Vナボコフ

ナボコフの『記憶よ語れ』をはじめて読んだのは三十台のはじめの頃か。「ユリイカ」でのエミグラント文学でも特集されていた。さまようユダヤ人としての共感ではないが、しみじみとした読後感だった。そして、誰も読まない亡命ロシア人の小説家なのに、その執筆の内的衝動として、失われた故郷、家、亡き父、その他の、喪失されたあの時代の心の慄きを、行く当て、寄る辺のない亡命生活の中で、文章にとどめたい、失わせたくないという強い思いがあったようだ。彼が書くことにより、その「事実」は残る。いや、残すために書くのだとの思いのようだった。故郷喪失者の、切実でやるせない思いのようだった。スピークメモリ、記憶よ語れ、語ることにより、それは失われない。残る。そのような思いのようだった。忘却は、消滅である。存在しないことである。だから彼は懐かしい土地、人々、時代を描き続けた。
私はと言えば、こんな歳になった。生まれ育った土地を離れて、祖父母も父もおられない。私にも、失わせてはいけないものがある。


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