学習ノート2 何度も「誤読」するインドの方々

 学習ノートその2である。もともと年齢相応に、すこし心の安定をもとめてこんなことをはじめたのだが、玉ねぎの皮むきになっている。こんなはずではないと、ちょっと涙が。最後まで玉ねぎを剥いたら、「空」をタタターとして発見しました、とはならないなあ。ばかやろう、寂しいじゃないか。さて、学習ノート1で、原始仏教からアビダルマに行ったから、つぎは学習ノート2で大乗だな。これはまたずいぶんと派手な世界となる。ロラン・バルトも真っ青である。

1.無数のブッダと無数の極楽の世界

 小乗と大乗では、おおきな断絶がある。とりあえず従来説によると、部派発展説あるいは各地のストゥーパ(舎利塔)に集まった在家集団説とか諸説はあるが、定説は無いようである。だが、仏教の中身が一変する。
 どの宗教でもそうだが、たとえ多神教でも唯一神のようなものがある。無数のブッダが生まれ、無数の極楽(仏国土)があるとされ、さらには普通の人間でも、修行をすすめることにより菩薩(ボーディサットヴァ)となる。これは悟り(ボーディ)を求める衆生(サットヴァ)を意味する修行者の意味であり、神でも仏でもなく、ただの向こう三軒両隣にすむ、ふつうの人間である。それが衆生の救済を発願して解脱すると、次の世においてブッダとなり、それぞれ一つの極楽(仏国土)の主人になるとか。
 これは小乗の大衆部の十方世界一仏多仏論よりはじまるとされるが、一人のブッダの支配する三千大千世界がいくつもあり、それぞれにブッダがいるというのである。それを受けて、東方妙喜国には阿閦仏が、西方の極楽浄土には阿弥陀仏が住するというような無数の信仰を生み出した。それぞれのブッダの仏像や仏塔も造られる。

 「どこでもドア」ではないが、「だれでもブッダ」の世界になったのである。まあ、わたしなりに考えてみれば、ゴータマ・ブッダ後、何百年もすると、すでにゴータマ・ブッダはゴッドとして神格化されていたようである。すなわち、ゴータマ・ブッダは、もともとシャカ族の一人の人間である。生きて、死んだ。だが、今はストゥーパ(舎利塔)に祭られ、ゴッドとなっている。つまり、もともと人間だった(過去)のに、今はゴッド(現在)になっている。ということは、人間はゴッドになれる。では、その仕組みはと考えるのも、一つの成り行きかも知れない。過去の人間が今のゴッドになっているビジネスモデルである。フランチャイズ化できるかも知れない。
 そこで、過去仏、過去七仏、現在他方仏というように解釈が生まれた。ゴータマ・ブッダのモデルが無数に成り立つと理解されたようである。

 もともと無我、魂などの実体がないことを教理としていた仏教だが、この大乗において、人間はだれでもブッダになれることになる。それは、人間は本来、その内部に「仏性」を持っているからだと説明される。これが大乗の特徴である「如来蔵」の思考である。原語はタターガタ・ガルバであり、タターガタは如来、ガルバは母胎の意味で、どの衆生も将来はブッダとなる可能性をもっているとする。これは日本では、本覚思想という形で発展し、だれでも「成仏」できると理解された。「だれでもブッダ」の世界である。そのうちこれは「もともとブッダ」になる。こうして神のいない宗教であった原始仏教が、その数百年後に、仏様つくり放題の多神教に変質したのである。果ては、密教となり、呪いとたたりとセックスの世界に入る。もう、これが仏教でしょうか、と言いたくなる。
 仏教はキリスト教のようなドグマ宗教ではないから、ローマ法王もおらず、統一的な教義も、教義の統一をはかる公会議もない。お経の偽造もむつかしくないし、聖書は神の言葉だが、仏教の経典は、ほんらい人間ゴータマの言葉の記録である。むかしのサイババのような人間が、自説をなにかに仮託して主張するのも簡単である。すると、変化する時代の集団心性と集団幻想、インド的混沌のままに、いくらでも変わりつづけることになる。

2.なにがジェーンに起こったか

 おおきなパラダイムの断絶あるいは変質については、トマス・クーンの科学革命理論、パラダイムシフトの理論が、だいたいに有効だろう。だが、大乗仏教の成立について、仏教学者は、部派発展説にせよストゥーパ(舎利塔)に集まった在家集団説せよ、それを仏教集団の内部の出来事として見ようとしている。そうだろうか。わたしは違うと思う。仏教の歴史の直線上に、このような突然の変質はないと考えるのが自然だ。

 まず、パラダイム論的に考えれば、ゴータマ・ブッダは、ガンジス川中流域での都市国家成立初期の人である。そのすぐ後に、アレキサンダー大王がインド侵攻戦争を行い、地元軍を撃破。西北インドにギリシャ系王国が誕生したことを知らない。やがて、さらにインドが発展し、世界との交易も活発となり、考古学的にも、南インドで大量のローマ帝国の金貨が発見されているが、そのような文明の移動や経済の世界的交流を知らない。つまり、王族あがりのゴータマ・ブッダが古き良きインドで「道を説いた」時代ではすでになく、国家権力も経済力も巨大化し、またさまざまな民族と文化、異民族や異教徒がインド大陸を移動していた、この時代の混沌としたインドを知らないのである。これも諸行無常。

 私は、以下のように結論あるいは仮説している。

第一、 普通仏教史を「発展」するものの一つとして捉える。まあ言葉あそびだが、これは「発展史観」である。
第二、 ここでわたしは、言葉あそびだが「埋没・消滅史観」を唱えたいところだ。
第三、 何に埋没したか、インドにである。

 この運動として見れば、仏教史の筋が通る。逆算すれば、最終的に仏教はヒンズー教に取り込まれ消滅しているから、上記の仮説は、単純に正しいのである。

3.インドによるインドのためのインド世界

 もともと仏教もその時代のインド世界のものであり、たまたま各国に伝播したが、それは結果としてである。インドの正統宗教はバラモンから、その発展形であるヒンズー教のながれとなるが、ここで肝心なのは、ヒンズー教の成立時期と大乗仏教の成立時期が、ほぼ同じとされることであろう。古代のバラモン教やウパニシャッドは、ある意味小乗バラモン教ともいえるかも知れない。だが、成立したヒンズー教は、はるかに民衆的であり、民衆の救済を積極的に図っている。おなじインド世界で、同時期に成立した二つの宗教の方向は、「軌を一」にしているのである。

 これは、ある意味では当然であろう。現在のインドのヒンズー教徒とイスラム教徒の抗争のように分離居住の形ではなく、ともに混在して住み、また龍樹などがバラモン教から仏教に転向したように、生活圏も同一であり、また文化的にもまったく同じなのである。お隣さんは浄土宗だが、うちは曹洞宗だ、程度の差しかなかったと思われる。事実、ゴータマ・フッダはヒンズー教においては、ヴィシュヌ神の九番目の化身として扱われる。つまり敵対どころか、「親戚以上」の関係なのである。
とうぜんながら、置かれている政治状況、経済状況その他、まったく両宗教は同じである。人的な緊密な交流もあり、その教義がにかよってくる、つまり「収斂理論」的に統合、融合されてくるのも自然のながれである。よく大乗仏教におけるヒンズー教の影響ばかり説かれるが、逆の現象も起こっている。ヒンズー教も仏教の影響をうけて、変わり続けていたのである。

 ヒンズー教は、哲学的には六派の正統哲学があったとされる。なかでも最も正統派とされるヴェーダーンタ派の中心的論者であるシャンカラの不二一元論が興味ぶかい。それによれば、ブラフマン=アートマンこそ、世界で唯一の実在であり、現象世界は「無明」によってブラフマンがあたかも幻のように展開するのであって、実在はしない。それゆえ、非現実の現象世界から、ブラフマン=アートマンの一致、根源にかえることによって解脱するとされる。
 シャンカラは、仮面の仏教徒と呼ばれるらしいが、これは、アートマンの非存在をのぞけば、仏教の教理構造と同じであり、また、この時期の仏教とは、浄土思想や如来蔵思想のように、すでに魂の実存を前提としていたのであるから、当時的には、両宗教とも、同一教義だったともいえる。そして、すでに当時は両宗教もともに多神教なのである。

 例外的に仏教に浄土教があるが、これはゾロアスター教の影響下に、ペルシャあたりで誕生したものとされる。絶対神が一人おり、天国と地獄のある救済の宗教である。『旧約聖書』では、バビロン捕囚の解放者であるこの頃のペルシャ王を「メシア」と書くらしいが、ユダヤ教もこのゾロアスター教の影響下に成立したとの説もある。キリスト教と浄土教の共通点を述べる論者も多いが、これはインドとは異質の世界からの訪問者であろう。となると、浄土教とキリスト教は、これば親戚筋か。脱線。

 まあ、後期の大乗仏教、すなわち密教となると、もうヒンズー教と見分けがつかなくなっている。密教の原理は、われわれの心身は、そのままで小宇宙であり、大宇宙と相似形と見做すものだが、ゆえに、小宇宙であるわれわれの心身を操作することにより、大宇宙と一致させれば、すなわち成仏、「即身成仏」に至るとするものである。これは、アートマンとブラフマンの一致を説く、バラモン教以来の「梵我一如」以外のなにものでもない。「収斂」したのである。さらに、両宗教ともに、タントラ、曼荼羅の世界にはいり、さらにはセックスの恍惚は悟りと同様であるとの飛躍にまで、同時に至る(客の取り合いで、ふたつの商店は、似たように商品を連発しあったのだろうか、それとも相手の有力商品をパクリあったのか)のである。つまり、仏教は、もとのバラモン的世界に帰り着いたのである。週滅したわけだ。
 仏教消滅の理由として、イスラム教徒の迫害があげられるが、宗教は迫害では消滅しない。逆に、さらに燃え盛るケースが多い。仏教は、変わりゆくインド世界にあわせて、インド教、すなわちヒンズー教の中に、ガンジスのながれのように、ながれこみ、みずから消えたのである。この場合は、いや、「収斂理論」は当てはまらないであろう。アウフヘーベンではなく、埋没・消滅したのである。7世紀に三蔵玄奘がインドをおとずれた時期、彼はヒンズーばかりであまり仏寺がないことを記録していのである。

4.学習ノート1と2で

 以上は、とりあえずのお勉強であった。「仏教の歴史は、仏教が仏教でなくなる歴史だ」という言葉があるが、玉ねぎの皮むきも、だからと言って、無意味だとも言えまい。だが、末木美文士氏は『思想としての仏教入門』で、「原始仏教は、仏教全体の基礎となるものであるし、現代の我々にももっとも納得のしやすいものである」と述べるが、付け加えれば、「原始仏教以外は、現代の我々には、いささか納得のしにくいものである」となるのだろう。だが、わたし的に思うのだが、キリスト教などには、人間自身が生命や宇宙を自ら考えるという思考がない。いわば、精神の自由がない。極論すれば、個人の存在は認められない。ダーウィンは間違っている。これが神を立てる宗教と、神を立てない宗教の大きな違いだろう。自分の内部を見つめ、自分と世界との関係を、ひとりひとりが考え、組み立て直す「何か」として、そこにあるいは21世紀の宗教としての、仏教の再生と意義があるのかも知れない。

 これはまた、ずいぶんと大袈裟な結論にしてしまったが、まるで良い子の答えだ。まあ、筆の成り行き、はずみである。でも、あんがい、そうかも知れない。そんな宗教があっても、いいじゃないか。コップの裏に顔があるより、ずっとましだ。いや、コップの裏にもあっていいけど。寂しいなあ。まあ、もとキリスト教徒の白人の若者が、自分の心を見つめる宗教をもとめて、チベットや東南アジアに行くが、現地の坊主は、あほだから、深遠な教理をたれながして、つまりあほなことを言うだけで、彼らの真のもとめには、応じられていない印象。むつかしいなあ。こういうものを伝える言語は、最終的には人格だからなあ。その人の存在だからなあ。

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