インパールなのだろうか

 いざインパールへか。昨年末に成立した安部政権は、現在、高い支持率をほこる。世襲三世議員である安部氏は、それまで、とくに経済問題に対する意見、見識は無かった筈であるが、昨年末から、おおいに経済通として自己演出し、マスコミも彼の卓抜した経済運営能力を讃えだした。株価が上がった、円が安くなったと。 アベノミクスである。

 日本の社会保障制度の維持可能性について、老人ホーム事業者として、長期銀行融資借入契約者として、すこし心配している。安定した形で、これからの高齢化社会を支えて欲しいものと願っている。言葉を換えれば、日本の国家財政が安泰である事を強く願っている。我が社は、業界は、制度内で生きる事業者、業界であり、行政リスク、制度破綻リスクに敏感にならざるを得ない。財政と金利の動向は、老人ホーム事業者にも、大問題である。

 すこし整理しよう。以下、個人的「お勉強」のメモである。文章にすることで、自分の脳内を整理するためであり、社会的意見ではない。自分が何を漠然と考えているかの見える化である。誰のためでもない。ご意見は無用である。

 そのアベノミクスの政治任命として、今までの日銀路線を否定する形で黒田総裁、岩田副総裁が選ばれた。それまでの、部外者としての反日銀的言動が好感された訳だ。アベノミクスの家庭教師も、脱藩官僚と在米のリフレ派研究者だそうである。
 まあ、私の直感からすれば、日本はその重要な政治の柱の一つである金融部門において、黒田リスク、岩田リスクを負うことになった、と思う。リフレ政策は、有効性を確認されたものでは無い。反リフレ派の研究者は、有効性はなく、逆に経済と財政に害を及ぼすとする。しかし、検証されなくてもかまわないサラリーマン研究者間の論争、机上の二択ごっこならともかく、政策は、日本の将来を決定する現実的な、血が出る丁半博打である。
 そして、日銀総裁が、日本の金融、「円」の番人であるならば、変化する世界情勢、国内の変動に対して、機敏に自らが変身し、最適解を出し続けねばならない筈である。その変身のスピードが、事の成否を分けるだろう。金融市場も株式市場も、ランダム・ウォークするのであり、「円」も国際商品の一つであるからである。株が誰にもコントロールできないように、通貨・為替も誰にもコントロールできない筈である。だから、機敏に変身しつづけるしかないのは当然であると思う。
 リフレ政策が有効かどうか、まだ決着はついていないのに、だが、黒田・岩田組は一つだけの立場、解、リフレ政策に「固着」せざるを得ない。つまり一つ覚えをつづけるしかない。途中で仮に内心では破綻に気づいても、自分が言い出したことである。間違ってましたとは、これは言えない。転進、撤退、和平、降伏は出来ない。それは、自らの職業的人生、自らの全存在の破綻となる。変身は、とても出来ないのである。その彼等が、「円」の担当者になったのである。

 作戦起案者は、戦況がどのように悪化しようとも、前線に突撃は命じつづけるものだ。拳銃自殺の覚悟でもないかぎり、自らの作戦の変更、否定はしない、出来ないのである。歴史にも、そのような例は、ほとんど無い。
 これが、私が思至った黒田・岩田リスクである。本能的に確信しているが、何年後ではない。すぐに来る。彼らは博打打ちでもないのに、おそらく博打の経験もなく、賭博の勘と勝負根性をみがいてもいないのに、鉄火場の仕切り人になって「しまった」のである。

 直感的にだが、そう答えは出た。次は、なぜ脳内が動いたかを、すこし考えよう。

 岩田副総裁は、就任会見でミルトン・フリードマンの「デフレは貨幣的現象だ」との言葉をを引用して、リフレ政策の有効性を強調した。古典的な「貨幣数量説」の立場である。大胆な金融緩和で貨幣の量を増やせば、貨幣の価値はさがるが、物価は上昇しデフレからは脱却できるという主張である。
 これは18世紀に登場した単純な理論で、世の中のモノの量は変わらず、お金の量だけ二倍になれば、モノに対してお金の価値は下がり半分になる。つまり物価は二倍になる。
 話しは分かるが、もし理屈遊びではなく実際の政策とした場合は、社会・国家・市民生活の基礎であるお金の値打ちを潰すことにより物価が上がるという、飛んでも政策である。
 お金の値打ちが下がって喜ぶのは、今の額面で金を返せばいい多重債務者だけである。彼らは、デフレは苦痛であり、インフレ万歳、あるいはインフレ熱烈歓迎である。私でも、借入金利が固定されており、借入金の額面がそのままで実質目減りなら、でもインフレにより返済が楽で収益が数字的に増えるのであり、そりゃ楽でしょうよ。インフレで苦しむ殆ど大多数の皆さん、御免なさい、だが。

 この古い考え方を、フリードマンが再評価し、1970年代から先進国の金融政策に取り入れられるようになった。ただそれは、今の日本とは真逆で、デフレ対策ではなく、過剰なインフレを抑制するためだった筈だが。
 リフレ政策は、昨年末の安倍氏の選挙公約で知られるようになったが、リフレーションというのは要するにインフレのことで、「インフレ派」というのは格好が悪いので、こういう名前にしたそうである。こんな奇妙な「派閥」が存在するのも日本だけだそうである。
 彼らの主張は「日銀がお札を刷ってインフレにすれば、日本はデフレから脱却できる」というものだ。これは日本のオリジナルではなく、先生がいる。1998年のクルーグマン論文である。
「It’s Baaack! Japan’s Slump and the Return of the Liquidity Trap」復活だぁっ! 日本の不況と流動性トラップの逆襲という元気のいい題名である。

 目次は、
1 はじめに2
2 流動性トラップの理論再訪
2.1 一般的な配慮事項
2.2 マネー、金利、価格:最小限のモデル
2.3 価格が柔軟な経済での流動性トラップ
2.4 ヒックス式の流動性トラップ
2.5 投資、生産資本
2.6 財や資本の国際移動
2.7 金融仲介業とMonetary Aggregates
2.8 財政政策
2.9 信用性と金融政策
2.10 まとめ
3 日本のはまった罠
3.1 日本の停滞
3.2 貯蓄と投資
3.3 銀行の問題
3.4 政策的な手だてとそれぞれの帰結
4 むすび
 となっている。彼の論理は単純で 池田信夫氏の整理を流用すると、
1. 日本の不況の原因は「貸し渋り」ではなく、投資需要が低くて自然利子率がマイナスになっていることだ。
2. 名目金利をマイナスにすることはできないが、インフレを起こせば実質金利(名目金利-物価上昇率)はマイナスになる。
3. しかしゼロ金利では国債と貨幣は同じになるので、いくら貨幣を供給してもインフレにはならない。
4. 中央銀行がインフレ目標を設定して「4%のインフレを15年間続ける」と宣言すればインフレは起こる。
というものである。この3までは正しいが、問題は4である。日銀がインフレを起こす手段をもっていないことはクルーグマンも認めているのに、クルーグマンはなぜか「日銀が約束すればインフレ期待が起こる」という。では日銀が期待を変えるメカニズムがはっきりしていなければならないが、クルーグマンのモデルでは期待は外生的に所与なので、中央銀行が変えることはできない。モデルとして破綻しているのである。

 これは日銀の白川元総裁も指摘し、「クルーグマンの理論には論理的な『穴』があるので、日銀としてはとりえない」というのが当時の総裁ふくめて日銀担当者の結論であった。

 ふつうに考えて破綻した論理であり、クルーグマンとそれを日本で受け売りした経済学者らの主張は日銀に無視され、学界でも忘れられた。だが、最近の金融危機でまた注目を浴びる。10年前の日本と同じ「デフレ・ゼロ金利」という状況がアメリカに出現したからである。しかし、かつて日銀に「インフレ目標を設定しろ」と迫ったバーナンキは、まったく人為的インフレ政策に言及しないし、日本のリフレ派の学説的な根拠であるクルーグマン自身は”There’s no realistic prospect that the Fed can pull the economy out of its nose dive”と金融政策の無効を宣言してしまう有様。その後、彼は1998年の論文の話をしない。かつてインフレ目標を推奨したスティグリッツも、「インフレ目標なんかやめろ」と言い出す始末。

 すっかりハシゴをはずされた日本のリフレ派は四分五裂状態となり、教祖の岩田規久男氏もリフレをまったくいわなくなったそうである。彼らの学問的な信用は失われたのだが、ここで拾う神あり。つまり、総選挙を前に、なにか目玉的な派手な政策を求めていた安部氏である。彼は、誰か家庭教師の知恵で、これに飛びついた。

 こうして安部氏が政権奪取後、成り行きであり、反日銀の黒田・岩田氏が正副の総裁となる。そして、岩田氏は副総裁就任の会見で、この政策は、フリードマンの理論を根拠にしているとの趣旨の発言をする。自分の研究成果ではなく、「アメリカの学界の権威」がそう言っているというのである。自前の理論も実証データもなしに、である。

 最近、経済学のお勉強をしている。わたしも、中小零細事業者として「最適化された個人」になりマクロの「金利」変動と、親亀の背中の小亀として「財政」を考え、「負の外部性」から逃れる用意をせねばならないから、なにがなにやら、あれやこれやで、ともかく大変である。

 マクロ経済理論は、一国の経済の状態の分析、政府や中央銀行の財政・金融政策はどうあるべきかを研究する分野である。
 大きく分けると、一つはアダム・スミス以来の伝統的な市場経済を信奉する新古典派経済学の考え方がある。市場経済が効率的な資源配分を実現し、競争市場においてすべての個人がよくなるとする。そして経済自由化と競争を推進しようと考える。また、世の中への貨幣供給量が物価変動に影響を与えるという「マネタリズム」という考え方を持ち、「インフレとはいついかなるときでも貨幣現象だ」と述べる米経済学者のフリードマンが主唱した。

 もう一つは、市場メカニズムの有効性を疑問視する見方である。ケインズ経済学である。ケインズは自由放任の市場では経済が行き詰るとし、政府による経済政策の有効性を説いた。有効需要(貨幣的裏づけを持つ需要)の不足を刺激するための財政政策の理論的基礎となっている。

 つまり、マネタリズムとケインズ経済学は「水と油」である。そのため、あらゆる経済問題において賛否両論があり、経済学者の提言も、十人十色であり、まったく異なる主張がなされる。
 40年前のマクロ経済学はケインズ経済学であった。資本主義経済は自由放任では時には機能不全を起こすため、財政・金融政策で補完することを考える経済学である。当時、それに反対する米経済学者がフリードマンであり、自由放任で市場はうまくいくとし、裁量的経済政策を批判した。この考え方は、米経済学者のルーカスらによる「合理的期待」理論などを通して、現在では各国のマクロ経済学の主流になっている。
 合理的期待理論の世界では、家計や企業など人々の将来に対する「期待」に働きかけることを、政策効果を波及させる重要な経路としている。人々が将来、インフレを期待するとなれば、インフレが実現する、とする。日本の「リフレ派」はこの影響下にある。デフレからの脱却のために「大胆な金融緩和」によって人々にインフレ期待を生じさせようと考える。これがアベノミクスの金融政策である。

 もちろん、二つのマクロ経済学は、どちらも理論であり、仮説である。アベノミクスのリフレ政策を疑問視する経済学者は、合理的期待の概念は、株式や為替、穀物などの一次産品の市場では有効で、金融政策はこうした資産市場には影響を与えられるが、モノ(実体)市場では、金融が緩和されてもモノやサービスの価格がすぐに変わるのではないとする。デフレの鍵は、ながくつづいた賃金の下落にあるのであり、また、技術の革新とグローバル化による供給自体の過剰にあるのだと見る。企業間の競争も激しく、世界的に物価は上がりにくい状況であると。また日本はもともと他国と比べて物価が高すぎるのであり、企業も競争力を挙げて価格を引き下げようと努力してきたのである、と。ゆえに、金融政策でデフレ克服はできないと論じる。だが、リフレ派は、インフレ目標をたて、インフレ期待を喚起し、量的緩和と国債の日銀買取りでデフレが克服できる、これは、やってみなければ分からないとする。

 経済誌等は、これを「偽薬」効果と表現することもある。偽薬でも、効くと「期待」し、そう信じれば効くプラセボ効果があるからである。しかし、正薬と思い込んで偽薬を飲んだ場合に効くのであって、偽薬とはじめから知っていれば、これは効くわけもないのであるが。
インフレ論争は、「効果が出る仕組みが解明されていない薬」を投与するかの議論と似ているとされる。「一度は試してみて副作用がでれば対応すればよい」と考えるか、「仕組みが解明できていないのに投与するのは無責任であるし、仮に副作用が出たら重大な危険をともなう」と見るかで、これはもう思想・哲学の問題というより、丁か半かの世界である。
 もちろん、アベノミクスはインフレを起こすことのできない偽薬であっても、偽薬にも場合によっては効果があるので、副作用がなければいくら出してもかまわないが、日銀による国債の大量購入は、将来の日本の財政に甚大な被害をもらたすとの予測も多いのである。それに2%のインフレ目標を設定しているが、各国でのインフレ目標はインフレを抑制する目標であり、安定している物価を引き上げる目標を設定した国はない。日本のインフレ目標は、インフレを抑制する政策ではなく、無理にでもインフレを起こすという真逆の発想である。
また、どうやって物価を引き上げるのかという手段が不明だ。これまで日銀が10年以上やってきた量的緩和でインフレは起こらなかった。普通、量的緩和はすべて無効だというのが学界の結論のようであるように見える。また元財務官の榊原氏のように、日本はデフレではないという論者もいる。このミスター円は、今の円の水準は適正であると言う。

 新しい日銀の正副総裁は、今までの日銀を執拗に批判することで今の地位を獲得したが、そのリフレ派発言、つまりインフレ化発言の主張にそって過激な「異次元」の量的緩和が行なわれると、通貨の信認が失われて国債や円が暴落する(金利が上昇する)リスクがある。暴落を防ぐために日銀が通貨を供給すると高率のインフレになり、それを引き金に銀行が国債を売り逃げると財政が破綻し、金融システムが崩壊するとの意見も多いようである。
経済誌は黒田路線を「壮大な実験」と表現する。実験か。その理論の実証データがじつはなく、とりあえずGOであるから、実験である。つまりギャンブルであり投機である。典型的な投機的政策であると考えても、おかしくは無い。

 安心感のない、ややこしい話である。

 わたしの立場は単純である。銀行の長期融資を受けている老人ホーム業者として、日本の財政つまり社会保障制度の維持可能性と、融資返済における「金利」が将来どうなるか、場合によっては社会保障制度が維持できなくなり、金利が激しく暴騰しているのではないか、それを怖がっているだけである。トリッキーな意見が、日本の財政や銀行を痛めつけること、そしてわが社を痛めつけることを勘弁してほしいだけである。
経済学の再勉強をしている理由も、そこにある。薀蓄のためではない。リスクがあるならば、事前にそれをヘッジできる体制を組まねばならないからである。

 と言っても、それを十分判断できる力も情報も無い。また生兵法をふりまわすのは、危機対策としては宜しくない。
 ずっと日経新聞と経済3誌を購読し、継続的に読み続けてる。日経新聞を信用している、経済誌を信用しているというわけではない。バブル期の日経新聞や経済誌を今とりだして読み直せば、バブルを煽るとんでもない記事や間違い分析だらけで、バブルの戦犯的な内容にあきれる。
 でも、日経新聞と経済3誌を長年読み続けていると、だいたいこの人の言うことなら信じて良かろうと言う論者がいる。その逆に、この人物あるいはこのような立場の論者の場合は逆バリだなという論者もいる。まあ、経済学者も経済評論家も論者となっている投資会社、証券会社のメンバーも、もとはバブルを煽った人物ばかりであろうが、それでもあれから20年。何人かは信用できそうである。

 その一人として、東洋経済誌での野口悠紀雄氏の意見を常にベンチマークしている。つまり、その言説を素直に信用している。そして、そのフレームで見ようとしている。
 氏は、明確にアベノミクスを否定する。たしかに株はあがっている。破綻寸前のシャープの株が、4割あがったそうである。パナソニックの株も上がったそうである。異常であると。実体経済とはなんの関係もなく株が上がっていると指摘する。つまり株式市場と実体経済は、連動しない、別であると説明する。日本の代表産業である鉄鋼産業をみても、高炉4社すべて収益が激減しているのに、株価は大幅上昇している。氏は、まるで不思議の国のアリスになった気分だという。赤字企業でも「株価が上昇すると期待されるから」株価は上がる。これはバブルのメカニズムだと氏は言う。また円安でも、現在の実データでは輸出高は、逆に減少していると氏は説明する。すでに日本は貿易収支が赤字化しており、円安は輸入価格を高騰させ、日本経済の打撃となるとする。この野口悠紀雄説に一票を入れる。
 なるほど、そもそも、日本は貿易収支で入りと出が均衡している為替中立国であり、円高でも円安でも、メリットを受ける業種とデメリットを受ける業種の双方があり、どちらでも良いといえば、良いのである。トヨタは円安がよいであろうが、電力会社は円安は困るわけである。まあトレードオフだ。為替中立なら、円安も円高も、まあプラス・マイナス・ゼロである。円安でもよいわけである。円高でもよいわけである。しかし、恒常的に赤字状態になると、円安は不利になる。インフレ誘導、円安政策は、これは落第となる。
 新日銀の正副総裁は、特定の、つまりフリードマンやクールグマンの仮説で金融政策をいじり、その結果、実体経済にダメージを与えるのではないかという印象を感じる。安部政権により株式・為替、つまり株が上がり、円が安くなったとマスコミは讃えている。しかし資産市場は、欲の皮である。利食いの「期待」で動くが、実体経済は、それとは切り離されている。株式市場のランダム・ウォークは、マネーゲームの常態であり、それは政策の結果ではない。破産寸前のシャープの株が高騰しているなど、まともではない。なにか、よくないような気がする。

 世界の戦史上最も愚劣と言われるインパール作戦だが、だれの目にも敗北が明らかでも、だれも「中止」という言葉を出せなかったそうである。ビルマ方面軍の河辺司令官と、作成の主導者である牟田口軍司令官の惨敗の認識があった後での会談でも、牟田口軍司令官は、自分の口から言えずに、わかってくれて「誰かが言って欲しかった」そうである。「抗命」し、牟田口軍司令官を斬り殺すつもりでおいまわした佐藤中将は、精神病として隔離された。
 そのまま、作戦は延長されて、さらに甚大な被害をだし、10万の出動兵力のうち生きて帰ったのは3万。退却路には死体がかさなり白骨街道と呼ばれた有様である。

 周囲の反対を押し切り、やってみねば分からないではじめた作戦で、しかし作戦を主張した当事者として、止めろと「誰かが自分の心を察して言って欲しい」が「自分の口」からは言えないのである。戦後になっても牟田口氏は、失敗を部下の責任にし、自己正当化に熱心だったそうである。

 そして岩田副総裁は、就任の会見において、もし2年後に失敗していたら、その時は辞任するそうである。なぜなら、辞任が最大の責任の取り方だそうである。最大の責任の取り方は「割腹」でしょう。中小零細のオッチャンでも首をつる覚悟はある。その時は、日本は惨憺たることになっているはずだから、それをほっとらかして「転職」はないだろう、と思う。奇怪な就任発言であり、サラリーマン学者の性格がよく分かるエピソードである。

 これは、丁半博打の世界以外の何者でもない。これから「壮大な実験」つまりギャンブルが、日本経済と社会を賭け銭として始まる。わたしは「野口悠紀雄説」をとる。「半」にはり、それを前提に未来予測するが、この黒田・岩田リスクを、つまり自分達の言い出した硬直した政策、変更できない政策を抱え込んでインパールに出撃するリスクに対して、それをヘッジできる用意が、政府内にも準備されていない印象である。
「リフレ一本槍」で、ランダム・ウォークするグローバルな株式、変動をつづける為替市場、国際情勢に対応できるはずはなく、「変化のスピード」こそ最重要なのに、特定の仮説をもとに「決して変化しない」ことを宣言して、そのとおりにするしかないのであるから、「半」の予想勝率は、高そうである。

 「壮大な実験」だそうだが、でも目の前で、このような経済理論が試される実験場ができて、ひさしぶりに勉強できた。他国の経済学者も、日本のひとり人体実験を、興味津々で凝視していることだろうなあ。どちらにせよ、結果は出る。どちらに転んでも、とりあえず経済学理論の発達には、研究材料、実証データとして貢献できるだろう。
 さて、老人ホーム事業者としては、具体的にどうしたら良いのだろう? 私的予測では、まあスタグフレーションかなあ。ではどうするか、これが次の課題か。脳が「流動性の罠」にはまり込み、なかなか整理がつかない状態ではあるが。もちろん負の外部性とやらの問題もあるが、団塊世代としては、超ミクロ的に自分自身の耐用年数も重大テーマである。大丈夫かいな。

 とりあえずは低金利に押さえ込まれそうである。これは結構。しかし、この政策が明確に失敗したとされた時期から、一気に高金利が予測されるなあ。そういうことか。もちろん日本中が打撃をうけるだろうが。その時に、日本の社会保障制度の給付水準は、どう見直されるのだろうか。でも、どう対策しておけばよいのだろうか。あまり手は無い気がするが、まあ、ゆっくり考えよう。

 昨年12月の日銀短観では、全産業の利益率はせいぜい3%のようである。これは金利を払い、デフレ・インフレを気にしながら、コツコツと物づくりしてもしかたがない利益率である。3%では、首皮一枚。借金してまで事業・生産を拡大しようとする中小企業者はいないだろう。
 融資にあたっては、常に個人連帯保証をとられる。つまり最悪自己破産を想定せねばならない。3%は、そのリスクをテイクできる利益率ではない。この数字を前提に、事業計画など立てられない。3%のために、家族を路頭にまよわせ、自分は松ノ木にぶらさがる覚悟を決める経営者は、どこにもいない。アベノミクスが本気ならば、本丸はここなのだが。六重苦を解消し、産業を活発化させることこそ、最優先のはずである。規制緩和は時間がかかる。「三本目の矢」はここのはずなのだが、あまり期待できないのはなぜだろう。いくら政府部内で会議をしようと、画期的な新産業など、急にはできない。絵に描いたもちである。とつぜんにアップルもサムソンも生まれてこない。既存の産業の活力を高めるのが優先なのである。労働法と法人税の桎梏から、産業人を解放させることが、日本産業全体を一気に底上げすることになるはずだが。韓国はIMF危機に際して、建築の容積率をおおきく緩和した。その結果、建設・不動産業界が一気に活性化したそうである。この呼吸なのだが。まあ、だめだろう。しないだろうな。でも、してほしいなあ。

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