扁桃体至上主義 その1

9月15日、Wat Mahadhatu横のスターバックスで思いいたったのは、仏教は人間の意識の発生を「五蘊」として捉える。पञ्च स्कन्ध, pañca-skandha。「色」「受」「想」「行」「識」である。「色」は物質的存在を示し、「受」「想」「行」「識」は精神作用を示すとされる。五蘊が集合して仮設されたものが人間であるとし、またこれが煩悩と「苦」の発生原理とされる。すると、「色」から「受」になり、そして、「想」が発生する。そして「行」で暴走して「苦」の原因となる「識」が生じる。つまり煩悩が生じる。

つまり仏教では、人間存在は無我であり、「五蘊」の産物と捉えるが、それの二段階のみ、「色」と「受」のみで止めるのがヴッパーサナ瞑想であると理解した。「想」にわたさず、私式の解釈では、「五蘊」の生成を「断つ」のである。

最近の脳科学によれば、脳は特定の瞬間だけみるとある瞬間に30%ぐらいだけ、ニューロンは動いているそうだが、「色」と「受」のみで止めることで、「想」「行」「識」での脳を活動させない、30%を20%するのだ、と気づいた。「脳を働かせないことで、疲れた脳を、管理的に休ませるのだ」という、脳のアクセルをゆるめる、できればアイドリング状態まで落とすことだと気づいた。人間は、つねに考えつづける。ニューロンの動き、脳の働きをオフにはできない。だが、その動きを「色」と「受」だけのシンプルな、シンプルな動きにスリップさせることで、ニューロンの動きを最小限にし、脳のほかの「野」を休ませる。だから、ヴィパッサナー瞑想もその内容は、あきれるほどシンプルだ。サマタ瞑想もだ。煩悩の「止滅」により涅槃に至るのではなく、ニューロンの動き、脳の動きを「止滅ではなく休止」させることで、脳の疲労の回復をはかる。新しい脳内システムを組成する。そうスターバックスでカフェラテを飲みながら、思いいたった。

この私の思いついた理屈によれば、五蘊の「色」「受」「想」「行」「識」という人間の思考の流れと発生での、「色」と「受」の段階で止めて、「想」以下をカットするのが瞑想の本質ということになる。つまり、「色」「受」という、この脳の働きのすくない段階でカットし、「色」「受」のみの単調な繰り返しを行い、つぎの「想」「行」「識」という脳エネルギーを大量に消費する、ニューロンと脳を酷使する段階にいたらせないのが瞑想の核心なのだ。「想」で「我」が発生する。おそらく脳の別の「野」に飛ぶ。サーンキヤ派でいえば、無数のプルシャがあるが、それぞれのラジャスつまり「我」が発生する。自我意識は「帯状回」のネットワークの現象だという説があるが、そして今日、意識は視床-大脳皮質系の働きであると統合理論的に説明する説もあるが、以後は「我」が中心となる。私の考え、私の思い、私の怒り、私の嫌悪などである。瞬間に出る。この「想」「行」「識」は、まず「扁桃体」「海馬」「帯状回」の接続、「前頭葉前野」などの作用であろうが、「扁桃体」の不安感情や情動記憶などから発する強い妄見をともないながら、一気に脳皮質に「識」としてラジャスが展開する。「我」の条件反射である。だが瞑想は、おそらく「扁桃体」か「海馬」段階でカットし、「我」を発生させる「帯状回」の作動を起こさせず、その働きをになう脳内の「野」を休ませるのだ。ここで変性意識が生じるのであろう。これが瞑想の本質だと直感する。

ハーバード大学の実験研究によれば、瞑想のエクササイズを8週間つづけた被験者の、脳のMRI検査結果として、学習や記憶にとって重要な領域である「海馬」と、自意識や同情心にかかわる構造部分で、灰白質密度増加が認められたらしい。また、不安に重要な働きをする情動器官である「扁桃体」での灰白質密度低下が認められたらしい。ここから逆算すれば、瞑想の本質はおのずと明らかだ。私は、サーンキヤ派のいうラジャスとは、この「扁桃体」のことだと直感するが、また、これが「想」の核心に当たると直感する。つまり「色」「受」は「扁桃体」「海馬」の接続の働き、「想」以下は「扁桃体」からの出力を「帯状回」と「前頭葉」が引き受けた働きと直感する。
そして瞑想とは、『ヨーガ・スートラ』のいうヨーガ・チッタ・ヴリッティ・ニローダハ、ヨーガは心(チッタ)の働きの止滅である、ヨーガは個人意識おける動き(チッタ・ヴリッティ)の停止(ニローダハ)である、のチッタ(cit)である。つまり瞑想(ヨーガ)とは、今の脳科学的な表現では、ハーバード大学の瞑想エクササイズ実験により灰白質密度低下が認められた「偏桃体」の働き(チッタ・ヴリッティ)の停止(ニローダハ)だと私は解する。

また、濫読派の私としては、「五蘊」の働きを止めるのが瞑想であるという解釈は、どの本にも明示的には無かったので、私のプライオリティかなと思っていたが、そうはいかない。雑誌『サンガ・ジャパン』別冊「仏教瞑想ガイドブック」と『仏教瞑想論』で蓑輪顕量氏が、すでに述べていた。五蘊の「色」「受」「想」「行」「識」という人間の思考の流れと発生での、「色」と「受」の段階で止めて、「想」以下をカットするのが瞑想の本質だという理解である。蓑輪顕量氏は述べる。

「現在の心理学で確かめられたことが、仏教では、その初期から、色・受・想・行・識という五つの範疇に分けられる心の働きとして、心の観察法、観の中で気づかれていました。私たちが認識するというのは、その描かれた像に対して、何々だという判断が働いていることを意味するのですが、その判断が生じる前で、すなわち認識の対象になる像が形成されたところで、心の働きを止めようということが目指されているのです。」(『サンガ・ジャパン』別冊「仏教瞑想ガイドブック」)

「それは、色・受・想・行・識の五つのカテゴリーに分類される心の働きを、早めの段階で捉まえることによって、最後の識まで、あるいはさまざまな感情が生じるまで、心が走ることを止めようとしています。」(『仏教瞑想論』)

9月15日、Wat Mahadhatu僧院横のスターバックスで私が思いいたったのも、このことである。そして、さらに言えば、それは「扁桃体」の過剰反応を抑制することであり、またサーンキヤ派の三つのグナのうちのラジャスに対応するものだと私は直感している。また、人間理解への核心は、この「扁桃体」の働きに対する理解と同義だとも直感している。

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