昨夕はふらふらと大津駅あたりに。何もない街だ。駅前の店でひとり酒をしながら、買ってきた週刊誌をながめる。もとの巨人監督、堀内氏の顔写真がある。堀内さん、あの堀内チョッサーの従兄弟だ。顔がよく似ている。チョッサーもこんな顔だった。チョッサー、チーフオフィサー、一等航海士。松T丸だ。三万年前の話だ。まだ十九歳。SM手帳は勝鬨橋のそばで意外と簡単にとれた。海の外に出れるぞ。お約束のセーラー帽を買った。マドロスさんだ。いけ、どこかは知らんが、いけ。今かんがえれば、立場上、とんでもない危険なことだった。
船は千トン程度だ。初航海だと思う。夜明けに着いたところはなんと北の国のS津だった。驚いた。最下級セーラーとして、船首甲板でボースンに怒鳴られながら接舷ロープを巻き取るドラムウィンチの手元をした。早朝の岸壁ではカラニシコフを抱えた衛兵小隊が整列して勤務交代礼をしている。煉瓦づくりの街並みが並ぶ。はじめての異国である。異国ではないが異国である。
何かを降ろし、何かを積んだのだろう。夕方はバスに乗りシーメンズクラブに行く。バスの窓から、街並みと人通りをあながあくほど見つめる。街を道路を、建物と人のながれを眺める。これがそうか、この土地か。泡のない、だが美味しいビール、海老のボイルが大皿にいっぱい。海鮮が抜群に美味しい。半世紀前だ、記憶も走馬燈のように情景がただようだけだ。 民族服のお姉さんはにこにこしている、背広にネクタイの支配人は、白人船員の態度にきりきり切れている。とにかく海老のボイルが美味しい。少年客気だ。
それから高松港に行ったのか。電撃フリントというジェームスコバーンの映画を観た。また両岸の夜の明かりが宝石のような関門海峡を越えて、黄海に入った。海面が本当に黄色いのだ。帆の破れたジャンクが斜めに傾きながら帆走している。交代したボースンは小さなお爺ちゃんだった。一日中、甲板でカンカンをする。田舎から東京に出て、突然に海原だ。四方につづく水平線の中で、カンカン、カンカン、カンカン。サンダーをかけてレッドレッドジンクロを何度も塗る。ポパイもブルートもこんなことは、しないはずだが。 まるでペンキ屋だった。
何回かの航海、天津の外港だろうか、ひろい鼠色のよどんだ河を遡上する。文化大革命真っ盛りの中国だ。接岸の時、帽子が飛んだので、船から岸壁に飛び降りた。無許可上陸になった。後で船に中国の警官が来た。平謝りしかない。天津のシーメンズクラブは立派な大きい建物であり、天井も高い。ビールが美味しい。中国である、中国だ。思いもよらぬ中国だ。来てしまった。紅衛兵たちが集団で歩いていた。造反有理。街を眺める、燻んだ煉瓦の街並みだ。なんの豊かさも見えなかった。子供があつまる。写真をとろうとしたら、現地おやじに叱責された。
それから船はどこかの黄海ぞいの地方の港に行った。夜にどこかの招待にみなが呼ばれた。エンジンのインテリ共産党系と仲が良かった。貸した金はついに返してもらえなかったが。彼らと一緒に行く。紅衛兵がパーティで勇ましく手をふって東方紅の唄を披露するが、なんと国歌の歌詞を忘れたようだ。照れ笑いしてた。映画会があり、原爆初実験成功のフィルムを見せられた。どこかの砂漠、騎兵が駆けながら馬上から小銃を連射している。中国人たちは大拍手、日本人船員たちは黙りこむ。赤い手帳と毛沢東バッチをたくさん貰った。
何度か航海をした。機関室の気の良いチェンジアン、チーフエンジニア、機関長。目つきの悪いエンジンのセコンド。へんな司厨長。快活なおじさん無線士。上席セーラーの佐々木さんは、新宿のバーのマダムの息子の男前。厨房のゴロなあんちゃん。交代したセコンドオフィサーは、日本語で書いた航海日誌をキャプテンに英語で書き換えられて、ゴネて船を降りた。だがあの人は瀬戸内海の小型鋼船ばかり。英語では書けなかったのではないかと、今も疑っている。
まあ所詮は小船、嵐は大変だ。木っ葉のように天上から海底まで持ち上がり落とされる。便器を塩酸で磨くのは私の仕事。ピカピカにしないと怒鳴られる。操舵室では佐々木さんはステアリングを待つが、私は無理ね。当て舵三度、ノーイーストバイイーストスリークォーターイースト。商船学校を出てない私に羅針儀などわかるはずもない。レーダー画面を見ても、なにもわからない。離岸と着岸のときに船首甲板で、ドラムウィンチに合わせてロープとワイヤーを操作すること、航海中はひたすらカンカンハンマーで古い塗装をたたき落とし、サンダーをかけ新しいペンキを塗ること、荷役のワイヤーをかけること、ひたすら船内と便所を綺麗にすることが仕事だった。おっさんたちは食堂で将棋と花札。
でも、離着岸はセーラーのひと勝負だ。事前に船首倉庫から太いロープとワイヤーを船首にセットする。ブリッジにはキャプテンとパイロット、船首にチョッサー、船尾にはセコンド、そして船首甲板には、ボースンがドラムウィンチの操作レバーを握り、最船首で船外に身を乗り出している堀内チョッサーの指揮の下で、私はボースンの手元として汗だくでドラムにロープを巻き付ける。大きなドラムは回転し、ロープを巻き上げる。手や足をはさんだら、それまでだ。アウト。船はゆっくり岸壁に寄って行く。岸壁では現地の人たちが、ロープを受け取り、固定ブイに巻き付けて待機している。やがて船は接岸する。ロープにストッパーをかけたら、タラップの用意だ。片付けも大仕事だ。整理整頓、備えよ常に。 沖に出たら、カンカン、カンカン、カンカン。カンカン虫。
胸のすこし悪いひるこ君が瀬戸内の島から呼び戻されたので、船を降りることにした。最後の航海は東京港。深夜の竹芝桟橋についたのは、五月十八日、私の二十歳の誕生日だった。私は百万年前、船乗りさんだった。思いもよらず、何度も海を越えた。そして二十歳で船を降りた。