瞑想し扁桃体を止滅せしめよ

三年前の9月13日の夜に、バンコクのサイアム駅そばの、知人ナムワンさんに連れられて、おぼえにくい名前の寺の夜の「行」に参加した。二時間だが、はじめの一時間は僧侶とともに読経する。パーリ語のあとタイ語で全員が読経する。音楽のような流れるようなハーモニーで、サマタ瞑想に近いものがある。後半の一時間は、僧の声にあわせて、結跏趺坐し、息を吸い、息を吐く。ヴィパッサナー瞑想である。夜の僧院で、インサイドメディティーションを行う。翌日14日の昼は、王宮寺の北にある学問寺 Wat Mahadhatu のメディティーション・センターの外国人向けセミナーに行く。ヴィパッサナー瞑想については、大阪においてスリランカ上座部のスマナサーラ長老の指導を受けたことがあるので、一応、初学の声聞である。
以下の文章は、仏教瞑想に関する個人的な感覚に基づく私見であり、個人的感想文である。つまり、今日において仏教瞑想の意味と効用とは何か、である。欧米においても、それがマインドフルネス瞑想として、非仏教徒にも、ずいぶんと受け入れられているらしい。
それについて、私は以下のように考えている。
人間のさまざまな器官の中で、生まれてから死ぬまで働き続けるのは、まず心臓であろう。肺もそうであろう。その他、さまざまな器官が死ぬまで休まず働きつづけるのだろう。だが、脳は眠るときはしっかり休み、そして「充電」をすると思っていた。レム睡眠のときは、脳は起きていて体を休めて、脳は記憶の整理をする。この時に夢を見ていて、ちなみに金縛りもこのときに起こる。逆にノンレム睡眠のときは、脳も寝ている。この、レム睡眠とノンレム睡眠は約90分おきに交代しており、即ち睡眠時間のおよそ半分は脳も寝ていると思っていた。最新の知見では、それは違うらしい。
脳科学者の池谷裕二氏によれば、脳の神経の活動を追っていると、大脳皮質の神経細胞は、寝ているときのほうが活動しているそうである。人間は浅い眠りと深い眠り、つまりレム睡眠とノンレム睡眠を周期的にくり返しているが、驚くことに脳は、深い眠りのときに最も活発に活動するという。例えば、100個のニューロン(神経細胞)があったとする。起きているときには、特定の瞬間だけみるとある瞬間に30%ぐらいだけ、ニューロンは動いている。長い時間で見れば全部のニューロンが動いているといってもよいが、特定の瞬間では、だいたいニューロンは30%ぐらいしか使われていない。逆に言えば、そういった「部分的に必要な分だけピックアップされた活動」が、おそらく私たちが「意識」と呼んでいるものではないかという。浅い眠りのときは、起きているときの状態によく似ていて、ニューロンは30%ぐらいしか活性化していない。ところが、深い眠りのとき、ニューロンは100個、全部が動いているらしい。つまり、寝ているあいだ脳はものすごく活動している。夜はしっかり休んで「充電」しているかと思ったが、逆のようである。池谷氏は、脳の中でも海馬の専門家らしい。なかでもCA3野という場所の専門とか。このCA3は、昼間に情報を集め、大脳皮質に保管する。このCA3で、睡眠中、とくに深い眠りのときに、情報の圧縮をするという。その作業を、夜にするという。深い眠りのときに脳細胞がフルに働くらしい。「脳は眠らない、昼以上に夜に働いている」らしい。
つまり、脳は生まれてから死ぬまで休むことはないらしい。心臓と同じようにだ。それは気の毒なことだった。疲労もするし、不調な時もあるだろう。現代では、脳の働きを「こころ」と称するらしいが、心が疲れるのは、脳が疲れたからなのか。「こころ」を休ませてあげたいものだ。元気にしたい。「わたしのこころを」である。
バンコクで考えたこと
仏教式瞑想は、宗教の枠を超えて、欧米でも流行している。心を活性化し、脳の疲れを癒すものとして捉えられているようだ。メディティーション・センターの生徒も、わたし以外は、みな欧米人であった。では、なぜ瞑想により、心が活性化でき、脳の疲れが癒されるのか。これは、「脳は眠らない、昼以上に夜に働いている」ことを知れば、答えは出たようなものだ。ヨガ行者などの脳波が測定されて、なにがどうしたとという議論があるが、エビデンスや論証などという煩わしいことはおいて、直感で述べれば、昼に30%ぐらいだけニューロンは動いているというが、瞑想は、それを20%ぐらいに下げる仕組みではないか。わたしは、そう直感する。だが、どの瞑想の本も、そうは書かない。悟りとか、精神統一とか。脳機能を全開させるようなことを書く。
また最近のアメリカでの研究では、昼においても、とくに具体的な何も考えないぼんやりした状態は、脳はデフォルト・モード・ネットワーク(DMN)と呼ばれて、何も考えていない筈なのに、もっとも活動しているらしい。この脳の「基底状態」とも言える活動に費やされているエネルギーは、意識的な反応に使われる脳エネルギーの20倍にも達するという。逆に、何かを考えている場合や、瞑想の際は、脳の活動が、つまり脳のエネルギーの消費が意外にも下がるらしい。
すると、瞑想の効用として、「脳を働かせないことで、疲れた脳を、管理的に休ませるのだ」のではないかと直感した。「管理的に」である。
瞑想で五蘊を止滅する―バンコクで思ったこと
王宮寺の北にある学問寺 Wat Mahadhatu僧院横のスターバックスで、チャンプラヤー河の水上バスの船着き場で、スナマサーラ長老の初心者向けの冥想ガイド本『気づきの瞑想法』を読んでいた。
その40頁で、「思考をカットし、感覚を止めると、心は成長する」と述べてある。そして「感覚を受けたところで心を止める」ことの重要性を語られている。また58頁では、人の心の動き、執着すなわち煩悩の発生の流れを説明されている。
①隣の人の手が、自分の手に触れたとする。
②すると「触れた」という感覚が生まれる。
③ここまでが「事実」である。
④ところが我々は「今触れたのは、隣の人の手だ」といった具合に、ついその先を考える。
⑤それは「判断」である。
⑥そのためには、たくさんの「思考」が必要である。
しかし、判断自体には実態は無い。我々の頭の中にしか存在しない。
⑧判断から執着が生まれる。余計な探求が生まれてしまう。
そして、ともかく、触れたら「触れた」、聞こえたら「聞こえた」、思いついたら「思いついた」と事実を確認して、それ以上の思考をカットしましょう、と述べている。つまり、①から③までで、④以下はカットせよと。
その解説への私の解釈、あるいは思い付きだが、仏教は人間存在を「五蘊」として捉える。「色」「受」「想」「行」「識」である。「色」は物質的存在を示し、「受」「想」「行」「識」は精神作用を示すとされる。五蘊が集合して仮設されたものが人間であるとし、またこれが煩悩と「苦」の発生原理とされる。すると、上記の①は「色」、②が「受」になる。④がいけない、これが「想」の発生である。そして「行」で余計なことをし、⑧で「苦」の原因となる「識」が生じる。つまり煩悩が生じる。Wat Mahadhatu のメディティーション・センターの外国人向けセミナーの午後の部は一時からオープンするので、ちかくのスターバックスで、このような「思いつき」に至った。
つまり仏教では、人間存在は無我であり、「五蘊」の産物と捉えるのだが、スマナサーラ長老は、それの二段階のみ、「色」と「受」のみで止めろと述べるのであろう。つまり、私式の解釈では、「五蘊」の生成を「断て」という意味となる。ヴィパッサナー瞑想は、いわゆる身随観であり、身体感覚にからだの動き感覚にラベリング、スマナサーラ長老の表現では実況中継するのだが、「色」と「受」のみをまわすのである。
そして、私見だが、それはconcentration 精神統一ではなく、逆に起きているときには、特定の瞬間だけみるとある瞬間に30%ぐらいだけ、ニューロンは動いているそうだが、その30%を40%するのではなく、「色」と「受」のみで止めることで、「想」「行」「識」でのニューロン活動を起こさせないことで、脳を活動させない、またデフォルト・モード・ネットワーク(DMN)状態にもしないこと、30%を20%するのだ、と気づいた。「脳を働かせないことで、疲れた脳を、管理的に休ませるのだ」という、脳のアクセルをゆるめる、できればアイドリング状態まで落とすことだと、私なりに、気づいた。おそらく瞑想により「想」「行」「識」という大脳前頭葉の働きと、そして扁桃体の働きを止めるのだ。「止滅」させるのだ。その間は「五蘊」を生起させないのだ。
脳科学の成果によれば、人間の意識の流れは、起きていても寝ていても、その流れは死ぬまで止まらないという事らしい。人間は、つねに考えつづける。ニューロンの動きをオフにはできない。だが、その動きを「色」と「受」だけのシンプルな、シンプルな動きにスリップさせることで、ニューロンの動きを最小限にし、脳のほかの「野」を休ませる事ができる。また、デフォルト・モード・ネットワーク状態にしないことができる。だから、ヴィパッサナー瞑想もその内容は、あきれるほどシンプルなのだと思い至った。煩悩の「止滅」により涅槃に至るのではなく、ニューロンと扁桃体の動きを「止滅」させることで、脳の疲労の回復をはかるのだ、休ませ、養生し、いたわるのだ、そうスターバックスでカフェラテを飲みながら、思い至った。
そこで私見をでっちあげると、瞑想の今日的な意義は、あるいは効用の一つに、脳の活動を30%から20%にダウンさせる「脳を働かせないことで、疲れた脳を、管理的に休ませ養生するのだ」と私は理解したい。
してみると、解脱まで求める本式の仏教瞑想ではなく、私レベルの煩悩にまみれた酒好き初学者での瞑想の役割りは、脳のニューロンの活動をスローにすること、できればアイドリングまでダウンさせることで、心臓と同じく、生まれてから死ぬまで動き続ける脳を、「ねんころろ、ねんころろ」と休ませることだと理解すれば、私なりに納得できる。また、煩悩まみれの日々の思考の形から、新しい脳の仕組み、新しい脳のOS(オペレーション・システム)に換えることではないかと、そう思い至った。「四苦八苦」から離れる、それを客観視できる脳のOSをつくるのである。
そして、脳の休息(養生)時間だが、スマナサーラ長老は歩く瞑想は一時間はしなさい、と指導されているが、できるだけ長い時間を瞑想に、つまり脳の休息(養生)時間にするのがよろしいことになる。それには瞑想の技量、ニューロンの動きをコントロールする技量、concentration 精神統一というより雑念をカットする技量が必要であり、ある程度の修行がとうぜんに必要になる。Wat Mahadhatuの指導僧も、Monkey Mindをカットし、意識をBody and Mind にのみ注ぐようにと繰り返し述べていた。これも、「想」「行」「識」をカットし、「色」と「受」のみに在れと解釈すれば、私なりに腑に落ちる。
付言すれば、最新の脳科学の成果によれば、瞑想修行を継続することにより、脳の海馬がおおきくなり、扁桃体が小さくなるという。この扁桃体こそ、人間の情動、怒り、愛情、好悪、攻撃、逃走その他の原始感情をつかさどるものであり、じつに「煩悩」の発生源である。我々のネガティブな感情の発生源であり、「四苦八苦」の発生源である。禅定により、偏桃体の働きを鎮める、結果として、二千数百年も前に、それを「止滅」させる方法を発見していたとしたら、仏教はじつに偉大である。

でも、バンコクはすでに遠く

2018/05/18 そして、一人での誕生日。

カテゴリー: 未分類 パーマリンク