サンスクリット語と中国語は、その言語構造がおおいに違い、また異質な文化・文明である。そのような異質な両者において宗教のような「世界」の移植が可能かは、さて、どうだろう。
中国における仏教伝来当初の受容形態について
1.異文化・異言語において完全なる概念受容は可能か?
ペンは剣よりも強しの英語「The pen is mightier than the sword.」をフランス語に翻訳し、さらにロシア語に翻訳して、元の英語に再翻訳すると「ワインはパンより美味しい」となると言う。
コミュニケーション理論において、聞き手は発話の意味を、自分にとって関連性を持つものと仮定し、コンテクスト(文脈や状況)に応じた推論によって解釈するとされる。さらに「ロー・コンテクスト(Low context)、ハイ・コンテクスト(High context)」という概念は多文化間でのやりとりをしていく上で非常に重視される概念である。コンテクストは、「文脈・背景」などと訳されており、ロー・コンテクストとは文脈や背景や共通の価値観に頼る傾向が低く(ロー)明確な言葉によるコミュニケーションにより信頼を置くもの。ハイ・コンテクストは言葉だけでなくその他すべての要素をコミュニケーションの手がかりにし、文脈や共通の知識に頼る割合が高く(ハイ)なるとされる。たとえば、余計な説明のいらない「あうんの呼吸」は、ハイ・コンテクストの典型例である。だが逆に、異言語、異文化の交流は、このロー・コンテクストの典型例であり、その歴史的・文化的背景は何なのかを双方が理解せねば、多様な文化間で交渉したりコミュニケーションしていく上で非常な困難をもたらすことが指摘されている。
仏教はインドから発して北伝して、中国に伝わったが、ともに固有の文明を誕生させた異質な地域である。その精神文化と言語構造には隔絶したものがある。経典の翻訳は、たんなる用語を置換する機械的作業ではなく、つまりテキスト部分の翻訳ではなく、基層文化と異種概念である言語認識、世界観と宇宙観の発信と受容過程の衝突と調整の過程とも言える。「文明の衝突」とも言える。だが、もともと、土着のコンテキストに無い概念の受容は、これは本質的に困難だとされる。テキストを受ける側は、自らの土着の言語構造と文化のコンテキストにそって、その範囲内で、それを理解しようとするからである。
以下、2においてインド仏教思想の中国での初期伝播の状況を述べ、3において、その受容における形態の変遷を述べて、4においてその中国化、5において、異文明異言語構造における変容的理解、ロラン・バルトのいう「誤読」を述べる。
2.ブッダは老子である
『中国仏教史・上』9頁以下は、仏教初伝について裴松之『三国志』注引用『魏略』「西戎伝」記述により、それは前漢末期、紀元前1世紀の末とする。また、それは経典ではなく「口授」によるものであり、さらに「浮屠の所載と、中国の老子経とは相出入りする」として「老子は西のかた関を出て、西域の天竺に過り、胡を教えた」と記述する。いわゆる老子化胡説である。すなわち漢代の中国では新しく伝来した仏教を中国神仙思想の一つとして受容したと推定されるが、確実に仏教信仰の記録が残るのは後漢の明帝の異母弟である楚王英(~71)である。正史『後漢書』楚王英伝には「楚王は黄老の微言を誦し、浮屠の仁祠を尚び、潔斎すること三月、神と誓いをなす」と記録される。楚王英は、黄帝や老子の神仙思想、道教的思想と仏教を合わせて尚び、特別な儀式を営んでいた。すなわち、楚王英の時代は、仏教は中国古来の神仙思想として理解され、その一種として現生利益を求める宗教として信奉されていたとされる。老子化胡説は中国の老子が西に行きブッダとなったとするものだが、仏教は中国初伝において、そのような受容のされ方をしていたと推測されている。
3.経典の漢訳と中国化
鎌田茂雄『新中国仏教史』16頁以下によれば、黄老信仰や不老長生術の一つとして入った仏教は、やがて後漢の恒帝代になると勢力の拡大をはじまったが、また経典の漢訳も進められた。最初の漢訳仏典を提供したのは安息の安世高と月氏の支婁迦讖であった。鎌田前掲書は「中国人が自国の国語に移された外来経典を見たのは、安世高・支婁迦讖の時点からである」と述べる。やがて、このような西域からの渡来僧により、さまざまな経典が漢訳されることになる。
中国仏教史においては、この漢訳を①古訳時代=漢~三国、②旧約時代前期=南北朝(仏図澄・道安)、③旧約時代=鳩摩羅什、④新訳時代=三蔵玄奘の4期に分けて考えればよいようだが、①から②の時代は、とくに「格義仏教」とも称される。前述のごとく、土着のコンテキストに無い概念の受容では、テキストを受ける側は、自らの土着の言語構造と文化のコンテキストにそって、その範囲内で、それを理解しようとするが、仏教伝来の初期では、神仙思想や老荘思想の用語で仏教の経典を漢訳していたところがあるとされる。
鎌田前掲書49頁以下では、「異質の外来文化や思想を受容するためには、受け入れる側にその外来思想と類似したものが存在していなければならない。中略、中国において仏教の受容を可能ならしたのは、中国の固有思想としての老荘思想が存在していたからである。仏教思想を老荘思想によって理解した仏教を格義仏教というが、この格義の意味を初めて鮮明にしたのは竺法雅である」と述べる。
古訳時代の訳経家としての第一人者であった月氏の竺法雅は3世紀末の40年間ひたすら訳経に従事したが、竺法雅の教えを聞く門人たちは教養のある中国の士大夫であったが、彼らには中国古典の素養はあっても仏教の用語・教理はほとんどわからなかった。そこで竺法雅は、仏教の経典で説かれたことを中国の古典に書かれたことがらなぞらえて理解できるようにしたとされる。たとえば、仏教の「空」の思想は、老荘思想の「無」の思想と相通じるものだとされる。
4.道安の訳経での方法論あるいはテクスト論
西域からの渡来僧の中には、訳経を行わないで法力を示して信徒を集める僧侶もいた。かれらは神異僧とよばれたが、亀茲から渡来した仏図澄(~384)は、当時は五胡十六国の戦乱の時代であったが、胡族の王たちの信頼を受けて、仏寺を893も建立し、門徒は一万人を数えたという。彼が養成した僧たちが中国仏教界を背負うようになる。その最も重要な弟子が道安(312-385)である。『中国仏教史・上』66頁は「道安は乱世にありながら数千の門弟を導き、仏典を注釈し、経典の目録をつくり、また戒律を整備して、仏教の興隆と解釈の上に、新しい局面を開拓した。中国の仏教は道安によって、その基礎が固められたのである」と述べる。
鎌田前掲書45頁以下において、道安は経典の漢訳はしていないが、仏教の教義は仏教経典によってのみ理解すべきと主張し、儒教や老荘思想の言葉で仏典を解釈しようとする格義仏教を批判した。そして訳経僧を組織して訳業を行わせる際に、次の「五失本、三不易」の原則を示したと述べる。
「五失本」を整理すると、
①原典を漢語に翻訳すると語順が逆になること。
②原典ではその内容をこそ重視した文体であるが、漢文に翻訳するには、(漢文の性質上)修辞する必要があること。
③原典ではまったく同じ内容を何度も何度も繰り返すが、漢訳時には繰り返さないこと。
④原典に冗長な語句があった場合、その要とする点を把握して翻訳するのであれは、冗長な語句は削除してよいこと。
⑤原典では、ある主題から他の主題に移るとき、先の主題について再度繰り返し説いてから移る形式をとっているが、繰り返さなくて良いこと。
「三不易」を整理すると、
①凡夫が原典にある伝統的な表現を現代風に勝手に改変しないこと。
②仏陀とは凡夫とでは全く異なるのであるから、仏陀の微妙深遠なる教説を、自分たちの都合や程度の低い理解に合わせないこと。
③仏陀がなくなってすぐに500人の阿羅漢によって仏典編纂の大会議「第一結集」をして検討したのであり、現在の者が勝手に仏説を取捨選択しないこと。
この道安の方法論は、異文化理解や翻訳にあたって、おおいに参考になると思われる。このような経典の真意を解釈しようという動きは、義解仏教とよばれ、道安は「格義は迂にして本乗に乖く」「先旧の格義は理に違うこと多し」と主張した。
5.異質な言語構造という難問
古代文明において、論理学はインドとギリシャにしか生まれなかったが、正木晃『あなたの知らない仏教入門』203頁以下では、日本語とサンスクリット語の言語構造は違い、このような違いはものの考え方に大きく影響するものであり、インド人の発想が日本人の発想よりもずっと構造的な傾向にあるのは、これに由来すると述べる。積木タイプのサンスクリット語は論理を展開するのに便利にできているが、数珠つなぎタイプの日本語はそうはいかないとも述べる。さらに長尾雅人『世界の名著・大乗仏典』を引用して、サンスクリット原典を数多く日本語に翻訳した長尾氏の言葉「インドから中国に行く過程において、いわゆる認識の問題とか、存在の問題とか、そういう精密な論理がほとんど落ちてしまうのではないかと思います。それは一つには、漢文という言語の構造が精密な論理をうまく表現できるかどうか、名詞か動詞か、さっぱりわからないというようなところがありますから」を引用して、異文化、異言語構造での翻訳の困難さを語っている。
そして正木前掲書は「中国や日本で『般若心経』がさまざまな解釈を生んできた原因も、ひとつはこういう中国語や日本語の言語構造にありました。まさに言語構造こそ、超えがたい関門だったのです」と、経典翻訳の本質的困難性と「誤読」について述べる。
ペンは剣よりも強しの英語「The pen is mightier than the sword.」をフランス語に翻訳し、さらにロシア語に翻訳して、元の英語に再翻訳すると「ワインはパンより美味しい」となるというのは、まだキリスト教文化圏内での同系言語での翻訳の場合である。異質文明圏において、異質言語構造間での異文化伝達と翻訳であるから、中国の仏教初伝における困難さと、ロラン・バルト的解釈、意図的誤読、あるいは無意識的誤読は避けられないことであり、インド仏教が、やがて変容してかなり異質な中国仏教にかわるのは、これは必然であったのだろう。これは日本仏教も同様であろう。
鳩摩羅什も、サンスクリット語原典を漢語に翻訳するのは、美味しいご飯を口で噛んでから与えるようなものだと比喩している。それでは、味も香りもなくなり、ただ汚らしいだけだそうである。