ダイソーの矢野氏

 わが社は1999年の創業である。その頃に、新聞のインタビューでダイソーの矢野社長の記事を読んで笑ったことがある。矢野氏は、いつ会社がつぶれるかと常に不安で、夜うなされて、突然に飛び起きたことが何度もあるとか。寝るときも、朝になったらつぶれていないか不安でしょうがないとか。まったく同感したものだ。その頃のダイソーは面白い会社と思ったが、今は巨大企業である。

 雑誌を整理していたら、2011年1月の経済誌に矢野氏のインタビュー記事があった。その広島弁がおかしいのだが、読んでいて、その現場で叩き上げた感覚と、時代を感じる意見にはげしく同感した。以下、口調をまねて、その内容を整理してみる。

 ワシは経営計画などつくったことがない。足元を固めるので必死だったけえ、先を考える余裕などありゃせん。行き当たりばったりで、気がついたら大きくなっていた。ワシは、むしろ会社を大きくすることには消極的じゃ。それだけ固定費や在庫が膨らむけえ、経営が傾くリスクも大きゅうなる。手放しで喜ぶようなことじゃない。
そもそもワシは、会社というものは、いつかはダメになると考えとるんよ。だから、その日を少しでも先に延ばしとうて、何とか頑張って、そんな思いでやってきた。その根本的な考え方は、今も変わっとらん。

 会社が永遠に成長し続けるなんてありゃせん。それは二十世紀だけに許された価値観で、いまはもう通用せんと考えたほうがええ。二十世紀の後半は、いいことだけが起こり続けた特異な時代だったんよ。土地を買うにも、モノをつくるにも、とにかく強気で攻め続けた人が儲けよったし、五百坪の店を出すより、千坪の店を出した人が儲けよったし、千坪の店を一つ出すより、二つ三つと出したほうが儲かった。

 ところが二十一世紀は、まったく違うんよ。時代が変わったんよ。人口が減り始め、市場も縮小していっとる。いまの不景気も一時的なものじゃのうて、飛行機がダッチロールしながら墜落するように、経済が縮んどるんよ。いままでと同じ感覚で商売しても、うまくいくわけがない。

 二十世紀が「攻め続ける時代」なら、二十一世紀は「守り続ける時代」になるじゃろうね。

 野球でもなんでも、攻めとるときのほうが楽しいけど、いくら攻めても、それ以上に失敗するのが、いまの時代なんよ。こういうときは、いくら単調でつまらんと思っても、徹底的に守備の練習をしたほうがええんよ。経営でいうなら、会社を大きゅうして成長を目指すのではのうて、とにかく足元を固めて倒産しないことに全力を注ぐ。そうでないと、これからは生き残れないと思うんや。

 こりゃ、働く人にとっても同じじゃろう。人よりたくさん稼ごうとか、あいつより出世したろうとかいうのは二十世紀の価値観じゃ。いまは「勝つこと」じゃのうて「生き延びること」を考えることが必要なんよ。周りがバタバタ倒れるなかで、生き残っていれば、それだけで儲けものじゃ。勝ち負けはどうでもええ。生きるか死ぬかの時代になったことを、ワシらは自覚するべきじゃ。

 ワシは、世の中が好景気で浮かれているときも、株や不動産には手を出さず、ひたすら本業に集中して、今日明日を生き延びることだけを考えとった。「いつか潰れる」とおびえながら経営しとった。「いいことは長く続かない」「そもそも悪い状態があたり前」ということを経験から知っとったからじゃ。いろいろあったんじゃ。

 いま振り返ると、ワシの仕事人としての人生は、苦い思い出ばかりじゃ。その繰り返しで「自分は運がない」「能力がない」ということをつくづく思いしらされたんじゃ。でも、結果的にそれが良かったと思うとるんよ。何をやってもうまくいかんけえ、将来にたいして不安だらけじゃ。運が上向くと思うたら、不安を抑えられるんじゃろうが。じゃが、自分は運が悪いと思うとったから、その不安を跳ね返すためには、とにかく日々の努力を重ねるしかなかったんよ。じゃから、今のダイソーがあるんよ。途中で気ぬいたら、バブル崩壊やいまの円高のような危機に耐えられんで、消し飛んだと思うんよ。じゃから、会社が成長した理由を聞かれても、ワシはわからん。じゃが、毎日、不安におびえながらよ必死に頑張っただけじゃ。そうやって、成り行きで成長しとったというのが実感じゃね。

 人間の健康でもそう。もともとからだが弱い人は、食事や運動に気をつかい、健康診断も頻繁に受けるわな。じゃが、自信のある人は、そこにあぐらをかいて不摂生して、いざ体調が悪くなってら、もう手遅れなんよ。そう考えると、恵まれてるいることは、けっして幸せではない。健康に恵まれず、つねに不安がある人のほうが長生きすると思うんよ。
 ワシは、無理して明るい展望を描くより、心のなかから湧き上がる不安を大事にしたほうが、努力につながると思うんよ。将来に不安を感じるのは、人間だけじゃ。ライオンやトラは、いま腹が減るから狩りをするだけじゃ。人間は、明日のことを考えて食料を保存する方法を考えたり、来年も食うに困らんよう作物を植えたりする。こうした知恵を働かせるのは、人間が将来を怖がる生き物だからじゃ。せっかくそうした感性があるんじゃから、格好つけずに、将来を思う存分怖がればええと思うんよ。不安が強いほど、努力ができるはずじゃからね。

 矢野さん、いいこと言うなあ。その通りじゃけえ。
あんたと居酒屋でおでんつついて、その愚痴を一晩ききたいもんじゃ。
あんたは、活眼の持ち主じゃ。
 どこに行っても、成功を教えるところは多いが、失敗を教えるとこはないなあ。ここが大事なのになあ。
上り坂の上り方を教えるところは多いが、下り坂を、どう転ばないように下るか教えるところはないなあ。ここが大事なのに。
 孫子の兵法も、ある意味そうだ。あれは「必勝」の教えではなく、「不敗」の教えなのだ。勝つことではなく、負けないことがテーマだ。機動戦をおこなって敵を徹底殲滅するクラウゼビッツではなく、陣地戦のなかで前線を均衡に持つ込むリデル・ハートなのだ。

 矢野氏は、二十一世紀は、縮みつづけて、おおくの商売人が倒れていく時代と認識しているようだが、まったく正しいのだろう。同感。日本は、二十世紀後半の上り坂、司馬遼太郎の「坂の上の雲」がヒットしたような時代から、つまり後進国・中進国から先進国への時代から、二十一世紀は、先進国としての適正な「身の丈」に調整される、つまり二十一世紀前半は、坂を下りつづける時代になるのだろう。祇園精舎に鐘はなり、生者必滅、世は吉凶あざなえる縄。ピークアウトするのだから、一度は英国病を経るしかないのだ。そのなかで、どう再生させ組み立てなおすかが課題のはずだが。
アベノミクスなどという造語で、ありもしない坂を上りつづけようというのは、自滅の道だろうなあ。物価を上げれば景気がよくなるだと。矢野さんも、そう思うだろ。アホな。坂道をどう下るかを、矢野氏的にしっかり見つめて、倒れない努力をつづけるのが筋なのに、成長幻想で市場は盲動しているのだろうなあ。まずいなあ。

 矢野氏のいう「二十一世紀は、まったく違うんよ。時代が変わったんよ。人口が減り始め、市場も縮小していっとる。いまの不景気も一時的なものじゃのうて、飛行機がダッチロールしながら墜落するように、経済が縮んどるんよ。いままでと同じ感覚で商売しても、うまくいくわけがない。二十世紀が『攻め続ける時代』なら、二十一世紀は『守り続ける時代』になるじゃろうね」との言は、まったく正しい。はげしく同感。その流れに棹ささず、流れにどう従うかが、まずは囲碁で言えば、死活となる筋目だろうなあ。
二十世紀後半のヒット小説が「坂の上の雲」なら、二十一世紀後半にヒットすべき小説の名は、「坂の下の湖」だろうか「坂の下の砂漠」だろうか。まあ、そんなもんだろうなあ。大学院に矢野氏を招聘して、不安学、失敗学の講座をもうけるべきである。もっとも重要な人間の叡智であるから、これは必須講座である。まあ、若者の発想ではなく、いわば老人、老馬の知恵あつかいされるだろうが。

 しかし、ケインズやウォール街でいうアニマル・スピリットは、あれはライオンやトラをイメージしているのだろう。強者だな。そうではなくて弱者、ウサギやシマウマのような弱い動物の生存のためのアニマル・スピリットもあってよいのではないか。ウサギは、遠くの音をいちはやく感知するために長い耳をしている、シマウマは体に群れの迷彩をほどこし、逃げるために発達した脚をもつ。ライオンやトラにはない、鋭く発達した危機感覚をもつ。群れをつくる力ももつ。餌を貯める小動物もいる。防御に適した巣もつくる。ライオンやトラにはないアニマル・スピリッツである。強者のスピリッツもあれば、弱者のスピリッツもあり、それはけっして強者のそれに劣らない。ともに戦う知恵があるのだ。そういうことだ。攻撃しか知らないライオンの強さが、捕食に依存する刹那的なライオンの弱さであり、襲われるウサギの弱さが、自然から採食し、持続し固く守りつづけるウサギの強さとなる、ということだ。

 ここで、ひと理屈組み立てられそうだ。本でも書くか、題名は「弱さこそ勝利への道」だな。それから、社長業のかたわら某国立大学のMBAに行っているまるまるさま、ビジネススクールで絵空事を学ぶより、矢野氏のカバンもちをしたほうが、その感覚・感性・皮膚感を盗んだほうがええんやけどねえ。

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