法然上人の浄土教開創とその意義について
1. はじめに
前において中国における浄土教の成立、曇鸞・道綽・善導の教理発展を概観したが、日本浄土教の開祖である法然『選択本願念仏集』は浄土宗の基礎として「ひとえに善導による」宣言するように、それは善導の教えを引き継ぐものではある。しかし阿満利麿が『法然を読む「選択本願念仏集」講義』(阿満2011,:61)で「法然が傾倒した善導は、7世紀を生きた中国人である。法然はひたすら中国の浄土教家たちの書物を読みぬき、ついに阿弥陀の本願に遭遇する。そして、阿弥陀仏の十八願を中心にすべての仏教を再編成してみせたのである。それは善導といえどもなしえなかった作業であり、仏教史全体のなかでも傑出した、まさしく偉業にほかならない」と解説する。
この中国浄土教が、どう日本浄土教として受容され変容発展するかが本設題のテーマと理解して、2においてその教理の発展の概略を述べ、3において、その教理の構造、すなわち阿満利麿のいう「阿弥陀の十八願を中心にすべての仏教」を、どう「再編成」されたかについて述べる。
2.観想の念仏から称名の念仏に
峰島旭雄『浄土教の事典』(峰島2011,:31)によれば、奈良、平安時代の浄土信仰者としては、法相宗の智光、中国に留学して五台山の不断念仏を伝えた天台宗の円仁、三論宗の永観、阿弥陀聖とよばれた空也、密教と新義真言宗の覚?などが知られ、またとくに天台宗の源信(942~1017)の『往生要集』は、それ以降の日本人の死生観に決定的な影響を与えたと解説する。その『往生要集』で実践の中心とされたのは、阿弥陀仏と極楽浄土をありありと思い描く瞑想法、すなわち観想の念仏であった。「南無阿弥陀仏」という仏のみ名を称える称名念仏は、空也のようにそれを民衆に広めた者もいるが、あくまで観想をよくなしえない者のための実践法とみなされていたと峰島は解説する。そして「それを逆転させて、称名念仏こそが極楽往生のための正行であると説いて衝撃を与えたのが法然(1133~1212)である」と述べる。
末木文美士は『思想としての仏教入門』(末木2006,:154)で、源信の『往生要集』の第八観の「是心作仏、是心是仏」とあるように、阿弥陀仏といっても心の外にあるのではなく、三昧状態で達せられる心の在り方が、仏の状態である、すなわち己心の弥陀(浄土)、あるいは唯心の弥陀(浄土)のような傾向をもっていたとする。
また「中国・日本における浄土教の展開をみてみると、中国では天台や禅における唯心の弥陀的な方向が主流であったが、他方では善導にみられるような民衆的な浄土教が発展した。日本においては、平安期には源信に代表されるような観想念仏が展開し、また唯心の弥陀的な方向もみられたが、法然以後、称名念仏的な方向が主流となった」と述べる。また法然は、「偏えに善導に依る」といって、全面的に善導の説に拠り所を求め、称名念仏を主張するとともに、「指方立相」といって、西方に具体的な姿をもった極楽浄土の実在を認めたと述べる。末木は、「したがって、唯心の浄土的な方向とは正反対になる」と解説するのである。
3.選択された教理と浄土宗開創について
阿満利麿は『法然を読む「選択本願念仏集」講義』(阿満2011,:51)で「なぜ法然は従来の仏教では満足できず、新たに【本願念仏】を必要としたのか。そのことを正確に理解するキーワードの一つは【凡夫】という人間観であろう」と断じる。また54頁以下では、「問題は【煩悩】を除去することではなく、【煩悩】の存在を認めた上でいかにすれば【成仏】が可能なのかに答えることなのだ。法然の求道はこの一点からはじまったのである」と述べる。
その教理として、法然は善導の五種の「正行」のうち、第四番目の称名だけを「正定の業」としてとり、あとは捨てるのである。称名念仏だけが阿弥陀の本願にもとづく行であると、『選択本願念仏集』で説くのである。また「十念」という言葉を、念仏を十回唱えるという意味に再解釈するのである。
これが、阿満利麿が前掲書61頁以下で述べる「法然はひたすら中国の浄土教家たちの書物を読みぬき、ついに阿弥陀の本願に遭遇する。そして、阿弥陀仏の十八願を中心にすべての仏教を再編成してみせたのである」と解説する道筋であろうと思われる。
阿満利麿前掲書151頁以下は、客観的に見れば浄土三部経等の経典類では称名一行だけが説かれているのではなく、戒律を守ること、瞑想、道徳的善行の実践、その他浄土に生まれるための重要なさまざまな行為が説かれている。だが法然は、これらの行為を「諸行」と一括してそれらを放棄することを求めた。それは「三部経を称名念仏中心に読み替えてゆく作業だといってよい」と解説する。それが『選択本願念仏集』第六章の「末法万年の後に、余行ことごとく滅し、独り念仏を留むるの文」による宣言である。
こうして専修念仏という、ただ念仏を唱えるだけで阿弥陀仏の救済が約束されるという日本浄土教の教義が確立された。
善導も彼の時代において凡夫は、阿弥陀仏という他力に頼み、救済を願うしかないのだという末世と凡夫思想を説き、中国浄土教を確立したが、法然は、さらに第十八願の「十念すれば」を再解釈して、この第十八願の一フレーズを中心に据え直して教理を取捨選択、再編成し、念仏さえ唱えれば、誰でも阿弥陀仏の救済が約束されるという、ひろく民衆(凡夫)のために新教理を組成した。
4.おわりに
もともと仏教は、修行により自らの煩悩を滅尽し、解脱し、仏になる宗教であるが、善導や法然の浄土教は、文字通り「凡夫」のままで救われる道を説く。人々が煩悩まみれの生活(凡夫)を否定する必要はなく、逆に煩悩を持ったままで(凡夫のままで)救われてゆく仏教なのである。どのような修行をしようと、煩悩を滅するのは、あるいは不可能である。従って、このような人の本性としての「煩悩を認める仏教思想」は画期的であり、どれほど多くの苦しむ人々に救いを与えたかは、想像に難くない。たとえ、仏教本来の哲学、根本教理に反してでもある。
明治期になり、外国人宣教師たちが、キリスト教と浄土教の共通性に驚いたというが、凡夫=原罪の自覚と、人間存在は小さな愚かなものであるとして、祈りを唱える、神仏の救済(絶対他力)にひたすらすがるという共通項があったからと、ふつう解説されている。
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