朝鮮仏教史、高句麗・百済・新羅の仏教伝来

1. 朝鮮三国の仏教初伝について
末木文美士は『日本仏教入門』77頁以下で、「六世紀に仏教は朝鮮半島を経由して日本に伝来したが、七世紀半ば頃までは朝鮮の影響が強く、中国から入る情報は少なかった。中国の仏教が直接伝わるにようになったのは八世紀半ば以後で、遣唐使とともに仏教の典籍も多く伝えられるようになった」と解説する。したがって、日本における初期仏教を理解するには、その「経路」である朝鮮三国の仏教およびその形態への理解が欠かせないことになる。
日本の仏教初伝は、倭国と親交のあった百済の聖明王が欽明天皇に、釈迦仏金銅像などを贈り、公式に仏教を受容することを進めたのが、日本における仏教公伝とされる。『日本書紀』では552年、『上宮聖徳法王帝説』では538年である。また、高松塚古墳の天井の四神図、婦人衣装様式は高句麗式だと判断されているが、聖徳太子の仏教の師も、高句麗僧の慧慈や慧聡である。朝鮮三国の仏教の初伝は、したがって日本仏教の初伝にもかかわるテーマである。
目的は、歴史の概略を整理するものであり、私見の入る余地はない。以下2において高句麗、3において百済、4において新羅を整理して、5においてその全体傾向をまとめる。
2. 高句麗の仏教初伝について
朝鮮の仏教は、4世紀の高句麗・百済・新羅の三国時代に中国から伝来している。当時の中国は、北朝が五代十国の時代、南朝が東晋の時代であった。公式の仏教初伝は、372年とされるが、本講義テキスト『新アジア仏教史10』「朝鮮半島・ベトナム」22頁以下によれば、「東晋の支遁(314-66)が高句麗道人」に送った書簡があり、この支遁没年までに「高句麗に仏教の知識を有するものが存在した」と述べる。また、永和十三(357)の紀年をもつ装飾古墳である安岳三号墳簿その他に、仏教図象である蓮華が描かれており、「前燕仏教と、戦乱が続く北方中国からの高句麗への亡命漢人がもたらした仏教信仰が、すでに高句麗に入っていたと考えることが出来よう」と解説する。
『新アジア仏教史10』および洪南基『朝鮮の仏教と名僧』によれば、高句麗の仏教公伝は、朝鮮史書『三国史記』『三国遺事』によれば372年、前秦の符堅王が高句麗小獣林王に使者として僧順道をおくり、あわせて仏像と経典を贈ったことに始まるとされる。また374年、僧阿道が東晋から来た。高句麗王は375年、肖門寺を建てて順道を厚くもてなし、そして伊弗蘭寺を建てて阿道を住まわしたと朝鮮史書は伝える。当時の仏教は中国でも国家の庇護の下にあり、こうして高句麗において王朝の庇護の下に仏教が行われることになった。392年には、故国壌王が「仏法を崇信して福を求めよ」との教令を下し、翌年には、広開土王が平壌に九寺を創建したと伝える。
その仏教の特色は、6世紀には、僧朗という人物が現れ、中国に渡り三論学の方面で活躍し、その思想は後に中国で三論学を大成した吉蔵に受け継がれたように、三論宗つまり龍樹の『中論』の学派であったと推測される。この高句麗仏教の特徴は、前燕・前秦の華北仏教と東晋・江南の貴族仏教が混在しているところである。6世紀には経典研究の段階から『十地経論』、『大智度論』、『金剛般若波羅密経論』などの論書研究の段階に入っていたとされる。
3.百済における仏教初伝
日本の仏教初伝は552年、百済の聖明王が欽明天皇に、釈迦仏金銅像などを贈り、公式に仏教を受容することを進めたのが仏教公伝とされる。 この百済の仏教初伝は、372年に順道が高句麗に来てから12年過ぎた384年とされる。また、百済では高句麗が中国北方王朝と接触したのとは違い、中国江南王朝と外交する。
本講義テキスト及び洪南基『朝鮮の仏教と名僧』18頁以下によれば、インド僧の摩羅難陀が東晋より来たことを仏教初伝とする。384年、枕流王は宮中で摩羅難陀を礼敬し、仏寺を創建し、僧十人を出家させている。
百済では、戒律が重視され526年、謙益が王の命を受けてインドに渡り律に関する書物を持ち帰える。また、法華信仰や弥勒信仰も根強かったようである。百済は滅亡したために、多くの優秀な僧侶が日本に逃れてきて、飛鳥時代の仏教に大きな影響を与えたとされる。
4.新羅の仏教初伝について
『新アジア仏教史10』「朝鮮半島・ベトナム」38頁以下によれば、公伝にはいくつかの異説があるとするが、テキストは公伝を一応520年頃とするが、また早くから民間レベルの仏教の受容はあったとも述べる。これも当時の法興王が退位後に出家したように、国家仏教として行われたようである。
また、三国が統一をめぐって戦乱を繰り返していた時代を背景として、新羅では仏教は護国思想と結びついて信仰され、僧侶もまた政治と戦乱に関与した。そのうちの一人に、円光という僧侶は、武士が守るべき「世俗の五戒」を定めて、若い仏教信徒武士階級の規範としたように、護国仏教としての側面ももった。仏教の五戒というと、殺さない・盗まない・邪淫を行わない・嘘をつかない・酒を飲まないの五つだが、円光の五戒は、それらと違って戦争を前提とした護国思想をはっきりとあらわしている点で特徴的である。
5.まとめとして
この朝鮮三国の仏教初伝は、北の高句麗が中国華北王朝からを主な仏教伝来の毛経路にしたのに対して、南の百済、新羅は中国江南王朝を伝来の経路としてこと、また国情の違いから、すこし仏教の内容に差異は生じているようである。
ただ、1世紀と推定される中国への仏教公伝とは違い、ある程度完成された中国仏教が招来されており、当初から漢字文明圏のなかの朝鮮三国として、その受容は容易であったようである。
以下、初学者の私見ではあるが、日本仏教が中国仏教を日本的に発達変容させたのとは違い、朝鮮仏教は、あるいは原理原則主義的かも知れない。民族性の差かも知れない。教義と戒律の厳守がなされており、純粋ともいえるかも知れないし、硬直的かも知れないとも印象する。
だが、『新アジア仏教史10』「朝鮮半島・ベトナム」まえがきでは、「朝鮮の場合も、中国仏教を学ぶばかりではなかった。高句麗・百済・新羅の僧侶は盛んに中国に渡って活躍しており、特に新羅の僧は中国仏教に大きな影響を与えた」と述べる。そして「実際の仏教史は、多様な特色を持った諸国・諸地域間の複雑な相互交流と相互影響の歴史であったと言ってよい」と結論する。

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