2018年12月30日である。今は京都聖護院の夕焼けの時間である。一昨日は朝はやくから春木に行きホームをまわる。90室、これもわたしが創った仕事だ。
難波に戻り地下鉄御堂筋線で長居へ、65室。
地下鉄の向かうままに動物園で下車し、まだ午前なのに1番出口から巡回徘徊し滞留し、阿倍野の新ホームにまわる。最上階のフロアには、何人もの高齢者。その人たちの終の棲家をわたしが用意したわけだ。帰途、路上で携帯にF恵さんよりの電話、あのこの話を聞く。幼児期に心を傷つけられつづけたのか、あのこは、可哀そうなことをした。
帰社し、雑用し、森小路のホームをまわる。清水君二十七歳、四人目の子供が生まれたばかりとか。君は政府から表彰状をもらえという。
昨日は昨日とて、まず午前まっさきにF恵さんに高麗ニンジンを宅急便でおくる。体調不良とか。京阪電車で京都に出て有栖川をまわる。はじめて建てたホームだ。今は昔、わたしの仕事の転機だった。大八木君十倉さんに忘年会をしようと伝える。隣のほし山で蒸し豚ときんちを買い少し安心する。これで鶴橋に行かなくてもよい。西院をまわり、御所南をまわる。西院のホーム長は南君、御所南は北川さん。
夜七時から西院の塚田牧場で総員十人の突発的忘年会。与太を飛ばし機嫌よく騒ぐ。もつ鍋飲み放題に追加追加である。
今日は朝早くに起きた。四階からの窓の下、疎水の用水池水面に映る朝焼けのはじまりをしみじみと観る。夜明け前の遠くの山なみを観る。
駅そばのローソンでアンパンとお握りとコーヒー牛乳を買う。橋をわたり鴨川の河原に出て、二時間太極拳と八卦掌をする。時間をかけてなんども太極拳を繰り返すと、すこし気づきがあった。歩法をなおす。ムルマンスクの小人ではないが、人の意識はどうしても下半身がおろそかになる。暗闇がやがて朝焼けになり、陽が昇る。北の山はうっすら冠雪である。お握りが美味しい、アンパンが美味しい、コーヒー牛乳が美味しい。寄ってくる鳩とゆりかもめにパンくずをやる。河原をジョッギングする人たちが駆け抜ける。
八時すぎ、もう陽があがり、部屋に帰り、自転車で岡崎あたりをまわる。京都は良い街だ。河原町のロフトに行き、日常雑品を買う。風呂マットとトイレマットが買えてちょっと幸せ、懸案解決。部屋にもどり、散歩。ちかくに風呂屋「さくら湯」を発見する。ラッキーだ。時折のみぞれの中を、犬のように歩き回る。河原で拳もなんども打つ。あちこちの喫茶店でコーヒーをすすりながら、馬長勲氏の「太極拳を語る」を読み、赤ボールペンで書き込みをする。低姿勢での套路はよくない、双重の意味。納得である。あれは膝を痛める。楽器店で良いウクレレがあった。ずいぶん高級品がならんでいる。今度買おうか。今更金を惜しんでもしかたがない。
喫茶店で時間つぶしをしたが、四時半にやっと風呂屋が開いた。古い小さな銭湯のあつい湯を楽しみ、全身の血を温め、おかみさんと無駄口をたたき、こうして部屋に戻る。冷蔵庫の中には昨日買った蒸し豚ときんちがある。酒も買った。用意万端だ。テレビのYouTubeで「コンバット」を観ながら、独り酒をするか。半世紀ぶりにサンダース軍曹の活躍でも観るか。ジャジャジャジャンジャジャン、すすめコンバアートどこまでも。
おやじ独りの歳の瀬だが、窓の外はすでに陽が落ちた。『ダブリン市民』の短編の中に、平凡な男の平凡な一日と、その男の夕焼けを見ながらのささやかな満足が書かれていた。一日がおわる。一年がおわる。さまざまな事があったが、一年がおわる。わたしなどにかかわりなく、陽はくれ、陽はあける。さあ、酒でもするか。
日々を生きるしかない。この日を生きよ。孤独は苦しむためではない、楽しむためのものと心得ようじゃないか。仕事も気力も体力もまだあり、金は充分すぎるほどある。とすれば、泣き言は無用か。
Be Here Now !!
ということだろう。泣き言、繰り言は生命を損じる。釈迦にも手に負えなかった四苦が八苦が、わたしにどうもできる由は無い。天と地のあいだに、今、この我の存することを感謝するのみだろう。
来年はしっかり遊べ、けんぼ。贅沢しろ。パーッとやれ。打ち上げ花火のようにパーッとやれ、パーッと。金も使え。君は独身貴族だ。超富裕層だ。本も書け。旅もしろ。女を追い回せ、鳩のように胸を精一杯ふくらまし、クッククック追い回せ。拳技も磨け。二胡は名人になれ。君が君の人生を楽しむために、天が独り暮らしの時間を与えたもうたのだ。ご褒美の季節とかんがえようじゃないか。今は素晴らしいと言いつづけようじゃないか。すると、必ずそうなる。
天天悟日日研。趣味随身美難言。其中楽亨不完。舒舒服服度人生。其楽自我自喜歓。人生好人間好。