日本の浄土教

 やはり、年齢だろうなあ。数年来、なにやら佛教を調べている。日本の仏教は本来の根本佛教からみれば、きわめて特殊なものとされるが、浄土宗も日蓮宗も禅宗も、唱えるだけ、座るだけで成仏できるというワン・イシュー宗教である。阿弥陀仏を、法華経を唱えるだけで、あるいは座るだけで成仏するとする。なぜ、北伝佛教が日本でこのような形になったか、調べてみた。かねてからの疑問であったが、佛教大学で浄土教の歴史の講座を受ける機会があり、整理をしてみた。

凡夫思想と専修念仏による浄土開宗について

 中国浄土宗の開祖の慧遠と鳩摩羅什の『大乗大義章』において、煩悩には菩薩の煩悩と「凡夫の煩悩」の二つがあることを述べている。また唐時代の道綽禅師は、仏教には聖道門(さとりの宗教=自力)と浄土門(救いの宗教=他力)あることを述べる。その弟子が善導大師であるが、法然の理論は、この善導の説につよく影響を受けていることを法然も明言している。

 大乗仏教の発展とともに仏国土すなわち浄土という思想がすすんだ。小乗仏教においては、さとりへの道としてすぐれた修行者はまず阿羅漢となり仏陀となるが、大乗では菩薩となり如来となる。その時に菩薩ごとに、つまり如来ごとに一つの仏国土を持つことになる。
 まず菩薩たらんとする者は、総願(度・断・知・証、四弘誓願)と別願を立てる。そして浄土宗で最ももとめられたのが阿弥陀仏である。
 法蔵菩薩が四十八の別願を立てておこした浄土、西方浄土である。その教理は『無量寿経』『観量寿経』『阿弥陀経』の浄土三部経に示されている。

 その『無量寿経』にある法蔵菩薩(阿弥陀仏)の第十八願「念仏往生の願」に辿り着く。念仏を唱え者に阿弥陀仏が来迎して、極楽浄土に導いてくれるという功徳である。日本における浄土信仰は円仁にはじまる天台浄土とされるが、鎌倉時代には、その天台浄土の源信(恵心)の『往生要集』がよく普及していた。
 法然は若年から求道にまよい、みずからを三学非器、すなわち『大乗大義章』での「凡夫」ととらえていた。その過程のなかで源信の『往生要集』に着目する。そこには観念の念仏と称名の念仏が説かれていた。
 その解釈において法然は「恵心を用いんともがらは、かならず善導に帰すべし」として、唐の時代の中国の浄土教の僧である善導『往生礼賛』にふかく依拠することになる。
 だが、善導は、三心(至誠心・深心・回向発願心)のうち一つでも欠けたら往生できないとする。また、身・口・意の三業も重視する。

 だが、阿弥陀仏は念仏を唱える(十念する)すべての人を(一部の例外をのぞき)救うはずである。もとより、この中には凡夫も含まれるはずである。『大乗大義章』は菩薩の煩悩と「凡夫の煩悩」の二つがあるとするのであり、菩薩以外のすべての人々は凡夫となる。では凡夫とは何か、どのような人々なのかが教理解釈(選択思想)の課題となる。阿弥陀仏が念仏を唱えるすべての人を救うのならば、三学に達していないものでも十念により来迎が得れるはずである。
 その方法として法然は、とくに三心・四修を修めなくても念仏を唱えるだけで往生できることを説いた。それは『一枚起請文』において、「三心・四修と申すことの候うは、皆決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思ううちにこもり候うなり」と宣明されている。
 ここに、三心・四修を修める宗教者のための宗教ではなく、市井に暮らす大衆の救済のための浄土教、「専修念仏(それ以外の諸行は必要としない)」による日本浄土教が誕生した。凡夫が凡夫であることを認め、阿弥陀仏の第十八願を信じ、そして特定の人間たちだけではなく、誰でもが往生できる(凡夫思想)新しい浄土教である。それは易行と他力本願の浄土教であり、平等往生、男女身分にかかわらず往生できることを説いている。こうして日本浄土教が誕生した。

 おそらくそれは、ロラン・バルト的「誤読」である。テクストを「読み直した」のである。それが良いのか悪いのか、それは言えない。つまり宗教である。

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