わたしは、いわゆる団塊世代です。といっても、山陰の田舎の育ちですので、すこし都市の同世代とはズレがあるようです。中学校の同級生のかなりが、集団就職列車で大阪に送り込まれる。そんな時代です。そういえば、小学校の頃に、日本のチベット、岩手県の貧しい子供たちに物をおくるというのが、学校行事としてありました。もとよりわたしたちも山陰の田舎の子供であり、そのようなゆとりなどありませんが、学校からのことであり、親が古着とか、そのようなものを用意し、出した記憶があります。成人して、岩手の男に、酒席で、お前は俺の古着を着たのではないかというと、とうぜんに腹を立てました。そこで、ふたりで、当時の岩手と山陰の生活、物の状態、食べたおやつやその他の比較表をつくりました。結果は、わたしのほうがひどいじゃないか、というお話。だが、その後の友人たちの傾向を見ると、都市部そだちの人間より、山陰・東北の不器用な人のほうに、心に通底するものを感じ、感覚的に親しみを感じます。ともかく、ガラス窓から隙間風の入る家で暑い夏と寒い、寒い冬をすごしました。あれからずいぶんと時間もたち、半世紀以上過ぎ、馬齢を重ねて、かなり泥水もすすり、タイムカードも百何十枚も押し、銀行に頭をさげて、融資返済と子供の教育に頭を抱え、ガンマジーテーピーに一喜一憂し、労働裁判に引きずり出され、契約違反の取引先から債務不存在の訴訟を起こされ、御社弊社などという言葉も乱発し、果てにはリアップも毎朝するようになり、それやこれやで、あれやこれやで、今は、いっそ東南アジアのどこかの海岸で、貸しボートの番人として雇ってもらえないかと思っています。パンツ一枚でひがな過ごし、ファランの旦那様にお愛想をして時折チップをいただく。食事は自分でつくります。御飯一膳と魚汁一椀で十分です。ボートは徹底的に磨き上げます。木陰で、お客様のこられるのをいつまでも陽の暮れるまで待ちます。現地のオーナー様が、食べれるだけでよいから最低限のお銭と、寝るだけでよいから雨露のしのげる小屋を与えていただければですが。
わたしは島根県の田舎でそだちました。もう半世紀も前、わたしは小学生でした。ガスも水道もない時代です。春の田植え、秋の稲刈りの季節には、農繁期休校といい、小学校が休みになりました。子供も老人も田に出て働くのです。毎日のご飯は、かまどで藁で炊きます。夕方は、どの家からも夕餉の煙があがっていました。でも、それは子供の仕事でした。薪と違い、藁炊きの場合は、燃焼速度が非常に速いので、つねに誰かが、火の番をするのです。当時は子供は重要な家庭労働力でした。こんな程度は、大人のする仕事ではありません。藁の火がめらめら燃えるのを見ながら、半世紀前のあの子供は、燃えるかまどの前に座り込み、本に夢中になっていました。時折、藁たばをかまどにくべます。かまどの中は火が燃え盛っています。その灯りで読書に夢中でした。炎のあげる音と、燃える藁のはじけるパチバチという音が間断なくつづきます。顔は火の熱でほてっていました。することもない単調な田舎の小学生の日々でしたが、本の中には、さまざまな冒険や怪奇がありました。世界があり、宇宙がありました。空想癖だけが発達しました。もちろん、その空想の世界でわたしは抜群無敵のヒーローでした。勉強はあまりしませんでしたが、ずいぶんと本だけは読みました。貸本屋や学校の図書館ではあきたらず、市立図書館にも通いました。単純な時代の、単純な懐かしい日々です。当時の冬は、いつも家のまわりに雪が何十センチか積もっていましたが、今は1センチも積もりません。
こんなところで、こんなことを書いても、べつに読者など期待も必要もしていません。無用です。 むかしは日記を書いたこともありますが、今は、もう書きません。でも振り返ってみると、日記を書いていたのは、ひとりで話し相手もいない時期だったようです。そこで、誰も読まないことを前提に、このような形で、日記がわりがしたいだけです。読者などいません。わたしだけです。ナバコフの「記憶よ語れ」のようなものです。
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