バンコクから空路一時間、タイ東北部いわゆるイサーンのチェンライ県に行く。タイの地方都市である。チェンマイほど観光開発されていないが、ここでも白人観光客がおおい。翌日、早朝のバスにのり、北に向かう。高い並木と田園地帯を走り、メーサイに着く。メーとは母の意味、つまり川である。サイ川という地名のとおりだが、タイ・ミャンマー国境は、小さな小さなサイ川である。両岸の家どうしも、まるで隣どうしの近さだ。川の向こうはタチレク。
橋の手前はタイの警備事務所。タイ軍兵士がM16を壁に立てて、寝転んで雑談をしている。国境の橋を歩いて渡る。後ろにはタイの寺院門のような国境ゲートがあり、前にはミャンマーの塔のようなゲートがある。ミャンマーの入国管理官に費用を支払う。タイとは異なり、カラニシコフをつった兵士がコッコッと巡回をしている。
ゲートを出ると、市場だった。国境の市場であり、中国製品とタイ製品がならべられている。いきあいたりばったりでホテルを決めて、ティクティクを雇う。スカート姿の中年の運転手が「置キ屋、置キ屋、リトル・レディ、カワイイ」と騒がしい。
丘の途中に寺院があった。入ってみる。大きな木々に囲まれ、誰もいない。堂にあがると仏像がまします。私はとくに宗教はないが、祖父母の葬儀は仏式。今でも線香をあげて手を合わす。淡い仏教徒とも言えるか。仏像の前に正座し、線香をあげ、祖父母と父のために手を合わす。だれもいない、見ていない静かな堂の中である。すこしの時間ほど手を合わせつづける。そのうちに涙腺がゆるんだ。
堂をおりると、さきほどの運転手が、兄弟を見るような優しい顔をしている。この国はみな仏教徒だ。それも敬虔な。自国の仏陀に手を合わせ泣く外国人に、親しみを感じたらしい。国境の町であり、タイ語がつうじる。それからは彼は静かに土地の説明などをしてくれる。リトル・レディの話はもうしない。家族はと聞くとそれにも答えてくれる。
丘の上に大きな寺院があった。入ると観光案内の娘が寄ってきた。その案内と説明を受けながら、寺院をまわる。最後は、お約束だから、彼女からなにかを買わねばならない。紙幣のセットを買う。紙幣の肖像を誰かと聞くと、大事な人、お父さんと答える。気の強そうな若い軍人が印刷されている。アウンサン将軍であろう。少年時代からビルマを支配するイギリスに対して反英闘争をつづけ、各地を逃亡しながら同士をつのり、日本軍と連携してビルマ独立義勇軍を編成。ビルマからイギリス勢力を駆逐。さらに抗日戦線を構築し、ラングーンの日本軍部隊を攻撃。マウントバッテンとの密約をとりつけ、第二次大戦後ビルマの独立を達成。しかし、その直後、若くして暗殺されたビルマの英雄である。彼女の言葉のはしはしに、建国の英雄にたいする尊敬の感情が満ちている。まるで家族を語るような口調である。そうか、アンウサンがこの人かと思う。
それにしても、その娘であるアウンサン・スーチーがイギリス人と結婚し、民主化のヒーローとして扱われ、父の元部下である軍事政権と対立し、徹底した外国人ぎらいである父とは反対の立場にたつとは、流れは複雑のようだが。
翌日、例のごとく、犬のように街や郊外をうろつきまわる。タイの豊かさとミャンマーの貧しさは比較しようがない。何車線もの舗装された並木道が国土の縦横に走るタイと、地道に古いトラックの走るミャンマー。この街、タチレクは、幼女買春の男たちが極東からくる街でもある。木陰の食堂で、路上の風景を眺めながら、ビールを飲み、タイとミャンマーの抗争の歴史を思い出す。軍事的には、つねにミャンマーが優勢であったようだ。チェンマイもアユタヤも、何度もミャンマー軍に制圧されている。そういう眼で、スカート姿のミャンマーの男を眺めると、この地の男のほうが、実際に精悍な印象である。タイの工事現場は、不法入国のミャンマー人労働者ばかりとか。タイの男は肉体労働をきらうが、ミャンマー人は黙々と働くのである。国境警備隊の将校も、じつにきびきびした男ぶりだった。だが、同様に上部座仏教国であり、街を僧侶が歩き、街の人は僧侶に道をゆずり、手をあわせ、膝をつく。タイの田舎と同様に、古い時間が流れているのも感じる。
道にまかせて、歩きつづける。やがて家がつき、山道となる。左手は崖がつづき、急流が流れる。トラックのすれ違えない山道である。旅の目的の一つに、中国の昆明からタチレク、メーサイを南下してバンコクに通じる予定の東北経済回廊、南北経済回廊を見ることがあった。このルートが開通すれば、地域は一変するだろう。その前に古いミャンマーを見ておこうというつもりだった。旅ゆけば、ところ変われば。異郷の、だれもいない植生のちがう山道を歩き続ける。一度、タイから中国の茶の産地プーアルまで歩いてみたいと思う。歩くほどに、山はますます険しく、流れはさらに急流になる。前にも後ろにも人はいない。犬のように歩きつづける。