つぎは大乗仏教を

 つぎは大乗仏教を考える。これは原始仏教・根本仏教とはずいぶんと違う風景となる。

大乗仏教の特色について

1. 大乗仏教の誕生について

 三枝充よし『インド仏教思想史』第三章第一節「大乗仏教の興起」は、「部派仏教が難解な教理の樹立と実践に専念しているあいだに、一般民衆ならびにその指導者(その実体はよく判らない)によって、一種の新しい仏教革命運動がおこりつつあった。それがいわゆる大乗仏教である」と解説する。伝統的な部派仏教は、壮大な僧院の内部に居住し、瞑想な煩雑な教理研究に従事していた。その態度は自利であり、独善的・高踏的なものであった。
 だが、一般民衆の求めるものは、そのようなむずかしい教理でも厳しすぎる実践でもない。それでは民衆の日常生活が成立しない。三枝は「こうして大乗仏教の運動は次第次第に高まりを見せ、自利すなわち利己的・独善的な仏教を、ひろく民衆に開放し、より自由で闊達な思想に伸展させ、とくに一般民衆の救済、すなわち利他行を強調するようになった」と解説する。

2. 菩薩と利他の精神

 末木文美士『思想としての仏教入門』は108頁以下で、その特徴を解説するのだが、「大乗仏教のブッダ観のもう一つの重要な特徴は、ブッダが第三者的な特別な存在ではなく、我々自身がブッダになることができるということを認めた点にある。それと関連して菩薩の思想が大きく発展する。菩薩(ボーディサットヴァ)は、もっとも一般的な解釈によると、悟り(ボーディ)を求める衆生(サットヴァ)を意味するという。すなわち、究極のブッダの悟りを求めて歩み続けるという修行者の理想像である」と述べる。
 たとえば、日本の浄土教での例を見れば、小乗仏教においては、さとりへの道としてすぐれた修行者はまず阿羅漢となり仏陀となるが、大乗では菩薩となり如来となる。その時に菩薩ごとに、つまり如来ごとに一つの仏国土を持つことになる。浄土、つまり極楽である。
 まず菩薩たらんとする者は、総願(度・断・知・証、四弘誓願)と別願を立てる。そして浄土宗で最ももとめられたのが阿弥陀仏である。法蔵菩薩が四十八の別願を立てておこした浄土、西方浄土である。その教理は『無量寿経』『観量寿経』『阿弥陀経』の浄土三部経に示されている。
 その『無量寿経』にある法蔵菩薩(阿弥陀仏)の第十八願「念仏往生の願」では、念仏を唱え者に阿弥陀仏が来迎して、極楽浄土に導いてくれるという功徳が示されている。日本における浄土信仰は円仁にはじまる天台浄土とされるが、鎌倉時代には、その天台浄土の源信(恵心)の『往生要集』がよく普及し、やがて法然により、阿弥陀仏への念仏を唱えるすべての人は、「諸行」を行わなくても往生できるという思想(専修念仏)に達することになる。これが初期・中期大乗仏教の空間のもつ構造である。

 これは魂の実体を想定するものであり、我(アートマン)を否定し、死後世界は「無記」とする原始仏教からの大きな飛躍、甚だしい乖離と感じざるを得ないが、末木前掲書109頁以下では、「大乗では誰もがブッダを目標として進むことができるのであるから、菩薩もまた特別な存在ではなく、我々自身がブッダという目標に向かって進んでいくとき、みな菩薩だと解されるようになった」と解説する。
 その菩薩の具体的な修行が「六波羅蜜」と呼ばれる。波羅蜜(パラミター)は、最高、完成などを意味するという。①布施、②持戒、③忍辱、④精進、⑤禅定、⑥智慧の六つである。
 この⑥布施に見られるように、菩薩においては、自分の利益をもとめる自利のほかに、他者の利益をも図ろうとする利他の精神、利他行が重視される。
 末木前掲書では、「このような利他の強調から、利他の精神を体現する模範的な菩薩像が、崇拝対象として人気を集めるようになった。その代表的なものが、観音菩薩であり、さまざまな化身を示しながら、衆生救済のために活躍する神話的な物語を生むことになった」と、当時の思想あるいは集団心性の変化を解説する。つまり、仏教思想の大きな変遷を、である。あるいは、仏教の大きな変質を、である。
 2014年6月29日の愛知大学における「基礎ゼミナール」で並川教授は、宗教としての仏教の特色として、キリスト教やイスラム教と違い仏教は「神をもたない宗教」であり、そもそも仏教には信仰対象はないと講義されたが、ここで「神(仏)をもつ宗教」になったと言えるのであろうか。無数の仏と、無数の浄土・極楽が誕生じたようである。

3.「空」の思想について

 ただ、大乗仏教を特徴づける哲学的概念として阿頼耶識という観点と「空」の思想が興味深い。大乗仏教運動はまず『般若経』にはじまるとされるが、その中心思想は「空」であるとされる。ただ「空の論理」の説明は、2世紀頃の龍樹(ナーガールジュナ)で完成されたとされる。
 アビダルマ仏教においては、もともとは無我を説明するのに、五蘊・十二処・十八界のように、あらゆる現象世界の存在をその構成要素に解体して、アートマンのような実体を想定する必要がないこと理論づけようとしたようだが、やがて説一切有部では刹那滅、あるいは三世実有説のように、過去・現在・未来の三世の一切のダルマは消滅することなく、つねに実在しているという思考に変容する。
これに対する反論が龍樹の『中論』とされる。末木前掲書71頁以下では、「ナーガールジュナの立場は、実在論に対して、もう一度原始部教の現象論の立場を取り返そうというものである。現象の世界においてはじめてものの生成や運動を認めることができるのであり、その根底に何らかの実在を想定すると、生成や運動が成り立たなくなるというのである。このような実在のことを自性(じしょう)と呼ぶ。自性というのは、それ自体で存在し、他に依存しないような実体、あるいは物の本質のことで、ナーガールジュナの立場は、そのような自性を否定する無自性の立場と呼ばれる。無自性であって、はじめてものは相互に関連しあい、縁起ということも成り立つ。それゆえ、無自性の立場は原始仏教の無我・縁起の思想を新たに哲学的に捉え直したものといえる。この無自性のことを空(くう)という」と解説する。図式にすると、以下になるという。

 無我=縁起=無自性=空=かりに設定されたもの(仮)=中道

 しかし仏教は、如来蔵・仏性思想のように、アートマンの実体を想定する方向に向かい、さらにはヒンズー教とまじりあい密教へと進んだようである。

4.おわりに

 大乗仏教の特色を説明するのが、本設題であるが、初期・中期・後期の三期の大乗仏教の特色を一つのものに収斂して捉えることには、困難を感じる。ただ現在に生きるわたしたちにも、ゴータマ・ブッダの出家の理由である「四門出遊」の「苦」は、やはり時代を超えて感じざるを得ない。「苦」を出発点とする仏教の世界・人生観は、すこし悲観的にも見えるが、どの宗教の出発点も、ここにあるのだろう。人生の苦悩を見つめて、それに対処できるのでなければ、どの宗教も、思想として意味のあるものに成り得ないのであろう。
 タイによく行く。知人も多い。彼らが僧侶や仏像に素直に手を合わせ、信仰心をもっていることを真実、羨ましく感じる。そこには、信仰による心の安らぎの世界がある。また、仏教国日本で生まれ育ちながら、僧侶や寺院に敬意をはらえない自分を残念に思う。

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