インド哲学を整理する

二大哲人
ウッダーラカ・アルーニ(前八世紀)
打ったか、アルマーニで。有で流出やん。
無から有が生じることはなく、有は有からのみ生じるが基本テーゼ。
②独立自存の唯一の根本的な有から世界は流出するという、流出論的一元論を樹立した。
③有は、世界の森羅万象の中に自己として入り込む。
④したがって、有一元論であると同時に自己一元論でもある。
⑤自己から世界が流出するとの説でもある。
⑥有=自己流出的一元論は、西暦前後にヴェーダーンタ派が継承し、ヒンドゥー教にあわせて、有=自己=最高神一元論に仕立てた。
⑦因中有果論であるが、しかし、後に、世界は多様性を特徴とするが、その多様性がなぜあり得るのか、結果である世界に多様性があるのだから、原因である根本的な一元論にも多様性がなければならない。一元から多様性が生まれるでは矛盾である。
⑧サーンキャ派は、この流出論的一元論の難点を克服するために二元論をたてた。
→自己と根本原質の二元がある。自己が根本原質に関心を持つことにより、根本原質から世界が流出する。根本原質は、特性のことなる三つの従属要素の均衡状態であり、このときに均衡が破れる。
→流出した世界の一々のものは、三つの従属要素の含有比率によってその特性が異なることになる。
⑨八世紀にシャンカラが不二一元論で、自己以外の幻影であると論じて、難問の解決をはかる。
→サーンキャ派の二元論の構図をそっくり借用し、しかもそのうえで、流出する世界は、無明が映じた幻影にすぎず、実在するのは、ただ自己のみとした。
→すなわち、シャンカラは、ヴェーターンダ哲学の伝統の中で、一元論を守るために流出論を幻影として捨てた。
→唯識思想とも共通性があり、かれは仮面の仏教徒とよばれる。

※ウッダーラカ・アルーニのアートマン説
インド哲学に現れる因果論は、大きく分けて二つあり、自我も世界も唯一なるブラフマン(梵)から流出転変したと見る正統バラモンの転変説(パリナーマ・ヴァーダ)と、唯一なる絶対者を認めず個々の要素が常住であるとして、それらが集まって人間や世界が成立していると見る積集説(アーランバ・ヴァーダ)に分かれる。こういう二つの考え方の基礎は、ウパニシャッドの時代に形成されたものである。
インドにおける最初の哲学者は、ウッダーラカ・アールニであるが、これについて宮元啓一『インド哲学七つの難問』185頁以下は、「流出論は、すべて世界の始まりについて語る。ウッダーラカ・アールニの有名な有の哲学は[太初、世界は有のみであった]という一元論的主張から始まる。そして、その有が、おのずから増殖しようと考えた。そこからいくばくかの過程を経て、世界の森羅万象が流出したという」と述べて、ここで流出論的(転変説的)一元論がインド哲学史において完全な形で出現したと解説する。これは梵我一如論でもある。
金倉圓照『インド哲学史』29頁以下は、ウパニシャッド哲学の本領は梵我一如の思弁であるが、ウッダーラカ・アールニは、これを「有」satと規定して、その有からの万物発生を説明する。すべては有から始まり有に帰るのであるが、「この微細なものこそ、一切万有が本性として有するものである。それは真実なるもの、即ちアートマンである。それは即ち汝である、と彼は説いている」と解説する。古代インドにおける梵我一如思想の成立であり、この立場からすれば、ブラフマンは即ちアートマンであり、アートマンは即ちブラフマンである、大宇宙たるブラフマンと小宇宙であるアートマンは、一如であるとなる。

ヤージュニャヴァルキヤ(前七世紀)
猫が、やーじゃニャー、バキャは、と。見る者は、見れないのに。

①世界は自己に認識されることで、初めてその存在が確立される。
②認識されなければ、いかなるものもその存在は確立されない。
③しばしば、自己一元論とよばれる。
④最初に自己があり、世界はその後にその存在が確立されるから、これは自己による世界の生成と捉えることもできる。
⑤だが、自己は認識主体であるがゆえに認識対象となりえない。
⑥すなわち、自己は世界外存在である。

※ヤージニャヴルクヤのアートマン説
古代インドの二大哲人は、ウッダーラカ・アルーニと、その弟子であるヤージニャヴルクヤとされるが、金倉前掲書31頁以下では、ヤージのニャヴルクヤの思想について、「ウッダーラカの説は、客観的な有の原理から出発し、実在論的な見方で梵我一如を説明している。万有の根源としての元素の観念も、彼に至って始めてはっきりした。しかし、ウパニシャッドには、かような実在論的傾向の外に主観的なアートマンを基礎として、唯心論的に全有の統一をみる思想もある」としてヤージニャヴルクヤの思想を解説する。結論として、金倉は前掲書32頁以下で、「この一切の根源としてのアートマンに関する真理を自覚するのが、哲学の目的であり、人生最高の帰趨であるというにある」と要約する。
これについて、宮元啓一は『インド哲学の教室』60頁以下でヤージニャヴルクヤの思想を説明して、自己は何によっても媒介することなしに、自律的に、自己回帰的にその存在が確立されている。世界は、その自己に認識されることにより初めてその存在が確立される。したがって、このヤージニャヴルクヤが発見した考えは、しばしば「自己一元論」と呼ばれる。「まず最初に自己があり、世界はその後に存在が確立されますから、これを、自己による世界の生成と捉えることが可能になります」と解説する。これは自己から世界が流出するという意味ではなく、自己は世界と関わりなく存立できるけれども、世界は自己に依拠しなければ存立できない、ということらしい。
そして宮元は前掲書60頁以下で、ウッダーラカ・アルーニは「独立自存の唯一の根本的な有から世界が流出するという、流出論的一元論を樹立した」とするが、その弟子であるヤージニャヴルクヤの思想は、「自己一元論であり、自己から世界が流出するという説」と解説する。そして、この有=自己の流出論的一元論は、その後、西暦紀元前後にヴェーダーンタ学派が継承し、ヒンドゥー教に合わせて、有=自己=最高神一元論に仕立て上げたと解説する。

六派哲学
なかなかにインド的思考の面白さと、インド人の論争好きが面白い。
六派哲学(?ad dar?ana)はダルシャナ(dar?ana、日本ではインド哲学と訳す)のうち、ヴェーダの権威を認める6つの有力な正統学派の総称。インドでは最も正統的な古典的ダルシャナとされてきた。
ヴェーダーンタ学派 ? 宇宙原理との一体化を説く神秘主義・流出一元論
ミーマーンサー学派 ? 祭祀の解釈
ヨーガ学派 ? 身心の訓練で解脱を目指す。有神のサーンキャ派
サーンキヤ学派 ? 精神原理・非精神原理の二元論 数論派
ニヤーヤ学派 ? 論理学 正理派
ヴァイシェーシカ学派 ? 自然哲学  勝論派

印度六派哲学  木村泰賢著作集2-1 より整理。
ウパニシャッド(BC8~BC6ぐらい?)で哲学的考察の時代に入ったインド。
その後、200~300年のあいだ、諸派の哲学的潮流が興る(学派時代)。前二世紀から後四世紀まで
必ずしも自然発生的でなく、組織者がいる。
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1 (前)ミーマンサー派           組織者ジェイミニ    紀元前後 聖典祭事部
2  後ミーマンサー派(またはヴェーダンタ派)組織者バーダラーヤナ  紀元前後 聖典知識部
3  サーンクヤ派(または数論=すろん=派) 開祖 カピラ      紀元三~四世紀
4  ヨーガ派 サーンキャ派=その実践法   開祖パタンジャリ    四世紀か
5  ヴェイシェーシカ派(または勝論=かつろん=派) 開祖カナーダ  前二世紀半ば 原子論
6  ニヤーヤ派(または正理=しょうり=派) 開祖ゴータマ      紀元前後
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BC4,5CからAC4,5Cまでかかって体系化されたものもある。
その理論系統をざっくり言うと3つに分かれる

1 (前)ミーマンサー派 =梵書にもとづいて祭式を神学的に研究(哲学ではない)
2  後ミーマンサー派(ヴェーダンタ派)=奥義書に基づいて梵教を組織立てようとする
ウッダーラカ・アルーニの「有」の哲学を継承し、「有=宇宙の根本原理ブラフマン=最高神=最高の自己」、八世紀のシャンカラは、流出論を捨てて、不二一元論へ
3  サーンクヤ派(数論派)=形而上的原理の理論  流出論的二元論
単純に流出一元論では、清浄な最高神から不浄のものが沢山混ざったこの世界が説明できない。
精神原理である自己と、非精神原理である根本原質、さらに三要素の根本原質が世界をつくる因中有(う)果論
4  ヨーガ派       =その実践法
5  ヴェイシェーシカ派(勝論派)=自然に関する理論的研究
六派哲学の最古のもので、前二世紀半ば。すでの言語表現されるものは実在であり、すべての実在は知られものであり、言語表現されるという、徹底的な実在論を展開する。
→世界を認識することと世界を語ることは等値であり、その分析は必然に言語を分析することと等値となる。言語の構造を把握すれば、それは世界の構造を把握することに直結する。
6  ニヤーヤ派(正理派)=論理的方法論
有情観・・・有情(人間などの生命)の本性は常住不変の霊体だが、迷によって変化流転の分裂体となった、この分裂の当体を脱して、自主独立の霊的境地を開拓しよう、という根底は6派とも同じ。
いずれも厭世的、肉体を精神の牢獄と見る傾向。本体観、宇宙観など、各派に共通や相違がある。
ヴェーダーンタとミーマーンサー、ヨーガとサーンキヤ、ニヤーヤとヴァイシェーシカはそれぞれ対として補完しあう関係になっている。なお、ヒンドゥー教においては、これらヴェーダの権威を認める学派をアースティカ(?stika ??????`, 正統派, 有神論者)と呼び、ヴェーダから離れていった仏教、ジャイナ教、順世派などの先行する思想派閥をナースティカ(n?stika ???????, 非正統派、無神論者)として区別する。

ヴェーダーンタ学派
ベーと棚田で、一元流出汚れた★★に突っ込んで
ヴェーダーンタ学派(デーヴァナーガリー:???????, Ved?nta、英:Vedanta、前二世紀半ば)
ヴェーダとウパニシャッドの研究を行う。古代よりインド哲学の主流であった。「ヴェーダンタ」の語源は veda と anta (終わり)を掛け合わせたもので、ヴェーダの最終的な教説を意味し、ウパニシャッドの別名でもある。
ウッダーラカ・アルーニとユージュニャヴァルキヤの哲学を継承し、唯名論的な流出論的な一元論の立場。根本有であるブラフマン(宇宙の根本原理)は最高神にほかならず、それは世界の質料因であると同時に動力因である。
難解であり、八世紀のシャンカラが、プラウマンのみ実在で、世界は幻影だとする不二一元論(別名は幻影論)を唱えて、旧来の流出論を排斥した。
開祖はヴァーダラーヤナで、彼の著作『ブラフマ・スートラ』(別名・『ヴェーダーンタ・スートラ』)のほか、『ウパニシャッド』と『バガヴァッド・ギーター』を三大経典(プラスターナ・トラヤ)としている。
ヴェーダーンタ学派における最も著名な学者は、8世紀インドで活躍したシャンカラであり、彼の説くアドヴァイタ・ヴェーダーンタ哲学(不二一元論)は最も影響力のある学説となっている。ほかに、ラーマーヌジャらが提唱するヴィシシュタ・アドヴァイタ{制限(非限定的)・不二一元論}や、マドヴァの説くドヴァイタ(二元論)などがある。

ミーマーンサー学派
Me マン 祭 エマニエルよBKKの
ヴェーダの中で祭式に関わる部分を研究する学派である。紀元前200-100年頃生きたジャイミニが書いたとされる『ミーマーンサー・スートラ』を根本経典とする。別名ジャイミニ・スートラ、カルマ・ミーマーンサ(カルマ:行為、ミーマーンサ:分析の意)。
祭式を重視し、祭式を行うことで現世や来世の幸福を得ることができるとする。神は祭式の1要素に過ぎず、同じくヴェーダを研究するヴェーダーンタ学派と比べて神が占める地位は低い。またインド哲学の多くが重視する解脱にも関心が低い。 言語不滅論。
膨大かつ多様なヴェーダ祭式を統一的に解釈するための複雑な言語論や認識論の体系を持っている。
形式主義・儀礼先行のため、最も正統の学派でありながらも、早い段階で権威は失堕している。

サーンキヤ学派
サンキュ プルシャと プラクリティ
サーンキヤ学派(数論派、すろんは、S??khya)、世界の根源として、精神原理プルシャ(神我、自己)と物質原理プラクリティ(自性、原質)という、2つの究極的実体原理を想定する。厳密な二元論であり、世界はプルシャの観照を契機に、プラクリティから展開して生じると考えた。
また?????? サーンキヤは「数え上げる」「考え合わせる」という意味で、数論派、数論学派とも。

ヨーガ学派
ヨーガで よがれ
ヨーガ学派(ヨーガ)はダルシャナ(インド哲学)の学派で、ヨーガの実践により心身を統一し、解脱を目指す学派である。シャド・ダルシャナ(六派哲学)の1つに数えられる。『ヨーガ・スートラ』を根本経典としている。
ニヤーヤ学派
ニヤニヤ 屁理屈の数々
ニヤーヤ学派(または正理=しょうり=派)は、インド論理学として代表的なものであり、論理の追求による解脱を目指す。ガウタマ(アクシャバーダ)が著したとされる『ニヤーヤ・スートラ』を根本テキストとする。
『ニヤーヤ・スートラ』によれば、以下の16の項目を正しく知ることにより、解脱がなされるとする。
1.認識手段(知覚・推論・類比・信頼すべき言葉)
2.認識対象(アートマン・身体・感覚器官・感覚器官の対象・認識・思考器官・活動[カルマ]・過失[煩悩]・輪廻・果報・苦・解脱)
3.疑惑
4.動機
5.実例
6.定説
7.論証式を校正する5肢(主張提示・理由・根拠事例・当該問題への適用・結論)
8.吟味
9.確定
10.論議(通常の討論)
11.論諍(勝つために手段を選ばない討論)
12.論結(相手の論難に終始する)
13.議事理由
14.詭弁
15.誤った論難
16.敗北の立場
ニヤーヤ派の推論は、まず知覚を基礎におくのが絶対条件である。
認識根拠の第一として、まず「知覚」が説かれる。
つぎに「推論」がくる。
推論は形式がきまっている。現代論理学の「前件肯定式」というかたちである。
A、Bを文として、∴を「ゆえに」とすると、
AならばB   …①
A       …②
B       …③ という形式をもつ。
あの山は火を有する(まず知覚が認識する)  ……主張
煙を有するがゆえに            ……理由
煙を有するものは火を有する (火を有しないものは煙を有しない、かまどのように) …喩例
かまどのように、あの山もそうである    ……適合
あの山は火を有する            ……結論
ニヤーヤ学派ではこのようないわば五段論法(五分作法・五支作法)を用いるが、当然、次の三段にまとめることができる(実際三段にまとめる仏教論理学派の挙げている例は,下のものに等しい)
煙を有するものは火を有する
あの山は煙を有する
あの山は火を有する
上の③と下の①は、「喩例、ゆれい」と呼ばれ、論証を裏付ける具体的な喩え(法則的関係)が述べられる。
前提の二つの「真」なることが確認されれば、前件肯定式の結論は「真」とならざるを得ない。
「煙を有するものは火を有する」は経験主義的であり、帰びゅう的だが、反証の可能性がないのであり、これを法則的関係として、演繹的に結論を提示する。
ヴァイシェーシカ学派
倍 シェー 鹿 は 白い牛
ヴァイシェーシカ学派(勝論派、かつろんは)、カナーダが書いたとされる『ヴァイシェーシカ・スートラ』を根本経典とする。一種の自然哲学と見なされることもある。
『ヴァイシェーシカ・スートラ』では、全存在を6種のカテゴリーから説明する。言葉は実在に対応しており、カテゴリーは思惟の形式ではなく客観的なものであるとする。 カテゴリーは実体・属性・運動・特殊・普遍・内属の6種である。
これはサンスクリット語の文法とも対応関係がある。
実体  名詞のカテゴリー
実体(dravya)は以下のように分けられる。
地 (p?thiv?)
水 (?pas)
火 (tejas)
風 (v?yu)
虚空 (?k??a)
時間 (k?la)
方向 (dik)
アートマン (?tman)
意(マナス) (manas)
属性  形容詞のカテゴリー
属性(gu?a)は以下のように分けられる。
色 (r?pa)
味 (rasa) 甘




香 (gandha) 芳香
悪臭
触 (spar?a) 冷

非冷非熱
数 (sa?khy?)
量 (parim??a)
別異性 (p?thaktva)
結合 (sa?yoga)
分離 (vibh?ga)
彼方性 (paratva)
此方性 (aparatva)
知識作用 (buddhi)
楽 (sukha)
苦 (du?kha)
欲求 (icch?)
嫌悪 (dve?a)
意志的努力 (prayatna)
運動  動詞のカテゴリー
運動(karma)は以下のように分けられる。
上昇 (utk?epa?a)
下降 (avak?epa?a)
収縮 (?kuncana)
伸張 (pras?ra?a)
進行 (gamana)
普遍・特殊・内属
普遍 (s?m?nya)同類の観念を生む原因である。黒い牛も白い牛も同じ牛であると分かるのは普遍としての「牛性」を牛が持っているからである。特殊 (vi?e?a)あるものを別のものから区別する観念の原因である。牛が牛であって馬でないと分かるのは特殊としての「牛性」を牛が持っているからである。内属 (samav?ya)不可分でありながら別個の実在となっているもの同士の関係である。糸と布は内属の関係にある。
白い牛が歩く とは何やねん
白い牛 白い=属性・性質 実在する白い色 牛=実体 実在する牛という実体
歩く= 実在する歩くという運動
白い牛から、白い色だけ剥がせない
歩いている牛から、歩行だけを剥がせない
→性質と実体・運動と実体は不可分の関係にある。
→この関係は、性質・実体・運動のどのカテゴリーにも入らない。
→そこで、独立のカテゴリーとして、内属(内属関係)と命名される。
→内属関係では、どちらかが基体となり、どちらかが属性となる
→牛は白くなくても牛であるから、牛が基体で白さが属性である。
普遍というカテゴリー
→鳥や馬とは違い、牛には牛だけの共通する属性つまり「牛性」がある。これが普遍である。
特殊というカテゴリー
→また、牛性は、牛ではない鳥や馬からすべての牛を排除する属性、つまり排除の原理、特殊としても機能する。
そういえば、哲学と論理学を発生させたのは、インドとギリシャだけだ。説明せねば気が済まないのだろう。以上はソイ11での整理。

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