もう半世紀も前。わたしは田舎の県立高校の柔道部員だった。パンパンで痛いキャンバス畳の道場で、汗臭すぎる胴長短足のみなさん、股間を一日中かきつづけるみなさんと、何ヶ月も洗わない柔道着からの悪臭を撒き散らしながら、それでも熱心に稽古をしていた。締め落とされる前の苦しさと、締め落とされた後の天国のような脳内風景は、今でも身体に覚えている。なにか、立ち技より寝技が盛んだったような気がする。すぐに寝技にもちこみ、首を絞めるのである。投げは、寝技に持ち込むアプローチの一つ、その前段階扱いだったような気がする。
わたしは、屁理屈家だった。また読書好きの研究好き。とうぜんに、柔道の図書をあつめ、部内随一というより唯一の柔道史の保持者だった。今考えると、わが教師は、講道館系ではなく、高専系だったのだろうか。つまり柔術系である。汗臭い彼らの何人かは県警にはいった。
半世紀前の柔道部員のわたしには、まだ中学一年の次男がいる。入学すると柔道部に入った。グレーシー柔術の本を買い、コマンドサンボの本を買い、総合格闘技その他、買い集めている。実際の練習よりも、本での技の研究、脳内無敵の世界に熱心である。どこかであった風景だと苦笑するしかない。
一応、先輩として「投げ技三年、寝技三ヶ月」だ、寝技を徹底的にやれ、などとアドバイスする。だが、彼の中学・高校は、おそらく講道館スタイルではないだろうか。それでは強くなれないのだが。講道館柔道は、あれは芸者の手踊りのようなものだ。武術ではないのである。
もともと柔術には、投げ一本も、押さえ込みも存在しない。関節技と絞め技を使い、相手を戦闘不能に追い込むことで勝負を決するのだ。
ロンドン・オリンピックである。柔道だけは、寝ずに、かかさず観た。女子の積極果敢なプレーと比較して、男子の惨状は、どうしようもない。ポイント稼ぎの、相手の減点待ちの逃げの柔道をしている。新聞で、東京都知事が、相手が卑怯だから、綺麗な日本の柔道が勝てないなどと言っている。何事につけ、つくづく物を知らない人だ。華麗な一本でメダルをねらうはずの穴井は、じつに簡単に負けた。
柔道の起源は、武者の組討から発生したと今は言われるが、それは違うだろう。それは相撲になった。織田信長も相撲大会を催し、参加者を雇用している、というより兵員の雇用のために、相撲大会を催している。柔道というより柔術の起源は、江戸時代の認識では、それは「明」からの亡命者、陳元贇から発したと認識されていた筈だ。家光の時代に、満州勢の「清」により漢族の「明」は滅亡し、おおくの国外亡命者を出す。高校の頃に読んだ本でも、一般には日本の柔術は江戸時代初期、明から陳元贇なる人物が渡来し、三人の浪人に教えたのが始まりとされていたと思う。陳元贇が江戸麻布国正寺に仮遇していたおり、磯貝次郎左衛門、福野七郎右衛門、三浦与次右衛門の三名の浪人に人を捕うる術を教え、これに三浪人たちが工夫を加えて作りだしたのが柔術であるとされた。福野の良移心当流、三浦の揚心流などである。その流れで起倒流が生まれ、この起倒流を学んだ嘉納治五郎が講道館を創設するという流れだ。毛沢東の「体育の研究」という書名だったかにも、陳元贇が我が中国の雑技をあつめて、日本で柔術を創設したとかの記述があった。空手と中国拳法を比較して、空手は我が中国拳法の円熟には及ばないが、その剛強さは見るべきものがあると書いていたような記憶があるが。ともかく、それまでの陳元贇説に対して、最初に反論を試みたのは、嘉納治五郎である。嘉納はT.リンゼイと共著で英文で「柔術・伝統あるサムライの武器なき格闘術」という論文を著し、明治二十一年に発表。陳元贇が柔術を日本にもたらしたことを否定し、柔術の起源を中国にもとめるのは「わが国の恥辱である」と言っている。こうして陳元贇説はタブーになり、以後の柔術起源論は、この方向のエビデンスを集めることが中心となる。なにやら、尖閣列島問題のようだ。
たとえば、この陳元贇の時代より古くに、竹内流という柔術が既にあったと言う。ゆえに柔術は日本古来であると。うむむと、思う。二十歳の頃に、東京田町に空手の神道自然流小西道場があり、すこしだけ通った。小西老先生は竹内流から空手に入ったが、それを竹内流小具足捕りまわりの術と呼んでいたと記憶する。鎧を着装し短刀をもっての組打ちの技の筈である。平家物語や源平盛衰記に見られるように、鎧組打ちの技は、戦場で必須であり、竹内流は、それであると思う。それは、いわゆる柔術ではないと思う。まあ、どうでもいいことだが。
そういえば、小西老先生は、ふつう空手用語では、左前足で左拳で突くのを順突きと言い、右拳で突くのを逆突きと言う。それは違うと。人間は歩くときに、左前足なら、出る腕は右腕だ。ゆえに、左前足で左拳で突くのを逆突きと言い、右拳で突くのを順突きと言うべきだと、無知蒙昧な空手界を悲憤しておられたが、一体、何が言いたかったのだろう。アメリカのブラックベルト誌の記者に対しても、「カラテ・イズ・ゼン」と言い切って、困らせたのか、感動させたのか、よくわからないが。そういえば、当時の知人に柳生心眼流を学んだといういかれ奴が居たなあ。あれも鎧組打ちの術だ。組み伏せて、鎧通しを刺し込むのである。愛国党員系で、パックス・エイシアが言えずに、パン・アメリカン、パン・アメリカンと言っていたが。国粋主義者がパックス・アメリカーナじゃ、あかんだろうが。これも、どうでもいいことだが。
ともかく、最古の流派とされる竹内流では、小具足を着装し脇差を使うのである。柔術の起源はともかく、江戸中期になると柔術という呼び名が一般化し、数百の流派ができる。明治になると、武士階級が消滅し、教育産業として成り立たなくなる。彼らは失業する。ところが学習院教授である嘉納治五郎が、あらわれる。嘉納は、やがて一高校長となり、文部省参事官になり、教育界の大ボスに出世しはじめる。起倒流を学んで「講道館柔道」を創り出しただ嘉納にとって、良家の子弟のための体育である「柔道」では、首を絞めたり、関節を折ったりする寝技は、教育的とは言えない。イギリスのパブリックスクールがボクシングとフェンシングを教えるように、エリート教育の一環である。教育ビジネス上のリスクは排除せねばならない。足技、立ち技を中心とすることで、見た目も美しく、勝敗もわかり安くした。柔術を学校体育に作り変えたのである。押さえつけて絞め殺す殺人術を、マットの上のフェンシングに変えたのである。
日清戦争以後、武術に対する社会的要請が高まり、高校・大学で柔剣道の対抗戦がさかんに行われるようになる。教育界のボスである嘉納は、弟子たちを学校体育教師として各学校に送り込む。古流を学んでも町道場主か接骨業。なかなか食べれない。講道館に属せば、学校柔道教師として食べていける。柔術家は柔術を捨てて、安定した収入と社会的地位の得られる大企業、講道館に属そうとする。長いものには、巻かれなくてはならない。
だが、古流柔術家の流れ込んだ柔道は、三つの系統に分かれる。東の講道館に対して、西の武徳会、高専柔道である。同じ柔道と称しても、西は柔術色が濃く、ずいぶんと違う。明治の当時の最強は、岡山出身の警視庁教師、不遷流の田辺又衛門だとされる。講道館は一勝もできず、田辺との試合を逃げ回る。明治の皇太子の前での試合で、田辺は講道館の選手を瞬間に足がらみで決める。講道館選手は、悲鳴をあげて降参し、立つこともできない。つぎの武術家の会合で、嘉納は足がらみは危険な技であるとして、以後禁止にする。柔術家たちは嘉納に逆らえない。関節技は、腕に対してだけとなる。
だが、高校・大学の対抗戦でも、西の柔術系柔道が、東の講道館柔道を圧倒する。岡山の六高柔道部は、三角絞めを開発する。下から両足をつかい、相手の片腕と首を同時に締める。六高柔道部は快進撃する。嘉納は、これを惧れ、審判規定を改定し、寝技への引き込みを禁止する。これに対して京大柔道部は反発し、拒否する。しかし、嘉納は審判規定を三度改定し、三角絞めを禁止する。これにより、講道館の寝技軽視はさらにひどくなるが、武徳会や高専柔道での寝技の研究は、さらに深まる。
力道山とガチンコを行った木村政彦は、この高専柔道の流れだ。ブラジルにわたりグレイシーの父親と戦ったときは、寝技に引き込み、その腕をへし折っている。
しかし、戦後になるとGHQにより武徳会は廃止。関係者は公職追放される。学制改革により、高等学校、専門学校が中心となっていた高専柔道は、解体される。残ったのは、講道館だけだった。武徳会、高専柔道がなくなり、講道館は棚ぼた式に柔道界を独占することになる。そして段位認定と昇段料を独占するビジネスモデルを確立する。これで、日本には、寝技の王国でもあった高専柔道も、立ち技と寝技の高度な両立をめざした武徳会の柔道も存在しなくなった。残るのは、立ち技に特化した講道館柔道だけになった。
しかし東京オリンピック以後、外国人選手が、講道館が独占していた世界に参入する。ただちに立ち技対策が研究される。旧ソ連の柔道家は、レスリングやサンボの技術を導入。欧米選手も、レスリングフリースタイルの片足、両足タックル、グレコローマンの胴タックルを導入。ブラジルは、柔術スタイルの寝技で日本の講道館柔道に対抗した。ブラジリアン柔術は、あれは戦前の高専柔道そのものと言われる。
高校の時に買った柔道の本では、立ち技が三分の一、寝技が三分の一、当身技が三分の一だった。当身は、ただ二つの技が中心。眼突きと金的蹴りである。目玉と金的を潰すのである。まあ、これが基本中の基本だ。実際的にも、その二つで十分。あとは覚える必要はない。そして短刀への対処法も記載されていたと思う。つまり、著者は講道館ではなく、戦前からの柔術系の人だったのだろう。
戦争を行う前には、「戦史」を学ばなくてはならない。あたり前である。戦前、講道館柔道は、武徳会柔道、高専柔道に、まったく歯が立たななかった。そして今、日本の柔道は講道館柔道のままである。だが諸外国の柔道は、じつは講道館柔道がまったく歯が立たなかった高専柔道、武徳会柔道をしている。とすれば、負けて当然である。そう「戦史」は教えている。すると、日本柔道は、どの道を進むべきか。答えは、おのずから明らかである。まず、高専柔道か、武徳会柔道にもどる。それから新しいナレッジを開発するのである。
ロンドン・オリンピックにもどれば、なによりも指導陣がよくない。監督の篠原はひどすぎる。身体は大きいが、脳内容量はかなり少ないと思う。あの井上がコーチになっていたのか。高校生の井上の試合をテレビでみて、この子は絶対のびると思っていたが、メダリストになって、コーチになったのか。大学教師か。しかし、彼もコーチにはむかない。みな頭突き合戦では強そうだ。まるで相撲界と同じだ。関取が親方になるのだ。篠原は、この結果を選手の不甲斐無さのせいにして人格攻撃をしていたが、じつに人の師たりえない男である。このメンバーで敗戦処理し、反省会もなく、同じメンバーで次のオリンピックであるから、4年後の予想は、もう必要はないだろう。
かっての柔道メダリストの女性が週刊誌で言っていたが、いっそ、コーチ全員を外国人にしたらどうかと。ロシアはイタリア人コーチにまかせて、その指導を受けたことで強豪として復活し、今回オリンピックで素晴らしい成績をあげた。日本も、そうすべきだと。正論であるが、国内的には大胆な発言であろう。でも、正論であり、そのとおりである。また、今の指導陣の脳内、つまり立ち技・一本主義は、もう通用しない。戦後の講道館柔道、学校柔道、芸者の手踊りから、戦前の格闘柔道に、頭をギアチェンジすべきなのだ。柔術にである。
第一に、既存の立ち技一本至上の柔道イメージは、本来、風変わりなものであったことを確認すべきだ。それは講道館の営業、対象とする顧客第一主義から発した奇形なルール改定からものであることを理解し、格闘柔道、つまり戦前の武徳会、高専柔道を復活させること。
第二に、コーチはお雇い外国人にすること。組織と風土と頭の切り替え刷新には、人事が一番。人を変えるのが一番なのである。つまりパラダイム・チェンジというほどのことはないが、第一と第二により、講道館柔道の頭から、マットでの格闘技の本来の形、より柔術に近い形にもどすこと。こんな感じであろう。レスリングと違い、柔道には、グレコローマンとフリーの二つの切り分けはない。立ち技と寝技の総合なのだ。これが次のオリンピックでの日本柔道復活の道であろう。日本柔道のイノベーションだな。まあ、こんなものだろう。誰でも、中学一年生でもできる柔道から、プロしかできない柔術への転換である。じつにオリンピック選手は実質プロなのであるから。中学一年生と同じ技を、技数を、大人のプロの選手が使い、それで善しとは、甘すぎる了見である。
もちろん、今の監督、コーチ陣がそのまま次のオリンピックを担うのであり、ある話ではないことは承知しているが。今回以上の大敗であろう。
だが整理してすっとした。司馬遷の発奮著書の説ではないが、どんな文章でも、書くことの効用がここに在る。自分一人が読者で良い。ロンドン・オリンピック観戦の積み残し感から解放された気分だ。