中観派と唯識派

ゴータマ・ブッダは非我説を展開したが、輪廻な来世などの形而上的問題に関しては無記として、語るのを避けた。そこで、その後継者たちは、自己は存在しないという、端的に形而上的な無我説を立てた。ふつうインド的思考では、認識と行為の主体であり、輪廻の主体であるアートマンが想定されている。
これは初期仏教の立場でも、カルマや輪廻の思考は、共有されていたようであるが、ここで大きな問題が発生する。無我説によりアートマンの存在を認めないとすると、カルマや因果応報のインド思考の大前提が成り立たなくなる。仏教の無我説は、魂の存在を否定する唯物論であり、霊とカルマ、輪廻を否定するものとして、他派から攻撃された。それにたいする反論と研究が部派仏教の大きなテーマとなったようである。
その説明として、犢子部や正量部では非即非離蘊の我という、五蘊とまったく同じものではないが、さりとてまったく異なるものでもないという輪廻の主体を説いた。仏教も輪廻を認めるなら、輪廻する主体をなにか想定する必要がある。アートマンではないが、アートマンのようなものを想定したのであるが、これは苦しい。
これに対して、西北インドで勢力のあった説一切有部では、無我説による因果応報について、刹那滅による心の相続という理論を編み出した。心は映画のフィルムのように、刹那の連続であり、一刹那につくった業は、つぎの一刹那に存在する心に引き継がれるとする。業は刹那ごとに引き継がれるという心の連続作用を想定した。また、原子的な要素や原理を法(ダルマ)というが、この部派ではそれを七十五に分類し、法体恒有、三生実有として、アートマンはないが、現象の実体は有ることを主張した。
これに対して、経量部では相続転変差別という説をたてる。心が刹那滅だとするのは説一切部と同じだが、刹那の心は、ただちに種子とよばれる潜在的なものに変化する。心が刹那に変化するが、心の働きが種子として植えつけられることを熏習とよんだ。種子が変化発現(転変)して次の心を成立させるという説である。
紀元二・三世紀にナーガルジュナは『中論』で新しい空の思想を展開した。これは説一切有部の三世実有、法体恒有を批判・否定するものであり、そのような現象における実体は存在しないと説いた。縁起=無自性=空=仮=中の構図となる。また部派仏教における縁起は、Aが起こればBが起こるという線型の因果関係であり、時間軸にそったものであり、また、その非我説、無我説は人格的主体を対象とするが、ナーガルジュナはそれを拡大して、縁起を世界のあらゆる物事の本体の問題としてとらえた。この縁起は、非線型であり、諸事物は相互依存関係により現象的に成り立っているとする。母があって子が産まれるが、在り方としてはそうとも言えない。母は子を産まないうちは母ではありえない、子を産むことによってはじめて母といいうる、このように一切は相互依存関係によって成立していると説く。これが中観派である。
これに対して、五世紀の世親らは唯識派という学派をたてる。空の思想と、ヨーガによる主客合一の三昧体験ペースに、表象を提示するものとして心を識と称し、それだけが実在であり、自然現象や社会現象などの表象は空無であるとする唯心論である。人間が実在していると思っている外界のものも、妄想であり、識の作用でしかない。激流に手を入れると、手は激しい水の流れを感じる。だが持続的な水に触れているというのは錯覚である。一刹那に触れた水は同じ水ではない。存在もそうであり、実体はないと説く。
また、世親は、経量部の相続転変差別を採用し、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の下に、自我意識としてのマナ識とアーラヤ識を想定した。八識説である。もっとも重要なのはアーラヤ識であり、過去の業はここに蓄積され、それが果報として現在と未来のありかたを決定すると説く。このアーラヤ識には前世の種子も前々世の種子も蓄積されるのであるから、このアーラヤ識の説明で、魂は無くとも、因果律に基づいて輪廻転生ができることが理論的に説明できる。

カテゴリー: 未分類 パーマリンク