さまざまな書評

週刊文春に鹿島茂氏の書評があった。「傑作」と評されている。アマゾンの書評も「驚き」「納得」とされる。あの本の帯には「歴史教科書の書き換え必至」とあった。

邪馬台国研究の秀作、そして傑作

◆邪馬台国研究の秀作、傑作――週刊文春「私の読書日記」より

◇×月×日
邪馬台国といえば九州説と畿内説との論争が有名だが、そのもとになったのは『魏志倭人伝』の旅程の矛盾である。書いてある通りに解釈すれば、邪馬台国は台湾かグアムになってしまうから、その矛盾した表記をどう合理的に読み解くかで九州説と畿内説に分かれるのだ。この論争に大きな一石を投げかけたのが、東洋史家・岡田英弘の『倭国の時代』(一九七六年刊)である。すなわち、岡田は『魏志倭人伝』 の本体の『魏志』は現王朝「晋」を正当化する目的で書かれた前王朝「魏」の正史なのだから、著者・陳寿が晋の開祖・司馬懿と朝鮮半島を征服した上司の司令官・張華の功績を輝かしくするために邪馬台国をライバル国の呉の背後の熱帯に持っていったのであり、不可解な道里記事や倭人の戸数の矛盾に頭を悩ましながら論争するのは無意味だとしたのである。

これに対して「いや、陳寿の矛盾表記には十分意味があり、暗号として書かれているのだから、これを『春秋』の「筆法」、つまり正史執筆に用いられる暗号コードに依って解読すべきだ。暗号の一つに「露布」の仕組み、つまり数字を十倍にする表現があり、これを里数表記に適用すれば、矛盾は解ける」としたのが一九八二年刊のS栄健『邪馬台 国の全解決』である。当時、アカデミズムはそれなりに反応し、賛否両論があったようだが、著者がアカデミズムの人間でないという理由からか、以後、無視されるか密かに無断借用されるかしたらしい。また続編も書かれたが版元の倒産で入手困難になってしまった。それが今回、両著がシャッフルされた上で加筆修正が施され、『決定版 邪馬台国の全解決 中国『正史』がすべてを解いていた』(言視舎 一五〇〇円+税)として上梓されたのだ。

ふーむ。これは思いのほか正鵠を射ているのではないか? ヒントはモリ・カケ騒動である。上司命令で公文書を書き換えなければならない下役人の中にそれでも真実を伝えたいと思う誠意のある役人がいたとしよう。公文書は表面的にはきれいに書き換えられて いる。しかし、よく読むと書き換えが露見するような矛盾が意図的に残されている。さらに精読すると、解読コードを示唆するような箇所があるとしたらどうだろう? 後世の役人で暗号解読に長けた人がいたなら「了解。暗号解読に成功。貴兄の暗号コードで解読成功を公文書に記す」とするかもしれない。

つまり、本書のミソは、第一に恩人である司馬一族の悪業を知っていてもその栄光を称えざるをえない下吏の陳寿が歴史家としての自分の良心に忠実であるために『春秋』の「筆法」に従って『魏志』の「倭人伝」を書いたと見なしたこと。ちなみに「筆法」とは「微言」(規則的矛盾)で「大義」(真実の情報)に気づかせるように工夫した「微言大義」のコードのことである。第二に、その解読を中国 正史の「前史を継ぐ」の原則に忠実で、しかも「筆法」を知悉しているはずの『後漢書』作者と『晋書』作者に託したと解釈したところにある。つまり、暗号発信者と暗号受信者によるコード共有という推理が画期的なのだ。したがって『魏志倭人伝』の意図的矛盾という暗号の解読には『後漢書』の「倭伝」と『晋書』の「倭人伝」が用意した「解答」が最大のヒントになるのである。かくて、邪馬台国九州説が大きく浮上することになる。

たとえ歴史書として疑問を持つ人でも、該博な漢文知識と合理的思考に裏付けられた作者の暗号解読には脱帽せざるを得ないはずだ。歴史推理の傑作である。

『決定版 邪馬台国の全解決』(言視舎) 著者: S栄健

【書き手】鹿島 茂
フランス文学者。明治大学教授。専門は19世紀フランス文学。1949年、横浜市生まれ。1973年東京大学仏文科卒業。1978年同大学大学院人文科学研究科博士課程単位習得満期退学。現在明治大学国際日本学部教授。『職業別パリ風俗』で読売文学賞評論・伝記賞を受賞するなど数多くの受賞歴がある。膨大な古書コレクションを有し、東京都港区に書斎スタジオ「NOEMA images STUDIO」を開設。新刊に『東京時間旅行』(作品社)、『悪の箴言(マクシム) 耳をふさぎたくなる270の言葉』(祥伝社)、『神田神保町書肆街考: 世界遺産的“本の街”の誕生から現在まで』(筑摩書房)などがある。

【初出メディア】週刊文春 2018年10月11日号

●鷲田小弥太氏は、日本の哲学者、札幌大学名誉教授だが、「鷲田小弥太の仕事」というページで、このような書評をおこなっている。 投稿日: 2018/03/23

新しい知に出会う。こんな愉悦はない。「邪馬台国」の「全解決」だ(!?)
 鬼才の書に出会った。S栄健(1946~)『決定版 邪馬台国の全解決』だ。著者はすでに、『邪馬台国の全解決』(六興出版 1982)と『魏志東夷伝の一構想』(大和書房 1986)を書いている。この事実をまったく知らなかった。知的怠慢の誹りを免れえない。歴史小僧の故か?
 そうじゃない。哲学(愛知)の本領は「読解」(法)にある。それ故、構造主義、特にルイ・アルチュセール(『資本論を読む』)、広松渉(マルクス読解)、吉本隆明、丸山圭三郎(ソシュールを読む)等に深く影響を受けてきた。歴史畑では、文献を「読む」(マナー)を重視した内藤湖南、宮崎市定、古田武彦、岡田英弘等を愛読してきた。その中にSの著作が欠落していたからだ。
1 本書を一読してまず、古田『「邪馬台国」はなかった』(1971)以来の衝撃を受けたことを記さなければならない。古田は、魏志(=三国志)倭人伝には「邪馬壱(壹)」、「後漢書」東夷伝ほかには「邪馬台(臺)」と表記あるが、勝手(検証なし)に、「壱」を「台」の誤記とみなし、「邪馬台国」と改訂する通弊(テキスト読解の初歩的誤り)を指摘し、「『邪馬壹国』でなければならないか」の理由を縷々記した。
2 (以下はSの論理=読解だ。)
 1. 王朝史は後漢→魏→晋の順だ。だが史書は①魏志(三国志)→②後漢書→③晋書の順で完成し、しかも①は三国=魏・蜀・呉志を一書に編纂した、同時代史である。
 2. 陳寿(①の編著者)は官史だ。魏朝(帝)から「禅譲」された晋朝の事実上の祖、司馬懿〔い〕を直截に批判できない(「忖度」が必要だ)。つまり「春秋の筆法」で書き記さなけれはならない。では「春秋の筆法」とは何か。
 〔春秋〕とは孔子の書(とされる)『春秋』(魯国の年代記)で用いた歴史記述法(レトリック)で、その原理は、《春秋は文を錯〔たが〕うるを以て義を見〔しめ〕し、一字を以て褒貶を為す。》だ。中国史伝統の書法で、平たくいえば、時に応じて、本音と建て前を使い分ける工夫だ。(例えば、Sが明示するように、「至」と「到」は、ともに「到着」だが、「至る」は途中地に到着、「到る」は最終目的地に到着という使い分ける。したがって魏の使節団は、卑弥呼のいる奴国ではなく、「一大率」が「常治」する伊都国に最終到着したということになる。つまり卑弥呼にあっていない)
 3. 特に東夷伝の韓伝・倭人伝は、魏(第一の実力者)司馬懿の東方攻略の「史実」を反映している。編著者陳寿は、韓・倭二国(の地理・風俗・政治状況)を春秋の筆法で書かざるをえない。(司馬氏の経営に「失策」があった場合はなおさらだ。)
3 ②後漢書と③晋書は、魏志の「史実」を受け継ぐ。同時に、史実を春秋の筆法で改釈・叙述する。この経緯のSの開明・叙述(読解)は読んでいて目が覚める思いだ。新解釈の中心をあげれば、
 1. 行程は、12000余里(1里=魏・晋里=2.3km)+「水行10日陸行1月」ではない。ともに帯方郡からの行程距離であり、行程日数である。全行程は12000里、水行・陸行で40日を要する。
 2. ただし、地理情報は軍事機密で、特に呉がしきりに東方計略を図っている時期に当たり、「露府」(戦時広報〔大本営発表〕)は実数の10倍で、12000余里は、1200余里(520km)だ。
 3. では12000余里に当たる国はどこか。倭人伝の記述が示すところ、奴国、卑弥呼が座すところだ。
4 倭人伝のS読解が指し示すところ、12000余里の出点が帯方郡(ソウル近接)で、最終着点が「奴国」である。これは(わたしには)驚天動地の読みだ。
 1. えっ「邪馬台国」が最終着点ではないのか。後漢書(ハンヨウ編著)は奴国を倭国の「極南」と書く(注釈する)。卑弥呼は奴国王でもある。金印(漢倭奴国王)をもらって当然だというわけだ。
 2. 伊都国に「一大率」(政・外・軍の総理=男弟=王)を置き、彼が30余国を「検察」し、諸国はこれを「畏憚」する、とある。卑弥呼(女帝=シャーマン)に対応する。
 3. 伊都国から、東4km余に不弥国、東南4km余に奴国(邪馬台国の極南)があり、そして卑弥呼の座する所在地(聖域=宮殿)と墓所を、著者Sは明らかにする。ただしこの結論は、考古学上、驚天動地ではない。
5 つまるところ、邪馬台国とは、女王卑弥呼(奴国)を盟主とする30余国が集まる戸数7000の連合体(集落)だ。
 1. Sは断じる。よくいわれるように、魏志は倭国派遣者(がまた聞きした類)のいい加減な報告をもとに、倭人伝を記したのではない。中国は「記録」(文字)の国だ。リアルな実地見聞をもとに記している。ただし、卑弥呼が死んで、争乱が起こり、また女子を立てて平和を回復した、と記すが、どうだろう。
 2. 実際は、実権を握る「一大率」が卑弥呼を(暗)殺(?)したがために、争乱し、ふたたび女王を立てざるをえなくなった。この「一大率」の背後にあって糸を引いたのは司馬氏である。その東方政略が失敗に終わった。これを『魏志』に直叙はできない。春秋の筆法が必要になる。
 3. では権力を簒奪した「一大率」とは誰か。魏に朝貢使となり、245年には魏皇帝から「詔書」等をうけたナズメ(難升米)で、伊都国王=「一大率」=男弟だ、とSは推論する。(最近ミステリにはまっている。納得!)
6 最後に一つだけ注文。魏志倭人伝に「邪馬壹国」とある。Sの言を借りても、誤記・誤植の類ではあり得ない。後漢書以下の史書での「訂正」(邪馬台国)とはいかなる「筆法」か? 教授願いたい。 

●榎戸誠氏が書評を自分のサイト【ほんばこや 2018年4月25日号】情熱の本箱にアップしている。

『魏志』「倭人伝」は、陳寿が時の皇帝の胸底を忖度して記したものだった・・・

驚愕
私は、44年間に亘り、邪馬台国論争に関する主要な著作には必ず目を通すようにしてきた。今回、『決定版 邪馬台国の全解決――中国「正史」がすべてを解いていた』(S栄健著、言視舎)を読んで驚愕した。長らく未決着であった邪馬台国論争に終止符を打つ書が、遂に出現したと確信したからである。
争点
1.邪馬台国はどこにあったか(九州か、大和(近畿)か、その他か)。過去の論争は、「倭人伝」の最も矛盾する部分、すなわち、地理記事の「方位」と「里程」のどちらを信用するかの対決だった。
2.一大率とは何者か。
3.卑弥呼の墓はどこにあるか。
結論
1ー1.邪馬台国は、3世紀の、女王を盟主とする九州北部(福岡県福岡市から春日市の辺りの)三十国の連合体であり、女王の都があった所は奴国だった。「万二千余里」は帯方郡から女王国までの里数で、「水行十日陸行一月」は帯方郡から女王国までの所要日数を表したもので、両者を合計すべきではない。
1ー2.女王の宮殿は、福岡県福岡市と糸島市の境に位置する高祖山(標高416m)の頂にあった。
2.倭王と伊都国王と一大率と卑弥呼の男弟は同一人物だった。「卑弥呼の死の直後に立った『男王』が誰かも、わかりきった話となる。卑弥呼の『男弟』の、『伊都国王』なのだ。『男弟』が『男王』なのだ。それは『一大率』であり、女王を『佐治国』しながら伊都国に『常治』し、諸国を検察し、畏憚させた人物、名は『難升米』なのだ。すこし文章的交通整理をしたが、その視座から『倭人伝』を読み直すと、話はじつにスーッとおさまる」。
3.伊都国の故地――福岡県糸島市の前原町の平原弥生遺跡が、卑弥呼の墓と推定される。「『露布の原理』が、この墓にも当てはまると仮定すれば、『径百余歩(145メートル)』の墓は、実は『径十余歩』となり、直径が、実際は約14.5メートル程度になる。同じ論法で『百余人』の徇葬者も、実数は十数人ではなかったか」。平原遺跡の西のものは、中央の方形部は東西17m、南北12mで、東のものは、東西13m、南北8mあって、周囲の溝からは、寝た状態で16人の殉葬者が推察されるという。「『卑弥呼の墓』の条件の一つは『殉葬者のあること』だが、日本国内の弥生遺跡では、殉葬者のある遺跡は、平原遺跡を除くと一例も発見されていない。●女性であり、●殉葬者がある、となれば、もう答は一つしかないかも知れない。この平原の遺跡は、三種の神器と同じ、鏡、玉、剣を組み合わせた副葬品を持ち、その被葬者は、女性ではなかったかと推測されている」。
解決への糸口
『魏志』「倭人伝」は、3世紀の晋王朝の史官・陳寿が記したものだから、彼が、どういう状況下で、どういう気持ちで書いたのかを知らねばならない。
陳寿も中国史書に共通する独特の「春秋の筆法」という記述原理を適用したという著者の指摘は、画期的で、説得力がある。「『筆法』や『春秋学』といっても、東洋史に詳しくない人には全然ピンとこないだろう。中国史書には『筆法』という独特の文章術(レトリック)がある」。「『春秋の筆法』を簡単に言えば、『文を規則的に矛盾させながら、その奥に真意を語る』ということだ。したがって史書著者の真意は、文の表面の割り切った言葉としては必ずしも現われない。捕捉しにくい、複雑で婉曲な文章術なのだ」。「あえて『誤った用字、表現』を用い、文のルールを破り、それによって、文の裏に真意を秘める。野球でいえば単純な直球ではなく、カーブやシュートのような高等技術だ。ストレートのつもりでバットを振ると、大きく空振りしてしまう」。「こうした、二重人格的な面が、中国の史書には伝統的にあった」。
当時は、「露布」の仕組み、すなわち、「数字を10倍」して表現する記述原理があり、陳寿はこれを女王国への里数記事に適用したというのだ。例えば、末盧国(唐津市の桜馬場遺跡)~伊都国(福岡県糸島郡の平原弥生遺跡)間の距離は「五百里(約218km)」と記されているが、実際は24.5kmしかないので、10倍に近い「誇大」が見られる。これが「誇大里数」(学者によっては「短里」)と呼ばれるものである。「倭国をより遠くの大きな国と印象させればさせるほど、魏の天子の威徳を人民に感じさせる効果があったことは言うまでもない。当時は、魏・呉・蜀の三国の、三つ巴の大乱戦の最中だった。大いに外交成果を誇示する必要もあったろう」。「『誇大』な『万二千余里』の実数はその10分の1、『千二百余里』(約520キロ)なのだ。郡より女王国まで、韓国のソウル附近より福岡県の福岡市、博多平野までは『魏志』は、実は、約520キロだと言っていたのだ」。この「万二千余里」(約520km)に合致するのは、奴国なのである。
中国史書には「前史を継ぐ」という原則があるので、『魏志』が含まれる『三国志』の後史『後漢書』と『晋書』の解読結果との照合が必要だというのである。前史とは、その史書が扱う時代より一つ前の時代を扱う史書のことで、『後漢書』と『晋書』にとっては『三国志』が前史となる。つまり、『魏志』「倭人伝」の表現の矛盾する部分を、『後漢書』「倭伝」と『晋書』「倭人伝」がどのように書いているか、どう解釈しているかを調べることが重要となるのである。「『後漢書』と『晋書』が、『魏志』<倭人伝>を素材として利用しつつ、他面、異質なものを混入させ、表現を何ゆえか書き改め、『魏志』の文との間に異同の生じているのも、また事実だ」。「奴国が『後漢書』では、なぜか『極南』と強調されるような事実だ」。
証明
どう計算すれば、●帯方郡より女王国までが「万二千余里」であり、●三十国の総戸数が「七万」となるのか。
「●『晋書』の『魏時三十国=七万』より『魏志』の『邪馬台国=七万余戸』に注目し、『魏時三十国=七万=邪馬台国』と仮説した。邪馬台国総称論(女王連合)だ。●このことは『魏志』の行程記事において、『里数記事と日数記事が連続しない』ことを示唆する。ということは、共に郡からの距離と所要日数であることを推測させる。そこで『後漢書』との比較。『晋書』流に読んで、『魏志』に書き出される国々のうち一番南になるのはどの国か。まさに、里数記事の終わりの『奴国が極南』となるのだ」。
「奴国が『万二千余里』の数値ときっちり一致する。●『郡より女王国に至る万二千余里』は、里数記事の内に収まり、●里数記事の最南(自女王国以北)にあった奴国と、完全に符合する。『後漢書』の『極南の国』と『女王の都する所』は、ぴたりと一致するのだ」。
「邪馬台国は女王連合三十国の総称であって、実は女王国とは、その中心となる『女王の都する所』の国(三十国のうちの一国)かも知れないことも、とりあえず仮説した。その女王の都の条件は、●里数記事(『晋書』戸数論より)で略載の最南(自女王国以北より)にあり、●帯方郡より『万二千余里』にあたることだった。そして今、これらは正確に一つの国を示している。それは、戸数が『二万余戸』の最大国だ。弥生時代で質・量ともに最大の遺跡群をもつ奴国、現在の福岡市の周辺なのだ。紀元57年にも、漢王朝に入貢し、時の光武帝より『漢倭奴国王』の金印を受けたあの奴国、言い換えれば1世紀の倭国の中心国だったグループが、3世紀の女王の時代も、倭国の中心国だったと結論できる」。
背景
陳寿は、時の皇帝の胸底を忖度せねばならない立場に置かれていた。「(魏の軍司令官として朝鮮半島を平定した)軍事上の成功は、司馬懿(仲達)を政界の中心に押し上げた。239年、魏の皇帝はなくなるが、司馬懿は、8歳の新帝の補佐役として太傅となり、魏王朝の最高位者として、以後の魏の政治と軍事の中心人物となる。やがて249年、この政治的地盤を元手に、政権の奪取を図りクーデターを決行。曹一族を倒して魏の実権を独占した。251年のその没後は、息子の司馬師・司馬昭があいついで政権を執り、265年になると、司馬昭の子の司馬炎が魏に替って晋朝を開いた。この司馬炎に、陳寿は仕えたのだ」。司馬懿は晋王朝の事実上の創始者なのである。
「『三国志』に唯一の地理誌である『魏志』<東夷伝>が立てられたのも、こうした事情による。それは単なる外国の話ではなく、実に、皇帝の祖父の偉大さを立証する、司馬氏の晴れの舞台の物語だった。したがって、この地方について陳寿が書けば書くほど、皇帝の祖父の功績、晋王朝の正当性が顕揚される効果がある」。「景初2(238)年の司馬軍団の極東アジア遠征の結果、倭の女王は司馬軍団の仲介によって魏に使節団を送った」。「邪馬台国との通交は、晋王朝の事実上の創建者である大尉(だいい。軍総司令官)司馬懿の遼東半島攻略と、韓と倭を支配下においた功績の結果だ。『万二千余里』も南へ南への『水行陸行』の地理情報攪乱も、かなりの策謀家である司馬懿あたりからと考えるのが自然だ。そのため、晋王朝の史官である陳寿としては、杜預が『春秋経伝集解』でいう『史の成文』として残したのではないか」。
「『魏志』が倭国を『当に会稽の東治の東に在るべし』と書いて、今の台湾に近い福建省の東方海上にあったように思わせているのも、3世紀中頃の魏と呉の駆け引きを見れば、魏の流した意図的なデマ情報だと推測できる。倭国は『有無する所儋耳・朱崖と同じ』と書かれ、北ベトナムや海南島との法俗の共通性が語られるのも、あたかも倭国を呉の南か東に在るように思わせ、魏と倭国が南北から呉を挟み撃ちにするかのように思わせるためだろう。地理的印象操作だ。すべて、240年前後の、魏と呉の軍事対決の結果に生じた誇大記事と思われる。一種のリーク(意図的機密漏洩)、デマゴギーなのだ」。この鋭い指摘には、目から鱗が落ちた。
「『魏志』<倭人伝>の『詔書』の文章作者は、流れより見て、まず間違いなく、司馬懿だ。陳寿は、仕えている皇帝の祖父の文章を、全文、一字一句、採録したのだ。それを読んだら、皇帝もご機嫌が良いだろう。これが『魏志』<倭人伝>の、真のメインテーマだ。ここにコンパスの中心を当てて、『魏志』<倭人伝>を読まねばならなかったのだ。ここなのだ。これがメインテーマだ。陳寿は、『史記』の司馬遷や『漢書』の班固のような、親の代からの歴史専門家とは、かなりキャラが違う。著作郎(年俸六百石)を史臣とも呼ぶが、学力優秀な、処世にたけた役人なのだ。また、著作郎という地位は、専門家として終生、歴史書を研究し編纂するのではなく、官僚人生の、出世コースの一つのステップだ。これも司馬遷や班固のような、純粋な歴史専門家とは、いささか違う」。
所々に砕けた表現が混じるが、論考過程は極めて精緻である。
今後
本書の主張に納得できない論者といえども、今後は、本書の内容に反論する明確な論拠を示すことなく論争を仕掛けることは許されないだろう。

以上は、鹿島茂氏、鷲田小弥太氏、榎戸誠氏の書評である。なるほど「歴史の教科書を書き換える」本かもしれない。

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