「金融緩和の罠」第三章である。論者である小野善康氏は、不況研究の阪大教授である。日本経済の変質が90年代に起こり、それ以前と以後では次元が違うとの論理は、第一章の藻谷氏、第二章の河野氏と同じである。両氏はその変化の量にフォーカスしている印象だが、第三章では、小野氏はそれによる社会の質の変化にフォーカスしている。つまり、日本が高度成長期の途上国から、成熟した先進国になったのが、いわゆるデフレの原因であるとする。つまり、モノが買いたくてしょうがない時代から、もう買うモノはない時代への成熟である。お金がなくて消費を抑制せざるを得ないのでなく、お金はあるが、とくに買いたいモノもない時代への変化である。結果として、困窮層も富裕層も、消費は行わない。企業は投資できない、デフレが起こる、このメカニズムは、第一章、第二章と同じとなる。お金があれば、最終的にそれはすべて消費に向かうというマクロ経済学の前提が間違っていることになり、それを前提とする金融政策は間違っていることになる。
以下、要約する。
民主党時代、管首相のブレーンであった。管氏が総理になる前に「金融緩和は効果のあるものなのか」と質問されたことがある。「いえ、いまの日本では効きませんよ」と即答した。「過去の実例を見てください。効果はなかったでしょう」と説明した。
2001年から2006年の金融緩和以前でも、日銀はずっと金融緩和しつづけてきた。増加率でいえば、2001年以降の5年間の39%に対して、それ以前の5年間では45%で、2001年以前のほうが、むしろ増えていた。日銀が量的緩和をおこなうと言い出すずっと前から、小泉政権にかぎらず、バブル崩壊以降、日銀は貨幣の供給量をどんどん増やしつづけていたのである。
では、貨幣の供給量を増やせば物価は上昇するのか、つまりデフレ克服につながるのか。これは、貨幣の供給量と消費者物価指数を並べてみれば、一目瞭然である。この10年、貨幣の供給量を増やしても物価はあがってはいない。一発でわかる。金融緩和をしても物価の上昇をもたらすことはできない、これが事実にもとづく結論です。
ただ、注目すべきは、1980年代後半までは、貨幣の供給量に比例して物価もGDPも素直に上昇していた。しかし、バブルが崩壊し本格的に景気が悪化していった90年代からは、その相関関係が消えてしまった。貨幣供給量をどんどん増やしているにもかかわらず、物価は上昇せず、GDPも増えない。なぜその相関関係が消えてしまったのか。
これは「お金」の持つ深い特性を考えないと、この経済構造の変化は説明しきれない。90年代半ばに日本経済の構造に大きな変化があったというのは、おおくの論者が指摘しているとおりである。藻谷氏、河野氏の話に共通するのも、この時期に生じた人口動態の変化が引き金となって需要が縮小したという点である。
わたしの理論でも、この90年代半ばの転換は重要である。ただわたしは人口動態とは違う要因を考えている。それは、まさにその時期に、日本が「発展途上社会」から「成熟社会」に突入したからであると考える。モノに対する飢餓感のある社会から、そうでない成熟社会、つまり生産力が不足している社会から、生産力が飽和している社会へ、日本は転換してしまったのである。
「所得が増えれば消費が増える」という経済学の昔流のモデルではなく、もっと動学的なモデルで景気の変動を説明できないか、と思ったのである。プリンストン大学にいたとき、そのひらめきを得たが、帰国後も考え続けていた。あるとき突然に「人はお金そのものが欲しい」ということに気づいた。つまり金銭にかかわる欲望は、お金でモノを買った後に得られる喜びではなく、純粋にお金がいま有るから、あれもこれも出来ると実感できて嬉しい、ということ(つまり氏の言うのは、お金自体が究極の最終商品、最終消費であるということか)である。
その角度で考えたら、経済学が扱えなかった長くつづくデフレ不況の原因について、説明がついた。だが出てきた結論は、それまでの経済学の常識とはかけ離れたものだった。一生懸命働くほど不況はひどくなるとか、賃金を下げてモノを安く作ろうとするほど不況が悪化するとか、日銀が貨幣供給量を増やしても効果はまったくない、とかである。
新古典派経済学の常識では、不況というものは存在しないと考えられている。現実に照らせば、そのはずはないが。また、ケインズの流れをくむニュー・ケインジアンたちは、景気刺激を重視する彼らでさえ、不況はごく短期の一時的な調整過程であるとしか考えていない。一時的な不景気で失業者がでても、需要と供給の調整がなされれば、そのうち完全雇用が達成されると考える。
しかし、それがいまの日本に当てはまるだろうか。バブル崩壊から20年以上たつのに景気回復の兆しはなく、失業が恒常化し、不完全雇用からの脱出ができない長期不況にはまり込んでいる。失業率も一定はの水準に張り付いて、不況が「定常化」している。従来の経済学では、この「不況定常化状態」はないことになっている。
つまり、この定常的な不況が起こるのが「成熟社会」である。この社会のポイントは、「お金が究極の欲望の対象になる」ということである。お金への欲望は、お金という便利なものを生み出した人間の宿命である。これは発展途上社会でも成熟社会でも同じである。
だが、人間誰でも、モノが満ち足りてしまうと、それ以上ほしいのはお金だけになる。発展途上社会では、生産力が低く、モノへの欲望が大きいから、お金への欲望が表面に出なかった。だが生産力が拡大し、モノが大量生産されると、いま持っている以上のモノへの欲望が減って、お金への欲望が表に現れてくる。これが成熟社会である。
そうした成熟社会と発展途上社会とでは、経済政策の効き方も、ほぼ正反対といっていいくらい異なる。90年代以前の日本と、90年代以後の日本は、まったく異なる(藻谷氏、河野氏の90年代後半の人口動態変化の量的視点から、小野氏は、質的転換をとくようである)のである。
古い経済学では、人々が稼いだお金の量は、人々が働いてつくったモノやサービスの量に等しいと考える。つくったモノの価値だけモノが売れるという前提であり、生産過剰もなく、失業もおきない。つまり不況はおきない、存在しない。これが新古典派の基本的な発想である。そのため、いままでのほとんどの経済学者が、供給を改善すれば経済はうまく回ると考えた。その前提でいけば、不況はつねに一時的な調整過程に過ぎないことになる。
だが、「お金が究極の欲望の対象になる」という前提をもたないと、不況が定常化している現代の状況を説明できない。
成熟社会とは、モノへの飢餓感がなくなった社会のことである。日本に、そういう時代が高度成長期を経てやってきたのである。たとえば冷蔵庫や洗濯機の登場である。これが出たことで、人々の生活は劇的に変わった。なけなしのお金を手放してでも、そうしたモノを手に入れれば、劇的に生活が向上する。それは今のパソコンやスマホの比ではない。ライフスタイルが画期的に変化し、家事の質が変わり、女性の社会的役割りもおおきく変化した。借金してでも、そのモノが欲しかった。嫁入り道具の花形である。90年代以前、昔の発展途上社会では、モノへの欲求水準が高くて、お金への欲求水準より上にあったのである。モノが絶対的に足りない時代は、お金への欲求があっても、お金を手放してモノを手に入れるほうが優先したのである。消費(そういえば、むかし消費は美徳であるとかの言葉があったなあ)が続けられる。
逆に、モノがあふれた成熟社会では、暮らしに必要なモノは、あらかたそろっている。モノを買っても生活の質は、たいして向上しない。モノへの欲求の水準が下がり、お金への欲求の水準と逆転した。人々の生活向上のために必要な需要は、社会の生産力によってすでに満たされたのである。モノやサービスは飽和し、もうとくに需要もおきないわけである。需要が少なければ、企業は設備投資もしないし、雇用も生まれない。とうぜん、失業率は高いままになる。その結果、成熟社会では雇用不安が蔓延し、人はますますモノを買わなくなる。お金への執着を深めるだけである。
貧しい国のデフレと違い、日本のデフレは、モノはもういらない、このお金の魅力に人々がとりつかれて、モノに比べてお金の価値がどんどん上がる。これがデフレである。デフレで物価が下がれば、一定額で買えるモノの量が増える。つまりデフレとは、逆に見れば、お金の価値が上がり続ける新型のバブルなのである。
貨幣への保有欲がモノの消費欲を凌駕した結果、モノの消費が減り、慢性的な失業と不況を引き起こす。それがさらに貨幣の保有欲を強化するというスパイラルとなり、不況の「定常化」にはまりこんだわけである。
人々がお金を貯蓄して保有するのは、将来の不安もあろうし、好きなとき、どんなモノやサービスに対しても購買力を行使できる自由、経済学で言う流動性の自由を確保したいからである。したがって、貯蓄が将来消費にまわるという前提は間違い(これで日本の特殊な不況の一部が説明できるな。アメリカ人は個人資産を株式でもち運用しようとする。また自分が稼いだ金は、自分が生きているうちに使いきろうとする。経済学は彼らが開発した。しかし、日本人はとにかく貯金する。死ぬまで貯金し、それ以上は使わない。金持ちでも贅沢はせず、質素である。子供に半分、相続税に半分である。経済誌ですら、ひんぱんに相続対策特集をする。それが日本型不況の原因であるか。お金を稼いでも「個人的乗数効果」がまるでナッシングなのだ。ケインズもフリードマンも、これを聞いたら驚くであろう。高橋是清は芸者の帯にも意味があるといったが、パンツの紐も買い換えないわけだな。カネがまわらないのではない。文化が、カネをまわさないのである。日本経済は、基本的に内需型である。もうモノが足りて、買うモノもなく、そして将来不安から国民の財布の紐がこれほど固ければ、巨大化した日本の生産力は空転するしかないな。シャープやパナソニックのような巨大な設備投資は地獄への一本道である。とすると、日本特殊論ではないが、欧米製のマクロ経済学は、日本では当てはまらないことになるか)である。
また、これは個人だけではなく、企業側の心理も同じである。つくったモノが売れる見込みがなく生産設備もあまっているのに、ゼロ金利といわれても、借金してまで設備投資しようとは思わない。それよりリスクにそなえて、内部留保にまわすだろう。人々が、将来不安からリスクにそなえて貯蓄を増やすのと同じである。そんな状態で、日銀がいくら貨幣発行量を増やしても、そのまま企業や金融機関に貨幣が保有されるだけで、企業の生産設備の稼働率もあがらず、投資需要も生まれず、消費需要も増えず、つまり物価も上がりようがない。日銀がいくら貨幣発行量を増やしても、効果はないということである。
発展途上社会では、一時的な不況ならば、貨幣の量を増やせば需要は刺激される。だが日本のようにモノにあふれた成熟社会では、そうはいかない。物価の絶対水準がひくく、お金の実質量が大きくても、モノのあまった成熟社会では、お金がモノやサービスの需要にまわることはない。総需要も雇用も大きくならない。さらに需要が不足しているからデフレがつづき、デフレがもたらす需要抑制効果だけが働く。したがって、物価が下がろうが貨幣供給量を増やそうが、需要は低いままである。
まあ、小野氏の論旨は以上のようなものか。経済学では貨幣はモノの交換手段であるとするが、小野氏は、お金そのものが究極の目的であるとする。この理論が、すべての国に当てはまるとは思えないが、すくなくとも日本の不況とデフレを説明するには、クリアであり、かなり有効であろうとは思う。欧米人が、みずからの身体に合わせて仕立てた服は、日本人のサイズには合わないのであるか。それとも小野氏説は普遍性をもつのか。インフレターゲット政策は無効であり、「乗数効果」は存在しないとする。これは賛成だが。また「成長戦略」は発展途上国のものであり、すでに日本ではむつかしい。それより成熟社会では「成熟戦略」が必要であるという主旨も同感する。日本のデフレは、ある意味、構造的な自然現象であり、定常的なものである。したがって、デフレ対策、デフレ脱却という発想、そして政策自体が出発点から間違っていることになる、か。無効である。とすると、アベノミクスは河野氏の危惧するように「取り返しのつかない失敗」となるか。
ふつうのマクロ経済学者は、溜め込まれて使われないお金という発想は苦手だろう。だが、もともと貨幣(通貨)には、①交換の手段、②価値尺度、③価値の貯蔵という役割がある。この③の価値の貯蔵機能こそが、日本のデフレの原因ではないだろうか。小野氏によると、そうなる。マクロ経済学の手法は、たとえば通貨量なら、その総額をMと置いてなどと変数化し、その中身モデルは均質なものと捉えて、変数の増減とGDPや物価との関係をさぐろうとする。まあ、机上の統計学から法則を編み出す努力をするわけだが。この小野氏の理論も、たとえばスティグリッツの経済学が、世界各地の特性、ポジションの特性などから情報の非対称性を変数として入れたように、小野氏も、「地域による通貨貯蔵の非対称性」ではないが、それを数値化する努力をしたら面白いのではないか。日本は、通貨の貯蔵指数がこうであるから、流動性はどうなるとか、物価と貨幣供給量の関係は、こうなるとか。フィッシャーの交換の方程式では、MV=PTだが、この恒等式では現実が説明できない。これをフリードマン式にMV=PYにしても同じである。そこに貨幣の本質的特性と文化という変数を入れて、組みれ直せないか。これでノーベル賞はとれないだろうか。これは、まあ雑念だが。いや、とれるかも知れない。また、MVでもMを増やすのではなく、Vの回転速度をあげるのが、可能ならば最善のはずである。
経済を活性化するとは、グルグルお金をまわすことである。しかし、そうだな、お金を使うことは悪いことだからなあ。がんばってカネを稼いでも、もしベンツでも乗った日には、村八分になるしなあ。成金と呼ばれて軽蔑されるし、だいたいカネを稼いだ奴は、何か悪いことをしたに決まっている、ことに決まっているしなあ。アメリカのように努力の結果であると見られることは少ない。ブランド品をたくさん持っている女性は、じつはまわりから軽蔑されているかも知れない。
まして、山陰の農家の息子でカネに縁のない育ちをした団塊世代には、カネを使う根性はないなあ。シャッツが1000円。チノパンが2000円、ベルトは1050円、靴は5000円くらいか。そこそこの納税額はあるが、上から下までで1万円しないのである。発展途上国以前の「もったいない」精神であり、あまりのヤボさに、数年前に家人からアルマーニのスーツをプレゼントされたが、もったいないから一度も袖をとおさないまま、今はどこに入っているか、所在不明である。小野氏のいう「お金が究極の目的」とは少し違うと思うが、消費行動の結果は同じである。反経済学的な存在であるか。所得=消費とはならない。
以上、読書の要約であり、お勉強。3氏の意見は、どれも興味深いものだった。おそらく正鵠をついていると思われる。4月、タイのソンクランに行こうと知人に招待された。建設設計会社の代表である。行きも帰りもビジネスクラスであり、ホテルは四つ星。一人25万円くらいか。お礼に、服を仕立てることを薦めた。バンコクは腕のいい仕立て屋がおおく、外国人旅行者向けに三日でつくる。イタリヤ製、イギリス製の布地で2万円くらいである。5着つくれば10万円。もし日本でなら100万円かかるだろう。これで75万円儲うかる。さらにパンティッププラザという世界的に有名なタイの秋葉原のソフト販売店につれていった。さまざまなCADソフト・設計ソフトを売っている。本来なら50万、60万のソフトが100バーツ、350円程度である。ここで彼に200万円くらい儲けさせた。ビジネスクラスと四つ星はういたはずである。二人で大笑いしながら、ソンクランの水掛祭りに行った。こんな消費行動である。サプライサイドともいえるが、供給=需要ではなく、供給=遊びである。あっても無くても良い。必需品の需要ではないから、マーシャル均衡点なぞは、はじめから無いのである。インフレターゲットといわれても、こんな関西男たちに合理的期待形成を「期待」するのは無理筋である。クールグマンが何を言おうとも、偽薬にカネは払わない。プラセボ効果など、期待しないでほしいものである。
ベンチマークしている野口氏、河野氏の判断は、アベノミクスはアベノ「リスク」であるとなる。とすれば次の課題は、どうヘッジするかである。お勉強をつづけよう。ついでに、通貨貯蔵変数による通貨供給量と物価の非対称性で、ノーベル経済学賞でもとろうか。経済学賞は乱発しすぎでは。閉鎖系の思考実験、同人誌の小説に似ているが。