日本の浄土教は中国浄土教の生徒である。日本の浄土教を知るには、まず中国の浄土教について概略を知る必要があろう。
唐代における中国浄土教の展開について
1. 中国のおける浄土教のはじまり
仏教史家は初期の中国仏教界の偉人として仏図澄、道安および慧遠の3人をあげる。もっとも功績のあったのは道安であろうが、その弟子である慧遠(334-416)は、中国浄土教の開祖ともされる。この慧遠の教義はすでに神不滅論とされ、霊魂=神は肉体の死とともに滅びず、新たな肉体に宿って不滅であると主張する。とするならば、死後の世界がどこにあるかが教義の課題となるのは自然である。慧遠は、廬山において白蓮社を結成し、中国浄土教の開拓者としての役割を果たしたが、中国浄土教は三つの流れに分類出来るとされる。第一は廬山流であり、白蓮社の「観相の念仏」の伝統である。第二は、唐の善導流で、曇鸞、道綽、善導の流れで他力の「称名の念仏」であり、第三は善導の弟子慈愍(680-786)流の念仏禅である。これは隠元が江戸初期に日本に伝えた黄檗宗である。
本設題は、唐代の浄土教であるから第二の善導流をテーマとする理解し、2において概略を述べ、3において、その教理の構造を述べる。
2.称名念仏の誕生
第一の慧遠の念仏は、初期大乗仏典といわれる『般舟三昧経』に基づいて、瞑想により阿弥陀仏を禅観するという観相念仏であるが、長い修行と実践を必要とする。第二の善導流は、『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』の三経と、『往生論』の三経一論によっている。
曇鸞(476-542)は不老不死の教えとして『観無量寿経』をとらえるが、さまざまな注釈書を著わす。当時は戦乱がつづき廃仏令もだされ、曇鸞はその時代を正法、像法、末法の末法の時代ととらえる。当時の末法史観の代表的なものとして『大集月経』があるとされるが、像法や末法の時代は、自力で悟りを開くことも、修行をやり遂げることもできないとされるらしい。従って、阿弥陀仏の力で阿弥陀浄土に往生してから、そこで菩薩となって修行し悟りに達するという方法しかないことになるとされる。そのため、この世に生きている間は、ひたすら阿弥陀浄土に往生させてもらえるように阿弥陀仏に願い、救ってもらうのが一番だということになる。
この曇鸞の碑文を読んで、道綽(562-645)も浄土教に転身する。『安楽集』では、時代はすでに末法の時代であり、聖道(自力修行での悟りの道)はこの時代ではかなわず、「末法相応の法」しかなく、それは阿弥陀の本願にすがって、阿弥陀浄土に往生することだけが、唯一救われる道だとするものである。
そして、この道綽の弟子である善導(613-681)は、極楽浄土は実在することを主張した。そして「南無阿弥陀仏」ととなえる称名念仏によって、極楽浄土へ往生できると提唱した。それまでの難解な教義とくらべて、この善導流はわかりやすく、実践しやすいので、一時期、中国の浄土教を風靡した。長安の街は念仏の声が絶えず、善導に感化された信徒からは、極楽往生をもとめて投身自殺するものが絶えなかったとされる。しかし、善導流の隆盛は一時的であり、善導の没後まもなくして廃れたようである。
その後、中国浄土教は、瞑想を重んじる禅と融合し、禅の修行を実践しながら、同時に念仏をとなえ、死後には極楽往生を願う「禅浄一致」が主流となる。
3.称名念仏の教理について
大乗仏教の定義について正木晃『あなたの知らない「仏教」入門』27頁以下は、「もっとも重要な要素は、《人格をもつ神に対する信仰》が生まれたことです」と述べる。その特徴について、正木前掲書181頁以下は、「大乗仏教の特徴の一つは、歴史上のブッダをモデルとする釈迦如来のほかに、複数の如来が出現したことにあります。そのなかでも阿弥陀如来や薬師如来など、初期大乗の如来たちには特別な性格があります。それは過去世においてまだ菩薩だったころ、自分の師である如来の前で、これこれのことが実現しないかぎり、わたしは悟りを開いて如来にはなりません、といって誓願とよばれる約束をし、その後のながきにわたる修行の結果、如来になったというものです。また、如来となったのちには、いまわたしたちが生きている世界とは別のところに、仏国土とよばれる独自の世界を主宰し、そこで教えを説いて生きとし生けるものすべてを救うという点も、注目すべき点です」と述べる。
この大乗仏教の発展とともに仏国土すなわち浄土という思想がすすんだ。小乗仏教においては、さとりへの道としてすぐれた修行者はまず阿羅漢となり仏陀となるが、大乗では菩薩となり如来となる。その時に菩薩ごとに、つまり如来ごとに一つの仏国土を持つことになる。
まず菩薩たらんとする者は、総願(度・断・知・証、四弘誓願)と別願を立てる。そして浄土宗で最ももとめられたのが阿弥陀仏である。法蔵菩薩が四十八の別願を立てておこした浄土が西方浄土である。そこへの往生を願うのが浄土教であるが、その教理は『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』の浄土三部経に示されているとする。
その『無量寿経』にある法蔵菩薩(阿弥陀仏)の第十八願「念仏往生の願」が教義の核心となる。それは、念仏を唱え者に阿弥陀仏が来迎して、極楽浄土に導いてくれるという功徳であるとする教義、別願である。また善導流では、魂は存在し、極楽浄土は死後世界として存在しているとみなしている。正木前掲書182頁は、「極楽浄土は死後に生まれ変わるべき理想の場として設定されている」と述べる。
これは庶民にも分かりやすい教義であり、実践も簡単である。善導が教えた長安の街は、称名念仏であふれたというのは、前述のとおりである。
4.おわりに
だが意外にも、中国浄土教はインド浄土教を受容したものではないようである。正木晃前掲書は、179頁以下で、阿弥陀仏にたいする信仰は、インドでは盛んでなかったというより、弱かった。確実に阿弥陀如来像である仏像の作例もたった一つしか見つかっていない。また、紀元前後に、仏教のみならず、バラモン教・ヒンドゥー教にも、超越的な存在に対するひたすらな信仰による救済という発想が突如として出現した。こういう発想は、それまでのインドの宗教界にはまったくなかった。それらを考えると、この時期に、西アジアから新たな動きが導入されたとみなすほうが自然だ、と述べる。神なき宗教だったはずの仏教が、天国と「人格をもつ神」の宗教に変容したのには、インド仏教内部の自律的な運動の結果とは別に、なんらかの影響を受けた可能性があるとして、正木晃前掲書は、22頁以下で、「はっきりいえば、従来のインド仏教とは別の要素が、どこかの時点で、外部から加わったのではないか」と結論する。『観無量経』は漢訳しかなく、代表的な初期大乗仏典の原型は、そみそろって北インドから中央アジアで成立している。「たとえば、古代イランの支配宗教であったゾロアスター教とか、さらにはもっと西のほうで盛んに信仰されていたミトラ教の影響を考慮せざるを得ない」と正木は述べる。美術史もそれを裏付けるとする。
これらはキリスト教と同様に、全能の人格神と天国と地獄、最後の審判をもつ救済の宗教である。すると、これは浄土教と同じ風景となるのか?
ひとくちに仏教といっても、内実は複雑のようである。その意味でも、中国の天台宗や浄土宗が消えたのに、逆に、日本において発展し、今にのこるのも、また仏教史の不思議の一つであると思う。