すこし仏教の勉強をしている。名古屋で仏教セミナーに参加し、以後は本で。すこし文章としてまとめる必要があり、以下、それをまとめてみた。まず、基礎仏教とインド仏教史からやっていこう。
原始仏教の特色について述べる
1.原始仏教の根本命題について
釈迦の死から約100年後のアショーカ王のころ、仏教教団は上座部と大衆部とに分裂した。それ以前を原始(原点・始点)仏教または根本仏教、以後を部派仏教と呼びならわす。つまり、釈迦が生きていた時代を含む初期のおよそ150年から200年の間の仏教である。そのため、原始経典の中でも成立が古いと考えられている『スッタ・ニパータ』などを分析し、その古層の中から釈迦の思想を解明しようとする研究も進められている。
そして末木文美士『思想としての仏教入門』第五章「苦悩としての存在」は、「仏教においてはこれこそ仏教の中核だという思想はなかなか指摘しにくいが、基本的に仏教はゴータマ・ブッダと結びついていなければならない、という暗黙の了解は、ある程度認めることはできる。それゆえ、原始仏教の思想は仏教全体の存在理解、人間理解の根底をなしているところがある」とする。
また2014年6月29日、愛知大学において行われた佛教大学「基礎ゼミナール」において、並川教授は、仏教の根本命題として「苦悩からの脱却がある」と講義された。そして、その「苦」からの脱却の仏教的プロセスとして、5つの流れを述べられた。それは以下である。
①「苦」とは何ぞや。→心の病としての「四諦説」
②「苦」は煩悩により起こる。 →自らに蔵される原因
③ 執着(煩悩)を乗り越える。
④ 方法=修業
⑤ 結果→苦しみが消滅=悟り そして悟った結果として、今まで見えなかった世界の実相、「縁起」「無常」「無我」が見えると講義された。
以下、上記二論の立場より発して、原始仏教の根本思想についての整理を試みる。
2.三法印の成り立ちについて
三枝充よし『インド仏教思想史』63頁以下によれば、初期仏教の法の大部分は「苦」からはじまっているとして、ブッダの成道の根源はなにかとすすめて、それを仏伝の「四門出遊」にみる。「どんなに恵まれた肉体を持ち、どんなに楽な生活を送り、どんなにはれやかな環境にあっても、老・病・死に象徴される《苦》を人間は避けることができない」として、それがブッダのさとりの、さらにさかのぼって出家の根源にあったと述べる。
そして三枝前掲書51頁以下では、「この立場に即して眺めるならば、まず苦の問題が生じる。それはふり返って、自己(我)の問題に発展する。自己を見つめていくと、心の問題が生じる。また自己のあり方の問題も生ずる。同時に、自己と他人との問題が生じる。このあとの二つの問題から、因果関係(縁起)の問題が生ずる。さらに最高の真理(諦)となるべきは何かの問題が生じる。自己やもののありかた(法)の問題も生ずる。実践の指針(中道・八正道)の問題も生じてくる」と説明する。
そしてそれは、初期仏教経典『ダンマパダ』の、
277 一切のつくられたものは無常である。
278 一切のつくられたものは苦である。
279 一切のものは無我である。
すなわち、諸行無常、一切皆苦、諸法無我の原始仏教での三法印の教えに行く着くことになる。これらの初期仏典の教える範囲内が、ゴータマ・ブッダの、すなわち原始仏教の思想であったと思われる。
3.縁起と四諦説について
水野弘元は『仏教の基礎知識』第八章「十二縁起」において、「四法印を基礎として構成された学説が縁起説である。縁起説は原始仏教以来、部派仏教(小乗仏教)、大乗仏教のすべてを通じて、その根本教理をなすものということができる」と断じている。縁起説は仏教の中心思想であり、「縁起とは現象の動きのあり方を正しく見るものである」と述べる。
また末木前掲書60頁以下でも、「現象世界の問題を、超越的な原理を持ち出さず、現象世界の枠の中で説明する理論が縁起説で、これもまた仏教の特色である。縁起説とは、要するにこの世界の現象はすべて原因があって成立するのであって、原因なくして何物も存在しない、ということを主張するものである」と解説する。そして、「縁起は、後には広く一般的に事物の相互依存関係を意味するようになるが、もともとはどうして人生の苦が生じてくるのか、その原因を解明しようというものである」と説明する。部派仏教において、それをさらに体系化したのが十二縁起である。
その縁起の探求から、では最高の真理(諦)は何かという発問が生じる。それが四諦説として教えられる。四諦説は、苦・集・滅・道の四つである。
①苦諦:一切の生あるものは苦である、という真理である。
②集諦:苦がどのようにして生じるかを明らかにする真理である。多くの経典は、それは「渇愛」にもとづくとする。
③滅諦:①②により苦の原因を知り、それを滅し去りニルヴァーナを実現するという真理である。
④道諦:「苦の滅にいたる道諦」であって、現実での実践だが、それは「八正道」「中道」として説かれる。
4.煩悩を滅して悟りの道へ
末木前掲書72頁以下では、「我々がものに執着するのは、それが言葉に対応して設定された現象であることを忘れ、その対象があたかも永続の実在性を持つかのように考え、それを他のものとの関係から切り離して、他のものは変わっても、それだけは変わらずに所有していたいと考えるからである。これが原始仏教でいわれた渇愛である。死すべき無常の存在で、永続的な自性を持たない自分自身を、あたかも永続的なもののように考えるところから、自己に対する執着が生じ、苦しみが生じる」と述べる。
2014年6月29日、愛知大学での「基礎ゼミナール」において、並川教授は、「執着=煩悩」と講義されたが、ゴータマ・ブッダの「四門出遊」のように人間の最大の煩悩は、老・病・死であろう。また、これはどの宗教においても最大のテーマであろう。だが、人として生まれた以上は、避けることのできないものである。
では、せめて現世において、どうすればその「苦」すなわち「煩悩」から逃れることができるのか、すなわち「悟りへの道」は何かが発問されることになる。
部派仏教、大乗仏教ではまた別な答えが用意されているようだが、原始仏教の段階においては、四諦説により、滅諦、道諦として、苦を滅する道、すなわち悟りへの道が説かれていると考えて良いのだろう。末木前掲書72頁以下では、「原始仏教の実践主義の立場」と表現して、後世のように理論・分析ではなく、原始仏教は実践であったと解説する。 2014年6月29日、愛知大学での「基礎ゼミナール」において、並川教授は、方法=修行であり、「苦しみが消滅=悟り」と講義されたが、それは「中道」をまもった修行、実践により得られるものであろう。それが原始仏教と大乗仏教の大きく違うところであろう。
5.おわりに輪廻と「無記の思想」という個人的意見について
バラモン教、ジャイナ教、原始仏教の背景には古代インドよりの「苦の思想」と「輪廻」という宇宙観があるとされる。しかし、われわれ東アジア人は、カーストもなく、この輪廻の感覚を持たない。人生が一切皆苦だとも思わない。したがって、「輪廻からの解脱」という必要も発想も持ちえない。しかし、この輪廻の思想、宇宙観こそ仏教成立の母胎、根本前提であるともされる。
だが、原始仏教=根本仏教は輪廻を前提にしないと解釈が成り立たないのではないか。しかし、無我、アンアートマンとは輪廻する実体がないことを意味する。「空」である。ここにわたしは根本矛盾を感じるのだが、ゴータマ・ブッダは形而上的命題には「無記」と、あえて答えを述べないようである。「師に握拳なし」とはされるが、ゴータマ・ブッダの本心はどう解釈すべきであろうか、そのような疑問をわたしは持っていた。論理的に、矛盾あるいは破綻していると、かねてからつよく感じていたからである。
これについて並川教授『ゴータマ・ブッダ考』を拝読したが、そこにおいて並川教授は、初期仏典の韻文経典を最古層と古層とに分類し、最古層から古層への記述の変化の流れを考証する。そして、輪廻思想に関して、最古層と古層に現れる用語や主張の変化を調べる。では、ゴータマ・ブッダは輪廻をどう捉えていたか。古層の経典では、確かに輪廻は業報と結びつけられ、積極的に説かれる。しかし、最古層の経典には輪廻(サムサーラ)という語は見出せず、「来世」や「再生」などの表現はみえるものの、いずれも否定的な文脈に限られているとする。つまり、ブッダは輪廻を否定していたと考えることができる。「無我なのにどうして輪廻という生死を超えた我の存続を認めるのか」との疑問が氷解するとともに、当時から流布していた輪廻という観念の因襲を、無我の思想を立てて解体しようとしたと本書は結論する。章末で、「最古層の資料に見られるような輪廻観、もしくは(輪廻思想に対して)さらに消極的なものであったればこそ、ゴータマ・ブッダが自ら主張した無我という考えと矛盾なく整合性をもって教えを人々に説き示すことができたのではないかと思われる」と総括されている。
ここにおいて、わたし的にはゴータマ・ブッダの「無記」の意味が、わたしなりに氷解したと感じる。当時の自由思想家にも断滅論・断見説のように、心とか霊魂は仮の存在にすぎず永遠不滅の実体は存在しないという見解があったとされる。アートマンが存在するかしないかは、当時の思想界の重大テーマのようであるが、だがアートマンと輪廻を否定すると、プーラナ・カッサパのように、悪業というものもなければ、悪業の果報もない。善業というものもなければ、善業の果報もないという道徳否定論にまで至る危険性がある。
そこにおいて、ゴータマ・ブッダは他の思想家の意見は批判するが、批判する以上は自分の見解があるはずだが、それは「無記」とする。つまり語ることを、あえて避けている。おそらく無我を説き、つよく輪廻を否定することを前面に出すと、当時の社会の反発も予想されるし、またあまりにもデガダンスとなり、教団の維持、ニルヴァーナをもとめる修行の理由を喪失させることになる。それを避けた積極的な沈黙が「無記」と解釈することも、可能ではないだろうか。これも「中道の心」とも解釈できないだろうか。とすれば、ゴータマ・ブッダがカースト制度をまったく無視したのは、自然である。輪廻=カーストが当時のインドの世界観だったからである。
この地点から逆算すると、龍樹『中論』における「空の思想」も、わたし的には理解できるような印象を受ける。また、後世の諸種の仏教諸派の、ゴータマ・ブッダの原点からの逸脱も、である。
ただ、魂の実体と来世の存在を否定する思考は、世界認識あるいは哲学としては成り立っても、宗教としては成り立ちにくいと、わたしは印象する。それは、おそらく一般大衆、凡夫の求めるものではない。この中心の耐え難い不在ゆえに、後世の仏教諸派、すなわち凡夫の布施により生き食べる職業的仏教集団が、その凡夫の求めるものにこたえて、星の数ほどの仏と仏国土という壮大な自爆をとげたのも、あるいは必然であったのだろうと推測する。その意味では、インドにおける仏教の終焉は、その誕生時に約束されていたのかも知れない。
セミナーでは、仏教はキリスト・イスラムとは違い、神を立てない宗教だと講師は語る。しかし、宗教の最大の目的は魂の救済であろう。なにかに帰依することにより、自分の魂、苦悩を他にゆだねることにより救済・解放されるのが、その仕組みではないのか? とすれば、その救済者を設定しない宗教となると、さて。コップの裏に顔があっても構わないが、なくても構わないけど、ないと寂しいじゃないか。よく東南アジアに行くが、ふつうに、自然に、その土地の人は仏と僧侶に手を合わせる。街角のピーの祠にも、たちどまって手を合わせる。宗教が生きている。わたしはあいにく拝金主義のこの土地に生まれそだった。ノーレジオンである。でも、自然な信心をもっているこの土地の人が、心からうらやましい。