、「海馬」が大きくなり、「扁桃体」が小さなくなったことを、瞑想の効用として特筆している。動物脳性悪説、「扁桃体」性悪説とも思える。『ヨーガ・スートラ』でもいうヨーガ・チッタ・ヴリッティ・ニローダハであり、仏教瞑想でも、この三毒にみちた心の働きを止滅させるように教える。

だが、である。
この喜怒哀楽、「扁桃体」のうみだす情動の心こそ、もっとも人間らしい心ではないのか? 出家し戒律を真に守る僧侶なら、そりゃ不要だろう。邪魔だろう。だが市民社会のなかで日常生活をおくる我々としては、喜怒哀楽の情動の心を止滅させてよいものか、となる。

男として生まれて、あるいは女ととして生まれてもだろうが、恋愛は良いものである。脳科学者茂木健一郎氏の『脳は0.1秒で恋をする』は、以下のように述べる。

実際に人はどのようにして恋に落ちるのでしょう。 脳内で起こる「恋愛のメカニズム」を、一目惚れ例にして見ていきましょう。 脳にはおもに、ふたつの情報処理経路があります。 ひとつは、「扁桃体」を中心とする情動系。もうひとつは理性的な判断を司る「大脳新皮質」です。 「扁桃体」は、おもに瞬間的な反応や感状を司る部位で、ここの働きによって人間の最初の好悪の感情は決定しています。意識に上る前の無意識の段階で、「これは好き」「これは嫌い」と瞬間的に判断している。いわゆる「直感」と呼ばれるものも、この「扁桃体」の働きによるものです。目の前で起こった出来事を、頭の中で言語化して整理し理解する前に、稲妻のような速さで結論を下して行動に移しているのです。 ――中略――、 一目惚れの瞬間、脳の中では、まさにこの「扁桃体」が大きく活動しています。いわゆる「ビビッ」と来るのが、その瞬間です。 そして後から、「大脳新皮質」によって冷静な判断が始まります。「この人の笑顔が感じがいい」「性格も合いそう」「こういうところが好き」というように。最初の「直感」に対して、理由づけをしていくのです。 どうしてわざわざ理由づけをしていくかというと、やはり最初の「直感」だけでは、自分でも心もとないからです。人間は、理由を必要とする生き物です。ただ「好き」というのだけでは不安で、「どうして好きなのか」というところまで理解したい。その分析を、「大脳新皮質」が担当してくれるのです。 ――

直感、つまり一目惚れ「扁桃体」の瞬間の判断は予想以上に正確であり、アメリカのデータでも、5割が離婚するあの国において、一目惚れによる結婚は、離婚率が1割程度らしい。棋士の羽生善治氏の『直感力』によれば、直感による選択は無意識のように感じられても、実際は脳内に蓄積された経験や知識が瞬時に答えを導き出している状態なのだそうだ。ふつう直感の七割は正しいとされる。

とすれば、そのような「扁桃体」の判断と情動の力を、すべて煩悩として否定し、切り捨てる過去の仏教の教義やヨーガ・チッタ・ヴリッティ・ニローダハでは、これも逆に生き辛いことになる。最近、「仏教1.0」「仏教2.0」「仏教3.0」という主張もあるが、わたしは「扁桃体至上主義」を勝手に提唱したいものだ。一般方向は、インド的トリヴァルガ(trivarga)である。「アルタ」と「ダルマ」と、そして大事な「カーマ」である。「アルタ」も「カーマ」も、よき「扁桃体」の作用である。喜怒哀楽そして愛、「扁桃体」のうみだす情動の心こそ、もっとも人間らしい心ではないのか? それを否定するのが「仏教1.0」「仏教2.0」の欠陥であり、まだ「仏教3.0」は無い。

最近の脳科学の進化は、じつに興味ふかいものだ。心は存在しないなど、いささか寂しい方向性だが、とりあえず「わが愛しの扁桃体よ、わが情動の心よ」と呼びかけようか。わたしの中には君がいるのだ。サーンキヤ派が、仏教が、脳科学がどう言おうと、君がわたしだ。

でも、俺って、なんやねん。頑張って生きているのに。瞬間の生成でしかない自我意識(ahamkara我慢)が、自己(self)にはげしく執着して、「これは私のものである」「これは私である」と日々さけんでいるだけなのか。こまったなあ。 なあ、「わが愛しの扁桃体よ、わが情動の心よ」だ、でも、それが人生やな。「アルタ」と「ダルマ」と、そして大事な「カーマ」だからなあ。「沈香も焚かず屁もひらず」では、何回蟻になったりネズミになったりして輪廻したかは知らないが、今、人間として生まれたかいが無い。だが、わたしはわたしだが、わたしはわたしの傍観者なのか。そしてわたしはいないとわ。

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