今回の金融緩和政策の実施は、わが社においても無縁ではなく大な影響をうける可能性が高いと思われ、その流れを見続けている。と同時に、目の前でリフレ派と反リフレ派が、まったく逆の理論と予想から論争をしている。金融緩和を経済政策に関する論争とだけ見ずに、眼前で大きな知的実験が行われているというように見れば、巨人阪神戦より、はるかに刺激的であり、ずっと面白い。わたしも勝手参戦して、自社の防衛だけでなく、「お勉強」をしているわけである。
記事、論文、雑誌、図書を読み漁っている。完全に公平な立場からの読書は不可能である。つまり自分の無意識の立場から、おそらく自分のまだ言葉になっていない思考を裏付けるような本を、無意識のうちにあつめているだろう。その結果、著者に対する好悪という感情まで出だしている。そうして買い、読んだ文章の中に、膝をうつような部分があると、「そこだよ、俺が言いたかったのは!」という流れとなる。本の中に、自分のなんとなく考えている表現、説明を探しているのである。それを自分の意見として言語化するわけだ。? しっかり実証データをあつめて分析しているわけではないし、そのような能力も時間もない。しっかりした第一線の専門家がどう考えているかから入る。その彼ら専門家の思考の流れの中で、「そこだよ」がある時もある。その瞬間、それはわたしの、わたしオリジナルの意見である。そのような形で、自分の意見を組み立てている。答えははじめから、直感でわかる。年の劫である。はずれない自信がある。だいいち、景気をあげれば物価があがるなら納得するが、物価をあげれば景気がよくなるなど、馬鹿をいうにもほどがある。だが、占い師ではないから、その理由、合理的説明を、なぜわたしがそう直感したかの理由を、専門家の文章の中に探し続けているわけである。
と考えても、金融緩和などはマクロ経済学の縄張りだが、マクロ経済学は、それぞれの仮定にもとづく思考実験であり、論者により、派閥により、おなじことでも正反対の意見が百出する。今月22日のワシントン・ポスト紙のコラムニストは、リーマン危機以来、マクロ経済学は信頼をなくしたと論じている。欧州とアメリカで3800万人以上の失業者をかかえながら、経済学者達の意見が対立したままで、人々を戸惑わせているそうである。これは、金融緩和をめぐる日本の経済学者達も同様であり、そもそも経済学は科学足りえないのではないか、これは宗門のあらそいではないか、との感すら起こる。
「金融緩和の罠」という本は、この四月に第一刷が発行されている。藻谷浩介、河野龍太郎、小野義康の三氏。これは野口悠紀夫氏とともに、わたしがベンチマークしている論者である。基本的にマクロ経済学者の意見は、そう信用していない。あまりにも思考が荒いからである。固執もつよい。反対者へのこき下ろしもきつい。第一章の藻谷氏の話「ミクロの現場を無視したリフレ政策」により、なぜ信用できないか納得できた。また、氏の切り口は、そりゃそうだね、と納得できる。? 以下、生徒のつもりで、その内容を要約してみる。目的は、このような書くこと、ノートをとることにより、その過程で自分の頭を整理するためである。藻谷氏は、その著書「デフレの正体」のなかで、旧来型のマクロ経済政策だけでは日本の経済成長は不可能であり、それを理解するには、もっとミクロな現場で何が起こっているかを注視すべきだとの立場である。
以下、藻谷氏意見の要約。
経済は、ミクロな経済事象が複雑にからみあい、積みあがっている生態系である。マクロ経済学の本に書かれたセオリーばかり論じても、その実態には迫れない。現場の無数の現実に触れて、そこから線リーを組み立て直さねば、本当のことはわからないと実感している。セオリーベースではなく、現場に即したファクトベースが重要である。
マクロ経済学は、現実にある無数の変数を思い切り絞り込み、「この変数を動かせば、ほかのこの変数がこう動く蓋然性が高い」というセオリーを構築する。これは一種の思考実験である。? だが、現実の経済社会では、セオリーを構築する際に便宜上無視したほかの変数も動いていて、結果に影響を与える。マクロ経済学のセオリーベースの理論は、「摩擦がないと仮定すると……」ではじまる物理の公式が、摩擦のある現実の世界では通用しないのと似ている。? また、蓋然性が高いとは、100%そうなるということとは、まったく違う話である。マクロ経済学は欧米で発達したが、ものごとには常に例外があり、しかも日本というのは、なににおいても世界の中では例外のほうに属しがちな面白い島国である。だから現実には、世界に稀な長期の金融緩和をつづけてきたのに、一向に効果が出なかったりする。? 1995年から政策金利は一貫してゼロであるし、量的緩和も2001年から5年も続けたにもかかわらず、デフレから脱却できなかった。 「貨幣供給量を増やせば経済が活性化する」というリフレ論は、そういうセオリーを主張するアメリカのノーベル賞受賞経済学者が組み立てた理論であり、セオリーベース、マクロ経済学的な思考実験の産物である。理論構築の都合上、途中でいろいろな変数を切り落とした結果、貨幣供給量の調整だけで複雑な経済をコントロールできるという美しい理論ができあがった。 先ごろの日本で起きた日銀総裁人事は、戯画化して言うならば、「殿、ご乱心!」と必死にとめようとした前日銀総裁の白川氏を張り倒して、「俺にこの万能の貨幣供給量ツマミをまわさせろ」と学者や政治家が殺到した感じである。そのような単純化された理論どおり金融政策をとりつづけるというのは、まさに日本経済を実験台にした巨大な社会実験である。日本経済への、巨大なリスクがある。
リフレ派は金融緩和で経済が浮揚する。あるいはデフレから脱却できる、と主張するが、リフレ派が間違っているなら、どこが間違っているのか?
リフレ派は、貨幣の量が少ないから、みんなお金にしがみつき、お金をモノに換えない、つまり消費しないという。? だが、リフレ派はそもそも「供給されたお金はかならず消費にまわる」という前提に立って構築された理論である。「人はお金さえあれば、無限に何かを買い続ける」というのは、実地に証明された話ではない。商品を並べて置けば売れたモノ不足の時代が、浮世離れした一部の経済学者の頭の中で今も続いている。この理屈からいえば、「消費が活性化しないのは、十分なお金が世の中に出回っていないからだ」となる。? ところが、現実の日本では、企業も家計も金融機関も資本収支は黒字で、政府だけが赤字である。つまり企業も家計も金融機関も、投資しても消費しても使いきれないお金を余らせているから、国債を買っているのである。カネ不足という、リフレ論者が検証もせずに当然とみなしている前提が、事実としては崩れている。 生産年齢人口が減少し、就業者数も減っている。人口の多い世代がどんどん退職し、高齢化している。退職した彼らは以前のように消費しなくなる。年金生活に突入すれば、先行き不安でお金にしがみつく。1995年が日本の就業者数のピークだった。それから2010年までの15年で、就業者数は7%減った。? セオリーベースで考えると、就業者数の増減は景気次第とされているが、ファクトベースで見ると、日本の雇用の増減は、景気ではなく、生産年齢人口の増減で決まる。さらに、足元の2010年~2015年には、団塊世代の退職があり、日本史上最高の400万人の生産年齢人口減少が新たに見込まれている。? 就労者数が減ることは、勤労所得者が減ることであり、当然に消費に影響する。小売販売額のピークは96年の148兆円。それが10年後には13兆円のマイナスである。旺盛に消費する現役世代の減少とともに、消費が減った、日本国内の需要が消えていったのである。さらに恐ろしいことに、劇的な生産年齢減少が始まるのは、むしろこれからである。この先は1年に1%ずつ生産年齢人口が減少していくペースとなる。? この現役世代の頭数の減少を、毎年1%ずつの給与の上昇で迎え撃たない限り、日本ではとてつもない需要減少が発生することになる。それだけでなく、現役世代が減ると同時に高齢者が急激に増えることになる。それへの今後必要となる社会保障費は、日本経済への大きな負荷となる。それが潜在的な社会不安となって、さらに消費を抑えこむと思われる。
人口構造の変化が経済にもたらす影響を、過少評価すべきではない。現役世代が増加することを「人口ボーナス」と呼ぶ。逆に現役世代が減少し高齢者が増加することを「人口オーナス」と呼ぶ。この人口オーナスこそ小売販売額減少の引き金だったのである。? 現役世代が減少すれば、それにあわせて車、家電製品、住宅など主として現役世代が消費する商品の需要減少はまぬがれない。企業も、本来はそれに合わせて供給数量を減らしていけば、すくなくとも大きな値崩れは生じなかった。だが「つくれば売れる」時代が終わったことに気づかない多くの企業は、大量生産がやめられず、過剰に生産した在庫を叩き売ることで価格の低下を招いてしまった。? そういう実態を水に、リフレ論者は金融緩和ばかり言い立て、構造改革派は生産性の向上を叫び続ける。現役世代の人口が減れば、それまでの供給力は過剰となり、値崩れが起こる。需給ギャップである。
要するに、需要が縮小するのは、現役人口減・高齢者増加という人口構造の変化によって生じた減少であり、貨幣減少ではない。この日本の経済状況を「デフレ」と呼んでしまうこと自体が間違いなのである。貨幣減少であるデフレではなく、日本で「デフレ」と呼ばれるのは、主として現役世代を市場ととする商品の供給過剰による値崩れという、ミクロ経済学上の現象なのである。そのため、値崩れを起こしているのは現役世代を主な相手とする特定の分野、土地や住宅、家電や家具や自動車という商品である。住宅価格は下がり、家電メーカーは不振にあえいでいるのは、そういうことである。 デフレというマクロな言葉で、値崩れというミクロな事実をおおってしまうと、企業は経営戦略を間違え、政策決定者は、金融緩和といった単純すぎる処方箋を出してしまう。団塊世代が世帯主となる時期に、日本は諸外国にないすさまじい人口増加を経験した。高度成長期の理由はここにある。家電メーカーは、この時期に大変に強くなった。? ところが、1990年代後半から、現役世代の減少局面、人口オーナス期に突入した。景気に関係のない需要数量減少が起き始めたことに、自動車メーカーは気づき、高価格帯へのシフトをはじめたり、女性市場の開拓に注力をはじめた。ところが、家電メーカーは新たな市場を獲得せねばならないことに気づかず、若者でなければ使いこなせない機能を盛り込んだ商品の大量生産を続けては、売れ残ったぶんを家電量販店で捌くという悪循環におちいり、採算が悪化していった。そうした企業が、人件費をとことん削ってまでシュア争いをし、さらに過剰生産をつづけてしまった。? 給与が減ったり、職を失った人が増えれば、消費マインドは冷込むにきまっている。1995年以降、先進国のなかでは日本だけが、名目賃金が低下した。国内の個人消費が伸びないので、企業は国内に設備投資をしない。さらに需要は減っていく。
また日本では、IT化、メカトロニスク化、自動化が進んでおり、メーカーの生産性はとんでもなく上がっている。労働力が減っても、生産力は向上するのである。企業が重視するのは、人件費を削り、納入企業を買い叩き、コストカットに邁進することばかりである。値下げ、値下げに終始するのが日本の企業体質である。経営者たちは、四半期ごとの利益をなんとかキープすることに必死になる。長期計画はなおざりである。コストカットもやむなし、人件費は圧縮せよの、となる。マネーゲームを加速させる金融緩和より、この株主資本主義のあり方を考え直すほうが、本質的な解決に近づくと思う。 証券会社が日参する個人投資家の多くは、高齢富裕層である。彼らには、現役世代のようにモノを消費する理由も動機もない。退職して給与所得がなくなった人は、なお消費せずに「老後の不安」にそなえて、貯蓄を増やすのである。? リフレ論者は、日本人、とくに資産をもっている高齢者の貯蓄志向の強さを計算に入れていない。企業が人件費を削ってだした利益を配当するたびに、現役世代から富裕高齢者に所得が移転する。年間55兆円におよぶ年金も、現役世代から高齢者への資金還流である。? だが、そうした高齢者の収入の多くは、銀行の口座にたまるか、国債の購入に当てられる。モノの購入には向かわない。? アメリカ人であれば、死ぬまでに貯金をつかい切ろうとし、使い切れなければ、どんどんと寄付をする。それが経済活動にまわる。? ところが、日本の高齢者は、使うことより貯めるばかりである。日本人はなくなるときに平均3500万円を残すという説があるが、仮にそうだとすると年間30兆円の個人財産が、死ぬまで使われずに残っている。? リフレ論者のいう「貯蓄は消費する前のリザーブ、予備であって、いずれ必ず消費される」という前提は、ファクトベースで否定されている。まして国債購入であれば、国の「公共投資」は税収すら拡大させるのに成功していない、「投資」の名に値しないものばかりであり、経済効果はしれている。
国の借金が1000兆円というが、国債を買っているおもな層は、1400兆円の金融資産をもつ個人投資家、つまり高年齢の富裕層である。この層は、もうモノは買わない。この層がマったくお金を使わないから、内需は縮小するばかりである。? 年金制度も、制度自体の維持が危ぶまれている。こうした不安を抱えた現役世代は、いま稼いだお金に頼るしかないとのことで、インフレになろうが溜め込むばかりであろう。高齢者は、少々インフレになったくらいではお金を使わない。彼らは何歳まで生きるかわからないという生存リスクを抱えて、死ぬ前に資産が目減りすればアウトと考える。所得のない高齢者にとって、デフレのほうが有利である。そうした高齢者たちがいま爆発的に増えてる事実自体が、デフレ圧力となっている。
これからアベノミクスで起こる最悪のシナリオは、円安がこのまま進み、仮に輸入燃料や原材料の価格上昇で、平均値である物価だけ見ればインフレになったとしても、内需が復活しないという展開である。物価は上がるが賃金水準は上がらず、むしろ物価が上がった分、実質賃金が下がって、さらに内需が縮小するというシナリオである。
人口オーナスが日本経済に与える影響はすさまじいものがある。貨幣供給量を増やし、モノの値段をつり上げれば、内需も拡大するという単純な話は、おこりそうにない。日本のように機械化・自動化が進んで生産力が高くなった国は、ただでさえモノは供給過剰になりやすい傾向がある。そのうえ生産年齢人口減少があり、企業も需要不足を織り込んで人件費をカットしまくる。また資産を株式でもつアメリカ人とは違い、貯金をしたがる人ばかりのこの国での高齢者は消費をしないのであり、金融緩和でお金を流したくらいでは、とても需要は回復しない。? またマクロ経済学者は、日本企業が値下げ競争を辞さず、人件費を削りながら不採算商品の大量生産をなかなかやめないという不合理に行動をとる国であることを忘れている。 また円安のために輸出が減っているのではない。プラザ合意で円高がはじまって以来30年近く、輸出は減るどころか1.5倍に増えている。一貫して黒字だった。ところが2012年末以来、化石燃料輸入価格は上昇をし始めている。このまま円安を放置すれば、2013年、今年の日本は、貿易収支のみならず金利収入を入れた経常収支でも、高度成長期以降はじめての赤字におちいる。アベノミクスによる円安を喜んだすべての人々は、年末に懺悔してもらわねばならない。
円安にして輸出を回復しろといわれても、もともと、落ちてもいないものをどう回復させるのかいう話になる。
さらに致命的なのは、円安により化石燃料等のコストが機会的にはねあがる。その分、日本のGDPのほとんどを占める内需対応型企業の収益が低下することである。コスト増を商品価格に転嫁できればよいが、そうではなく、人件費や下請けへの発注をさらに削るという旧態依然の対応が横行すれば、果実に経済は縮小する。
国がどんどん国債を発行しつづければ、いずれ国債の信用が棄損され、金利が上がる すると発行国債の流通価値が下がるから、結局、富裕層の資産内容も悪化していく。そして国債の信用棄損というリスクまで引き起こす。?高齢富裕層は、輸出増があろうが金融緩和をしようが、彼らは消費を増やさない。だから設備投資も人件費増加もおこらず、雇用者報酬も増えなかった。そのためモノもまったく売れなかった。お金をばらまいても、生産年齢人口が減少する日本では、お金は株式や国債を買える高齢富裕層のところでとまってしまい、消費意欲の強い現役世代にはいきわたらない。したがって需要は回復しない。これは金融緩和の罠と称すべきものである。それどころか、国債の信用棄損というリスクまで引き起こしてしまっている。 金融緩和は、貨幣流通量を増やすという点のみについては、実際に機能する。やればやるほど実物経済の価値に対して通貨量が多くなるから、潜在的なインフレの種がまかれることになる。ゆるやかなインフレになるのか、急激なインフレをもたらすのか。リフレ論者は前者であるとするが、それを保障するデータはない。後者の立場はち、日本円自体の価値が下がり、国債の流通価格が暴落し、円安で輸入品だけは価格が高騰する危険性を述べる。 しかし、これまで論じたごとく(藻谷氏説によれば)、日本のいわゆる「デフレ」は、貨幣供給が少ないことによって全般的におきているものではなく、主として現役世代を市場とする商品の供給過剰による値崩れであるから、ほんらい日銀は無関係である。だが、リフレ論の信者には、ある共通の属性があり、「市場経済は政府当局が自在にコントロールできる」という確信をもっていることである。だから日銀がデフレもインフレも防げると信じ込んでいる。 リフレ論者の楽観とちがって、いずれ急激なインフレが起こる可能性もある。正確には、スタグフレーションである。仮にそうなっても、過剰生産は消えない。買い手が減っているのであるから、突然に車や家電製品が売れ始めることはない。その結果、企業収益は上がらないので、雇用者報酬も増えない。つまり、円安で輸入材料価格ばかり上がり、国民の生活は苦しくなるという、いわゆるスタグフレーションが生じる懸念が大きくなる。?さらに怖いのは、前回インフレが生じた石油ショックの頃と比べて、はるかに多くの高齢者を抱え込んでいる日本では、インフレへの耐性が非常に弱くなっている。当時300万人弱だった75歳以上の後期高齢者は、現時点では1400万人近くいる。インフレによる貯金の目減り彼らが陥るパニック心理、彼らの面倒をみるために新たに負う若者の負担はすざましいものになるだろう。ますます消費が冷え込むであろう。?いかに、いまの日本にとって、過度の金融緩和はリスクの大きい政策であるか、ということである。かってのように、生産年齢人口が増加傾向にあり、納税者や消費者が増えていた戦後半世紀の経済拡大期と同じやり方では、もう日本の経済は回復しないのである。
今世紀に入って、すでにこれだけ金融緩和し、技術開発をつづけているのに、日本の経済は成長していない。それは現役世代の減少と高齢者の激増という、日本の特殊な現実から目をそむけているからである。企業も国も、右肩上がりだった人口増加時代のやり方はもう通じないのに、戦略の刷新を先送りしている。今後、人口オーナスが進む中で金融緩和の効果はない。人口要因を無視したリフレ論者の空理空論の影響を、政策から排除せねばならない。
以上が藻谷氏の論旨要約である。 マクロ経済学の「一般論」や「平均値」の発想は、一つの変数を仮定して、その仮定を思考遊戯として楽しむのは結構だが、現実の政府の根本政策にするとなると、一か八かの特攻作戦となる。旧ソ連の計画経済の背景は、マルクス経済学である。少数の変数で複雑な現実を説明でき、経済をコントロールできるという思考回路である。藻谷氏は、いまのリフレ論者を、その同類と認識しているようである。確かに、そうである。何十億の人間の欲望がからみあい、もつれあい、うばいあう資本主義市場を、コントロールなどできるはずがない。神でもない限り、そりゃ無理だよ。いや、神でも無理か。スティグリッツの最新の和書の題名は、「見えざる手」など存在しない、である。