扁桃体至上主義 その3

『意識はいつ生まれるのか』は、意識の謎を解明するトノーニの「統合情報理論」を紹介している。重さ1.5キログラムの物体に過ぎない脳が、見聞きし感情を宿す主体になるのはなぜか。一般に「意識がある」という状態はどのような場合を指すのか。意識があるか否かをどのように見分けるのか。
「統合情報理論(φ理論)」について、トノーニはTMS脳波計という新しい測定装置を使用したが、中心的な結論は「意識は(生体の)情報統合システムに宿る」である。まず意識は豊富で複雑な情報ネットワークの統合から生まれてくると仮説をたてる。その根拠の一つとして、小脳は大脳より多くの神経細胞を持っているのに意識を生み出す能力がなく、小脳を切除しても意識は保たれると。また、スーパーコンピュータや人間の小脳を「ゾンビ」と呼んでいる。ゾンビは非常に多くの情報を処理する能力を持っているが意識は持たない。意識の座である視床-皮質系(通常は意識の座は大脳前頭葉とする)は、ニューロンの数からいえば小脳の1/4しかないのに、一体どこがゾンビと異なるのか? トノーニは、すなわち多くの情報を処理する能力だけでなく、それら全体を一つのまとまったものとして統合するところに意識が生まれるとする。そして、レム睡眠中の人、ノンレム睡眠中の人の脳に、また植物状態の人とロックトイン(金縛り状態)の人の脳とに、強力な磁場を使って直接働きかけ、脳波の変化を見ることでこの理論の正当性を直接検証したらしい。それによれば、体内あるいは体外からの刺激が脳のニューロンを発火させ、情報となる。多数の情報が競い合うが、中枢はないものの、多くの強力な情報が関係付けられ、自ずから統合される。このような統合こそが、意識であり、心となる。

神経科学の研究成果、脳検査IT技術の急速な進化によって、脳と意識、心との関係が解明されつつあるが、これも有力仮説である。従来の脳科学では、この部分はこの機能、この部分はこの機能を持っているという、機能分担について機能地図がつくられてきたが、最近の流れでは、人間の高次の精神機能は、脳のいろいろと違うところが同時に、共鳴的に働く大きなネットワークと、高次の人間の精神機能は対応しているということらしい。

意識はいつ生まれるのか? そもそも意識とは何か?
仏教は、色・受・想・行・識の五蘊として、五つの生成段階あるいは五つのモジュールとして捉えるが、サーンキヤ派の見解がわたし的には気になる。

アビダルマ仏教も、六派哲学も、TMS脳波計やfMRIは使っていないが、その根底にはインド式瞑想があり、その梵我一如的な、内観による小宇宙の一致拡大としての宇宙観を持つようだ。梵と我は同一構造である。そこで思うのだが、その宇宙観とは、じつは内観より得た自己の脳内の心の旅路、瞑想の直感による人間の意識、脳構造への解釈ともいえる。逆算すれば、その宇宙観を見て、それをスリップさせれば、彼らの至った心、脳内の小宇宙世界の構造解釈ともなる、と思うことも可能だ。ウパニシャッドの認識主体は認識対象になり得ないというテーゼは、とりあえず置いて、何百年にわたる瞑想で、自己の心と脳内をひたすら執拗に探り、彼らはどのような答えに至ったのか? わたしはTMS脳波計やfMRIに匹敵、あるい超える答えを、すでに出していたのではないかと期待するのだ。

彼らは、以下のように発見あるいは解答した。
サーンキヤ派は、宇宙の根本原理として、精神的原理としての純粋精神プルシャ(Purusa)と、物質的原理としての根本物質プラクリティ(Prakrti)の二つを想定する二元論である。純粋精神は知りてともアートマンとも呼ばれ、根本物質は未開展物(avyakta)と呼ばれ、これは宇宙の質料因である。これから被開展物(vyakta)が生じる。サーンキヤ派のテーマは、人間存在の「苦」を認識し、その除去手段として、これらの純粋精神・未開展物・被開展物の三者を知る識別知(vijnaan)を悟ることである。
純粋精神は個我であり、原子大で多数存在する。本質は知または思であり、全く活動しない。常住不変の観照者、生も死も輪廻も解脱もない、ただの目撃者である。
だが根本物質は、宇宙の質料因だが、純粋精神と同じく微細であるため知覚できない。また物質的で活動性を有し、独立唯一であって、あらゆるものに偏在する。それはサットヴァ(純質)、ラジャス(激質)、タマス(暗質)という三つのグナ(構成要素)から成り立っている。物質世界は、この三つのグナの平衡状態である。だが、この平衡状態は、純粋精神の観照(darsana)を機会因としてラジャスの活動が起こると均衡が破れ、その結果、世界の開展がはじまる。

まず最初に、統覚機能(buddhi覚、mahat大)が生じる。これは確認の作用を本質として、心理・精神・認識活動の根源をなす。この統覚機能が、さらにその中にあるラジャスによって開展を起こすと、自我意識(ahamkara我慢)が生じる。このそれぞれの個我は、三つのグナの配合率により、さまざまな性格を持つことになるのだが、自己への執着を特質として、「これは私のものである」「これは私である」といった自己中心的な観念の拠り所となる。また、この自我意は、つねに統覚機能を純粋精神、すなわち自我であると誤って考える、とする。これがサーンキヤ派での意識、自我意識の発生の構造である。

それらも三つのグナよりの開展物であるが、サットヴァ(純質)、ラジャス(激質)、タマス(暗質)は心理的には、それぞれサットヴァ(快)、ラジャス(不快)、タマス(無気力)を、作用としてはサットヴァ(照明)、ラジャス(活動)、タマス(抑制)の働きをし、相互に依存し、支配しあう関係である。そして、プルシャに観照されたとき、プラクリティのうちで真っ先に動き、それを開展させ、心、自我意識(ahamkara我慢)を発生されるのは、ラジャスの作用である。

ここまでくると、理屈と膏薬はどこにでも着く。このプラクリティの平衡状態を破り、架空の自我意識(ahamkara我慢)を発生させるラジャスこそ「扁桃体」であると宣言したいところだが、もう少し進めよう。宗教的霊感は右側頭葉から発するらしいが、この「扁桃体至上主義」を書く目的は、わたしの左脳によりサーンキヤ派のいう識別知(vijnaan)を得て、わたしの「苦」から脱することにある。屁理屈屋が、屁理屈で自分を納得させようという解脱の道だ。認識主体も認識対象になり得るという、反ウパニシャッド的方法論だ。ヤージャヴァルキアの時代と違い、今日では、アートマンもアートマンを観れるのである。

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