アルカイダを読む

たまたま旅先の古書店で「オサマ・ビン・ラディン発言」という2006年の本を買った。彼のさまざまな発言をイギリスの研究者がまとめて、その英文を日本語に翻訳したらしい。原著者のイギリス人は「本書に収録した声明に述べられてる意見は、訳者の個人的見解とはまったく関係ない」とことわって、ビン・ラディン発言を整理し、その思想をどう解釈するかは、読者に委ねようとしている。

アメリカのマスコミ、その流れで意見をつくる日本のマスコミでも、狂信的なイスラムの信徒、国際秩序の破壊者としてのビン・ラディンというイメージである。極悪なテロリスト集団アルカイダの元凶である。

だが、彼の写真を見るたびに、なぜかカフカ、あるいはガンジーの写真と似ていると感じたことがある。やせて、内向的で、恥ずかしそうな顔である。これが凶悪きわまるアルカイダの首謀者の顔かと。

本を読み出してすぐ感じたのは、じつは意外にも、彼の「真摯さ」「やさしさ」である。そして流れるような言葉である。この小柄で病弱な、この内向的な外観の人が、イスラムの同胞にむけて、真面目に真面目に話しかけている。詩的なレトリックを駆使しながらである。虐げられてる弱者の立場から、それを弾圧する特権階級と外国勢力に対して糾弾している。それも、ながれるようなイスラムのレトリックを用いながら、詩的に語り続けている。ああ、そうか、と思う。日々に苦しむイスラムの青年にとって、この言葉は「賢者の言」として心に響くのであろう。

アメリカのように無人偵察機とロケット弾による「テロ」ではなく、追われ続ける荒野の洞窟の中で、詩的な言葉をつむぎつづけ、虐げられてる同胞に、その言葉をおくりつづけているのである。わたし自身にイスラム教徒とアラブ文化に対する知的理解はないが、言語の力である。行間に、なにか、なにかを感じる。彼は、アラブの支配階級と外国人勢力に対して、真摯に真摯に怒り続け、同胞の救済を心より希求しているようである。アメリカ軍のように作戦命令ではなく、イスラムの言葉を武器として、イスラムの青年に語りかけているのである。

異教徒としては、ここにも一つの世界と宇宙があると認めるしかない。ビン・ラディン声明は、テロのつど、マスコミで凶悪発言のように報道されるだけだが、こうして時系列でまとめたものを読むと、ここに一つの思想があり、真摯な精神があり、求道者としてのいき方があると認めるしかない。そしてアラブの王族・支配者の目的は権力の座にとどまることだけであり、アメリカの目的は経済だけだと断定し、若者に向けて「十字軍は全世界を包囲している、敬虔、高潔かつ豪胆な男たちはどこにいるのか」と問いかける。もし、わたしがイスラムの教育を受けたアラブの貧しい青年なら、この言葉を聴いて、さて、どうしたのだろうか、ふと、そんなことも考える。

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