東北大震災の最中に買出しをする

 わたしは阪神大震災の罹災者である。西宮の住居もくずれ、道は破れ、水道・ガス管が破裂して、はげしく水道水とガスが噴出していた。ほこりと塵芥の道をあるくと、高速道路は崩落し、二階建ての家の一階がくだけ平屋状態。ビルは大きく傾き、それがえんえんとつづいていた。被災地を荷物を担いで歩き、さらには知人の壊れた家に入り、その依頼の貴重品を運び出したりした。
 戦争が起こればともかく、このような風景は、もうわたしの人生では見ないだろうと、ただ驚き、あきれながら、あきれて恐怖感もわかなかったが、西宮・神戸をなんども往来した。その後、なんとなく自分が阪神大震災の罹災者、そして難民であることを話の種にした。西宮から京都、そして枚方市と居を変えた。おそらく自分が大変な体験をしたと思っていたのだろう。しかし、今回の地震と、それ以上にあの津波に驚愕した。自然の力とはいえ、あれは表現のしようがない。わたしの体験した阪神大震災も、あれに比べればささやかなものである。もう得意げに、自分が大震災の経験者である、などとは言えなくなった。

 テレビでは炊き出しがはじまり、また支援物資が送られている。避難民は避難所で、それを受け取る。それは、それでよいのだろう。しかし、違和感があった。政府は買占めをやめるように繰り返し報道している。パニックになり、物資の供給がとどこおるのは避けねばならない。これは当然であろう。
 しかし、違和感がある。わたし自身は、何週間分の非常食等を買いだした。あわてて走った。テレビでは自治体の備蓄物資が供出されている。それを見ながら思い出したことがある。

 わたしは島根県で生まれている。 はるか半世紀も前のことになる。わたしは山陰の田舎の小学生だった。その頃は、それぞれの家が、米、干した芋のつる、かんぴょう、ほし大根、芋などを備蓄していた。それが農家の風習だった。飢饉や災害に備えて、各家が、みずから備蓄を行っていたのだ。そしてやがて日本がほとんど給与所得者の国になり、その風習がなくなったのだろう。
 通っていた小学校の校庭に校庭に二宮金次郎の、例の薪を背負いながら本を読んでいる銅像があった。二宮 尊徳は、江戸時代後期に「報徳思想」を唱えて、「報徳仕法」と呼ばれる農村復興政策を指導した農政家・思想家である。通称は金次郎(正しい表記は「金治郎」)。諱の「尊徳」は正確には「たかのり」と訓む。
その「報徳記」 巻之五に飢饉と窮乏の時に対するいさめがある。
【先生小田原の大夫某と飢歳当然の道を論ず】

申(さる)の凶荒(きようくわう)に当(あた)り、救荒(きうくわう)の道を命ぜられ小田原に至れり。
時に大夫(たいふ)某(それ)先生に問て曰く、
年飢ゑて民を救うの道を得ず。
此の時に当(あた)り何の術を以て飢渇の民を救ひ之を安(やす)んぜんや。
先生曰く、
礼(れい)に云(いわ)く
国(くに)九年の蓄(たくわ)へ無きを不足と曰ひ 六年の蓄(たくわ)へ無きを急と曰ひ 三年の蓄(たくわ)へ無きを国(くに)其(その)国(くに)に非ずと曰ふ
夫(そ)れ歳入の四分が一を余(あま)し之を蓄(たくわ)へ、水旱(すゐくわん)荒年(くわうねん)盗賊衰乱(すゐらん)の非常に充(あ)つるもの、聖人の制(せい)にあらずや。
事予(あらかじ)めする時は救荒(きうくわう)の道何ぞ憂ふる事之あらん。
然るに僅(わづか)一年の飢饉至り救荒(きうくわう)の道なしとは何ぞや。
是の如くにして国君(こくくん)の任何(いづ)れにかある。
大夫(たいふ)執政(しつせい)の任何を以て其任とするや。

大夫(たいふ)某(ぼう)曰く、
事前に備ることあらば元より凶飢(きようき)の憂(うれひ)あらず。
今如何(いか)にせん。
其の備(そなへ)なく又其の術を得ず。
此の難場(なんば)に臨み之を処(しょ)するの道ある歟(か)。
撫育の米財なくして民を救(すく)はんこと英傑明知と雖(いへど)も能(あた)はざる所ならん、将(はた)別に道あるか。

先生答へて曰く、
如何(いか)なる困窮の時といへども自然処(しょ)すべきの道なしと謂(い)ふ可らず。
唯(たゞ)行ふ事の能(あた)はざるをのみ憂ひとせり。

某(ぼう)曰く
願はくば其の道を聞かん。

先生曰く、
国(くに)窮し倉廩(そうりん)空しくして五穀実(みの)らず国民(こくみん)餓ヒョウ(がへう)を免れざるもの其の罪安(いづく)んかある。
国君(こくくん)大夫(たいふ)以下の職たるや、天民(てんみん)を預り之をして悪に陥らず善を行ひ、人倫の道を踏(ふ)み生養(せいやう)を安ぜしむるもの其の職分にあらずや、
此の勤労(きんらう)を以て恩禄を賜り父母妻子を養ふことを得。
然るに其の民を預り安んぜんとするもの思慮此(これ)にあらずして自ら安居(あんきょ)の道を計り奢侈(しゃし)に長じ、上下(じょうげ)困窮に陥り万民(ばんみん)をして飢渇死亡に穽(おとしい)るゝに至りて、猶(なほ)漠然として我が罪なることを知らず、歎ず可(べ)きの至りに非ずや。
此の時に当(あた)り救助の道を得(え)ば可也(かなり)。
若し得ずんば人君(じんくん)此の罪を天に謝し万民(ばんみん)に先立ち飲食を断(だん)じて死すべし。
然りといへども一国(こく)君を失はゞ其の患(うれ)ひ至大(しだい)にして、誰か又国家(こくか)を治めん。
然らば大夫(たいふ)たるもの君の死を止(と)め、領中に令(れい)して云(い)ふべし。
我等君(きみ)を補佐し仁政を行ひ百姓(ひゃくしやう)を安んぜんが為(ため)の職分なり。
然るに上(かみ)君に忠を尽(つく)すことあたはず、下(しも)百姓を安んずることあたはず、一歳(さい)の飢饉猶(なほ)其の飢渇を救ふことを得ず、是皆我が不肖(ふせう)にして其の罪重しといふべし。
百姓に謝するに死を以てすといへども何を以て其の罪を償ふことを得んや。
君(きみ)仁心厚くして某等(それがしら)の罪を自分(じぶん)の過(あやま)ちとなし、今領民に先立ち命を棄て万民(ばんみん)に謝し玉はんと宣(のたま)ふ。
某等(それがしら)大いに驚き一国(こく)上下の大患(だいくわん)是より大なるはなし。
君(きみ)素(もと)より臣等に安民の政(せい)を任ず。
臣其の任を受けて而(しか)して其の民を飢渇に陥らしむ。
此の罪臣等にありと言上し、君(きみ)の百姓に先立ち玉ふことを止(と)め奉りしなり。
是(これ)に由(より)て某(それがし)百姓に先んじ食を断(た)ち死を以て領民に謝する也と令し、第一に大夫餓死(がし)に及ぶべし。
其の次に郡(こほり)奉行(ぶぎょう)なるもの其の職とする所領民の危(あやふ)きを去り安からしむるにあり。
然るに其の行ふ所道に差(たが)ひ此の民を飢亡(きぼう)せしむ、是我が罪なり。
死を以て百姓に其の罪を謝せんと云(い)ひ断食(だんじき)して死すべし。
其の次は代官たるもの奉行同罪なりと云ふて食を断(た)ちて死すべし。
是(こ)の如くなれば始めて其の任に在りて、其の任を忘れたるの罪を知れりとすべし。
領民此の事を聞かば国君(こくくん)の民を憐み玉ふこと一身にも換(か)へ玉ふ。
大夫(たいふ)以下我々飢渇の故を以て其の咎(とが)を一身に引(ひ)き飢亡(きぼう)に及べり。
君(きみ)大夫(たいふ)以下何の罪あらんや。
我が輩(ともがら)平年奢(おご)りに長じ米財(べいざい)を費(ついや)し凶年の備(そな)へをなさず自(みずか)ら此の飢(うゑ)に及べり。
然るに高禄歴々の重臣之が為に死亡に至れる事我輩(わがはい)の大罪にあらずや、餓死元より当然(たうぜん)なり。
高禄の貴臣尚(なほ)食を断(た)ちて終れり。
我々の餓ヒョウ(がへう)に至らん事何の恐るゝ所やあらんやと、一同飢歳(きさい)を恐れ死亡を憂ふるの心忽然として消(せう)し其の心悠然たり。
一旦憂懼(いうく)の心去る時は食(しょく)其の中にあり。
領民互(たがひ)に融通(ゆうつう)し又は高山に登り草根(さうこん)を食とし、国中(こくちゅう)一人の餓ヒョウ(がへう)なきに至る事必せり。
一年の凶飢(きょうき)何ぞ一国の米粟竭尽(けつじん)するの理あらんや。
又百草百木も人を養ふに足れり。
然して国民飢亡(きぼう)に及ぶものは憂惧(いうく)の心主となり、食を求るの気力(きりょく)を失ひ死亡に至るなり。
譬(たと)へば玉なしの鳥銃(てうじゅう)の音に驚き死するが如し。
鳥銃玉なくんば豈(あに)人を害せんや。
然して斃(たふ)るゝものは玉ありとなし其の音に驚き死す。
一歳(さい)の凶年何ぞ人を害せんや、人飢饉の音に驚き飢渇に及べり。
是の故に政(せい)を執るもの咎(とがめ)を一身に引(ひ)きて先づ死する時は、音に驚きたる衆民(しゆうみん)の惧心(ぐしん)消散(せうさん)し、必ず飢(うゑ)に及ぶものなし。
豈(あに)奉行代官までの死を待たんや。
大夫(たいふ)餓死せば万民(ばんみん)救はずして必ず飢亡(きぼう)を免るべし。
是(これ)荒政(くわうせい)の術尽(つ)き万民(ばんみん)を救わずして救ふの道なり と云ふ。

大夫(たいふ)愕然(がくぜん)として自ら失ふが如く、流汗(りうかん)衣(ころも)を沾(うるほ)し良(やゝ)久しくして曰く、
誠に至当(したう)の道なり。

ネットでの訳文によれば、以下のようになる。報徳記 巻の5 【7】先生小田原の大夫某と飢歳当然の道を論ず

 天保7年(1836)の大飢饉に当って、先生は救助の道を命ぜられ(翌年)小田原に来た。その時にある家老が先生に質問して言った。
「飢饉の年に民を救う道を得ない。この時に当ってどういう方法で飢えた民を救い、これを安らかにすることができるか。」
先生は言われた。
「礼経に言います。
『国に9年の蓄えが無いことを不足といい、6年の蓄えの無いことを急といい、3年の蓄えの無いことを国、その国にあらず』と言います。
そもそも歳入の4分の1を余らせこれを蓄え、水害や日照りなどの荒年や盗賊・衰乱の非常に充てることが、聖人が制定されたことではありませんか。
予めそのようにする時には救助の道をどうして憂える事がありましょう。
そうであるにわずか1年の飢饉が来て救助の道がないとはどうしたことでしょう。このようにして国君の任務はどこにありましょう。家老の政治を執る任務をどうして務めたといえましょうか。」

 ある家老は言った。
「事前に備えることがあればもとから飢饉の憂いはない。今、どのようにしよう。その備蓄がなくまたその方法を得ない。
この難しい状況に臨んでこれを処置する方法があるか。恵み育てる米や資財がなくて民を救うことは英傑や明知の人でもできない所であろう、それとも別に道があるか。」

 先生はこのように答えられた。
「どのような困窮の時であっても自然に処置するべき道がないということはありません。ただ行う事ができないことだけを憂いとするのです。」

 家老は言った。「願はくはその道を聞こう。」

 先生は言われた。
「国が困窮し穀物を蓄える蔵が空っぽで五穀は実らず、国民は餓えて死ぬことを免れない、その罪はどこにあるか。
国君・家老以下の職というものは、天から民を預ってこれを悪に陥らず善を行い、人倫の道を踏み養い育てることを安らかにさせることがその職務上当然の勤めではありませんか。この勤労によって恩禄を賜って父母妻子を養うことができる。
そうであるのにその民を預って安らかにする者の思慮がこれになくて自ら安らかに暮す方法を計って度を超えて贅沢にふけり、上下が困窮に陥って万民を飢えて死亡におとしいれるに及んで、なおぼんやりとして自分の罪であることを知らない、嘆くべき至りではありませんか。この時に当って救助する道を得るならばよいでしょう。もし得なければ君主はこの罪を天にお詫びし万民に先立って飲食を断って死ぬべきです。しかしながら一国がその君主を失えばその患いはこの上もなく大きく、誰がまた国家を治めましょう。そうであれば家老は君の死を止め、領内に命令して言うべきです。私たちは君を補佐し仁政を行い百姓を安らかにするための職務についている。そうであるのに上は君に忠を尽すことができず、下は百姓を安らかにすることができない、一年の飢饉でさえなおその飢えを救うことができない。これは皆私が愚かでその罪は重いというべきだ。百姓に死んで謝罪してもどうしてその罪を償うことができよう。
君は仁心が厚く私たちの罪を自分の過ちとし、今、領民に先立って命を棄て万民に謝罪しようとおおせになる。私たちは非常に驚いて一国の上下の大きな災難はこれより大きいものはない。君はもとから臣らに民を安らかにする政治を任じられた。臣はその任務を受けてそしてその民を飢えに陥らさせた。この罪は臣らにありますと申し上げ、君が百姓に先立って死ぬことを止めました。これによって私が百姓に先だって食を断って死んで領民に謝罪するものであると命令し、第一に家老が餓えて死ぬべきです。
その次に郡奉行がその職とする所は領民を危いことを去り安からにすることにある。そうであるのにその行う所は道にたがってこの民を飢えて死なせる。これは私の罪である。死んで百姓にその罪を謝罪しようと言って食を断って死ぬべきです。
その次は代官は奉行と同罪であると言って食を断って死ぬべきです。
このようであって始めてその任務に在って、その任務を忘れた罪を知っているとすべきです。領民はこの事を聞くならば国君が民を憐れまれること、一身に換えられる。
家老以下が私たちが飢えたためにその咎めを一身に引きかえて飢えて亡くなられた。君や家老以下に何の罪があろうか。
私たちが平年度を超えて贅沢にふけり、米や財を費消して凶年の備えを行わず自らこの飢えに及んだのだ。そうであるのに高禄のお歴々の重臣がこのために死亡に及んだ事は私たちの大罪ではないか、餓死することはもともと当然である。
高禄の身分の貴い臣がなお食を断って亡くなられた。私たちが餓えて死ぬに及んでも何を恐れることがあろうかと、一同飢えを恐れ死ぬことを憂える心がたちまちに消えてその心が落ち着きます。
一度憂え恐れる心が去る時、食はその中にあります。
領民は互いに融通しまたは高山に登って草の根を食とし、国中で一人の餓えて死ぬ人が必ずなくなることでしょう。1年の凶作・飢饉でどうして一国の米穀が尽きる道理がありましょうか。また百草・百木も人を養うに足ります。そして国民が飢えて死に及ぶものは憂え恐れる心が主となって、食を求める気力を失って死亡に至るのです。たとえば弾(たま)のない鳥撃ち銃の音に驚いて死ぬようなものです。銃に弾がなければどうして人を害しましょう。
そうして倒れるのは弾があるとして、その音に驚いて死ぬのです。一年の凶作の年でどうして人を害しましょうか、人は飢饉だという音に驚いて飢えに及ぶのです。
このために政治を執る者がその咎めを一身に引き受けてまず死ぬ時には、音に驚いた民衆の恐れる心が消散し、必ず飢えに及ぶ者はありません。
どうして奉行や代官までの死を待ちましょうか。家老が餓死すれば万民は救わなくても必ず飢え死にを免れるでしょう。これが政治が荒れて、方法が尽きて、万民を救わないで救う道です。」と言われた。

家老は非常に驚いて自失するようで、流れる汗が衣をうるおして、やや暫くして言った。
「誠に至当の道です。」

 そのとおりである。三年の貯えあって国である。では、「家」ならば、どの程度の備えが必要であろうか。今、日本の自治体ではある程度の緊急備蓄を行っている。今回の震災でも、各県の備蓄を取り崩して被災地におくっている。それはそれで結構なことである。

 しかし、個々の「家」はどうしているのか。どの程度の備えが、この「地震・震災・津波の国」の「家」では用意されていたのか。というより、かってはされていたはずである。いつ、それをしなくなったのか。疑問なのである。

 被災者は気の毒であるが、しかし、備え、自助・自力の備えはどうだったのか。日本国民は、みな農民をやめて、給与所得者、消費者になっている。消費は美徳である。金でなんでも買えると思っている。だが「輩(ともがら)平年奢(おご)りに長じ米財(べいざい)を費(ついや)し凶年の備(そな)へをなさず自(みずか)ら此の飢(うゑ)に及べり」とある尊徳の言葉は、今もそのとおりであるが、すでに忘れ去られている。

 危機管理は、最悪に備えて楽観的にふるまうことだとか。今回の東日本の罹災にあたって、600キロ離れて住むわたしは買出しに走った。果たして顰蹙ものだろうか。おそまきながら、備蓄をはじめたのである。つぎに関西にくる東南海大地震のためでもあるが、家の「空白」に気づいたからである。わたしが被災しても、だれもわたしを助ける義務などないのだ。そして避難所に逃げ込んで、救援の食料をまつなどということをしたくないのである。
二宮尊徳は、「三年の備えがなければ国ではない」と言っている。国が備えなくても、むかしの山陰地方のように、それぞれの家が半年程度の備えがあれば、町も国もはるかに強度がます。日本が、こんな地震の多い国、災害のおおい国とは思わなかった。また新しい大地震が、かならず来るものとして予測されている。
買占めとそしられても、自己責任で、まずみずからの家と家族を守るしかないのだろう。東日本の災害が一段落すれば、その整備をしようと思う。知恵は、豊かになるためではない。最悪の場合、あるいは飢饉・災害にあたって、どう処するかのためにあるような気がする。飢饉・災害にあたっては、「備蓄」し「性根」を据える事を二宮尊徳は説いている。復活すべき知恵である。

 被災民が秩序正しく、配給品を受けて乱れがないことを世界の論調はほめている。そうだろうか。穏当な表現ではないが、あえて言えば、羊のような秩序ではないだろうか。津波ですべてを失った人はやむを得ないが、家がつぶれたくらいで、他者から救援されるとは、二宮尊徳なら、どう見るのだろうか。彼は、日々の心得と、その場における性根を説いているのである。

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