夏もさかりだというのに、京都市で英訳された源氏物語、枕草子、平家物語について教えられ、さらに英語で俳句をつくらされたのだが、せっかくだから、すこし感想をまとめようじゃないか。
まず、日本文学の英訳の可能性、あるいは不可能性について論じる
ペンは剣よりも強しの英語「The pen is mightier than the sword.」をフランス語に翻訳し、さらにロシア語に翻訳して、元の英語に再翻訳すると「ワインはパンより美味しい」となるという記述を、かって読んだことがある。今回授業において、『源氏物語』「桐壷」等の一部を行ったが、翻訳の困難さ、異文化理解の根本的な不可能性について納得した。
たとえば『源氏物語』「桐壷」原文は、「いよいよあかず あはれ なるものに思ほして」であるが、この「あはれ」は学校での古文解読のキーワード的表現である。
W 訳は、far from wearying of her
S 訳は、pity
M 訳は、pitied
T 訳は、less and less do without her
である。
現代語では「哀れ」と言えばかわいそうの意味である。が、古文の「あはれ」も、かわいそうの意味もあるが、しみじみとした趣、感動という意味がほとんどである。「をかし」も趣があるという訳なので似ているが、「あはれ」の「しみじみとした趣」というのは、心が強く揺さぶられたとき、心が激しく動くさまを言う。
何か予期せぬものを見たり聞いたり、あるいは経験した時、あまりの思いがけなさに心が激しく動いた時、この「あはれ」という言葉を使う。満開の桜の花が咲きの見つけた時、また、美しい女性を見かけて、ひとめぼれしてしまったときも「あはれ」と言う。誰かの不幸な身の上話を聞いて、かわいそうになってもらい泣きをした時も、「あはれ」と言う。日本の古語は、きわめて語彙数が少ないのである。現代語なら、さまざまな表現があるが、古語では、感情、感興は、「あはれ」と「をかし」程度しかない。それほどの語彙が必要のない時代であり、古文の感情・感嘆表現は、たいがい「あはれ」と「をかし」程度なのである。
たとえば『枕草子』「九月ばかり、夜一夜」でも、「蜘蛛(くも)の巣のこぼれ残りたるに、雨のかかりたるが、白き玉を貫きたるやうなるこそ、いみじう あはれ に をかしけれ」とあるように、どちらかと言えばポジティブな感情を表現する。つまり「pity」とは、ずいぶんと意味が違う。
ちなみに、教材の現代語訳でも、その部分は「これまで以上にかわゆくてかわゆくてたまらなくお思いで」としている。このように「あはれ」は心が強く動けば自由に使ってよい言葉なので意味はいろいろとある。「あはれ」は、文脈に合わせて自由に訳して良い単語なのである。となると、4訳者の理解内容と程度が問題となる。
コミュニケーション理論において、聞き手は発話の意味を、自分にとって関連性を持つものと仮定し、コンテクスト(文脈や状況)に応じた推論によって解釈するとされる。さらに「ロー・コンテクスト(Low context)、ハイ・コンテクスト(High context)」という概念は多文化間でのやりとりをしていく上で非常に重視される概念である。コンテクストは、「文脈・背景」などと訳されており、ロー・コンテクストとは文脈や背景や共通の価値観に頼る傾向が低く(ロー)明確な言葉によるコミュニケーションにより信頼を置くもの。ハイ・コンテクストは言葉だけでなくその他すべての要素をコミュニケーションの手がかりにし、文脈や共通の知識に頼る割合が高く(ハイ)なるとされる。たとえば、余計な説明のいらない「あうんの呼吸」は、ハイ・コンテクストの典型例である。だが逆に、異言語、異文化の交流は、このロー・コンテクストの典型例であり、その歴史的・文化的背景は何なのかを双方が理解せねば、多様な文化間で交渉したりコミュニケーションしていく上で非常な困難をもたらすことをロラン・バルトが指摘している。
異質言語構造間での異文化伝達と翻訳であるから、その困難さと、ロラン・バルト的解釈、意図的誤読、あるいは無意識的誤読は避けられないことであろう。これは、やむを得ないことであろう。
これを避ける方法は、おそらくあるまい。あるとすれば、ウラジミール・ナボコフのように、著者本人が複数言語に熟達し、ロシア語、フランス語、英語で、自分の作品を数か国語で発表できる例外者のみであろう。
それほど英訳もされておらず、それほどの海外読者がいない川端康成がノーベル文学賞をとれたのは、あれはまわりもちであり、英語圏だけではなく、ほどよくアジアにも配分される。各国のペンクラブの会長になればとれるとされるが、川端康成は、とれた。そこで井上靖もなんとか日本ペンクラブ会長になり、秋のノーベル賞シーズンは、いつもそわそわしていたらしいが、はずれた。彼の作品は、ほとんど英訳されておらず、海外ではつまり「存在しない」からである。その意味では、村上春樹はラッキーであろう。
ただ、英訳された日本文学は、あくまでもフェイクに過ぎないのではないかとも印象するが、いかがだろうか。「あはれ」と「pity」では落差があまりにも大きい。
まあ、無理やろうなあ。以上は、内藤先生への解答。
以下は、はじめての俳句の英訳作業。
秋深き 隣は なにをする人ぞ
Deep autumn’s here,
Day by day,
What does neighbor thinking about?
雀の子 そこのけ そこのけ お馬が通る
You little little sparrow,
Get out, get out there,
The big horse coming, coming soon.
以上かなあ。まあ、ええか。