さて「金融緩和」のお勉強の読書日記第二弾である。論者は、BNPパリバ証券チーフエコノミストの河野龍太郎氏。証券会社のエコノミストとして機関投資家にアドバイスするのが仕事である。株は上がろうが、下がろうが、動くことで儲かるのであり、証券会社の立場からすれば動きを促進してくれる金融緩和を、なぜか氏はつよく否定する。
その要旨は、4月のエコノミスト誌での氏の発言をすこし整理していたので、以下、その論理をならべてみる。
量的緩和論は、マネーと物価が比例関係(逆数)にあるという貨幣数量説が前提である。
だが、ゼロ金利の下では前提そのものが成立していない。マネーを増やしても物価がどう変化するのは、何も説明されていない。昨夏以降、アメリカの中央銀行関係者の間でも量的緩和は理論的にも実証的にも効果は乏しいという意見が増えた。オールドタイプのマネタリスト的政策が日本で発動されたのは、本当に驚きだ。
黒田日銀総裁は、国債購入量や資金供給量であるマネタリーベースを2倍に拡大することを決定したが、2倍の理論的根拠は存在しない。単に、大胆な金融緩和をやるぞと、政治家や国民にわかりやすく伝えることを狙っただけであろう。
「期待」に働きかけるというマクロ経済学の発想は、検証はされていない。株が上がるとみんなが思っているうちは株が上がるという程度の発想である。政策レベルとすべきではない。
日銀は10月に2015年度の経済・物価見通しを出す予定だが、ここで2%インフレが見通せないということになれば、さらに強力な金融緩和を打ち出さざるを得なくなる。資産価格の一段の上昇を招くだろうが、実態が伴わないため、いずれ大きな調整局面を迎える。日本経済を著しく不安定にし、本末転倒である。また、大胆な緩和がコントロールできない円安加速をもたらさないか心配である。
さらなる金融緩和は封印し、政府が潜在的成長率(中長期的に持続可能な経済成長)を高めるべく成長戦略を推進することが必要だ。潜在成長率が上昇すれば、資本収益率(利益率)が高まり、伝統的な金融緩和の効果も復活する。それが本筋。
大量の国際を保有することになった日銀は、必然的に国債管理政策が組み込まれる。将来、インフレ率が上がり、物価安定の視点から見れば、利上げが必要になっても、財政への配慮から、利上げや国債売却は困難だろう。
長期金利が上がれば、利払い費が雪だるま式に増え、国の借金が発散をはじめるからだ。
また国債を大量購入する金融機関は、国際価格が下落すると資本が棄損し、金融システムが動揺する。金融システム危機を避けるために、日銀は結局、物価安定を犠牲にせざるを得なくなる。この時、インフレターゲットは機能しないだろう。
黒田総裁は、財政規律は政府、国会の責任という。確かにそうだが、日銀の積極緩和で金利を低く抑えつけていることが、財政規律との弛緩につながっていないか、心配だ。安部政権は、信頼に足る財政健全化策を早期に打ち出すべきだ。
日銀の大量購入で、国債市場の流動性が著しく枯渇した。一国の金融システムの根幹である国債金利の体系に大きな歪みが発生したことが認識されていない。株高で喜ぶ人が多いが、取り返しのつかない失敗を犯した可能性がある。
つまり氏によれば、今回の安部政権の金融緩和政策は、「取り返しのつかいない失敗の可能性がある」とのこととなる。実は、わたしもそう思う。直感的に、日本は黒田リスク、岩田リスクを背負ったと感じているが、それは安部リスクなのである。本来経済にまるでうとく、大先輩である小沢一郎氏が彼は頭が悪いと評する安部氏であるが、最近の株高、円安で、自分でも信じられないのだろう、テレビで見ても高揚状態が顔にあらわれている。
しかし、私見だが、この3月の日銀短観では、大企業・全産業の設備投資計画はマイナス2%だった。株などの資産市場で利食いしている投資家たちとは違い、モノ市場での企業経営者の景況感は、そう楽観的ではない。すぐに出るであろう企業決算においても、保守的な見通しを堅持する企業が多かろうと予測されている。ミニバブルに浮かれる投資家も「期待と現実の乖離」に直面させられる。今の株高は、実体経済とは乖離しているから当然である。わたしは、やはり「野口説」をとる。株を買っているのは外資であると言われており、売り逃げして設けるのも外資であろう。外国人による短期の利食いなのであり、それを実体経済の成長による株高のように語り、成果を誇るのは、これは乗数効果という言葉をしらなかった民主党の管首相と同列である。
さて、新刊「金融緩和の罠」の第二章である。論者は証券会社のエコノミスト、つまり資産市場の現場を知っているはずの河野龍太郎氏である。題して「積極緩和の長期化がもたらす副作用」とされている。以下、個人的お勉強のために、要約ノートをつくる。
どんな時でも金融緩和をしてはならないとは考えていない。金融危機が起こった直後などは、大胆な金融緩和が必要になる。いまの日本の状況は、リーマン・ショックのような大きな危機に直面しているわけではない。ダラダラと低成長がつづき、デフレが長引いているのは事実だが、金融危機のときのように急激におきるショックへの対症療法が必要かといえば、そうではない。日本経済の問題は、もっと構造的なものである。金融緩和を進めても、これ以上、日本経済が抱える病理は解決しない。むしろ悪化させるリスクもある。
日本経済の病理は、端的に言えば、低成長の原因は、人口動態である。それを認識した上での構造改革や社会制度の構築が行われていないことが問題なのである。
いま日本では少子高齢化が進み、生産年齢人口が減っている。すなわち消費意欲の高い人口が減少するのであるから、それは個人消費の落ち込みにつながる。そこから内需の不振がはじまり、それで、経済全体が縮小するという展開となる。所得をかせぐ労働力人口が減ることにより、需要の縮小があっただけでなく、「日本経済の実力そのものが落ちた」時に、貨幣供給量を増やすことで何が改善できるのか、むしろ逆効果ではないかとの疑問がある。(ここまでは、第一章の藻谷氏と同じようである。人口ボーナス期から人口オーナス期に移遷した日本で、旧態の発想、意識のパラダイムで、たえず変化する現実をとらえられるかという思考であろう。両氏とも、その時期を90年代前半とする)
その切り口として、企業の設備投資を考えてみる。生産年齢人口にしても、労働力の規模と見れば供給側(サプライサイド)の要素だが、個人消費の主体の規模とみれば需要側(デマンドサイド)になる。世の中には、「需要に関係なく、供給力を強化すれば経済成長が達成できる」と主張するサプライサイド経済学というものがあるが、ここで考えたいのは「需要としての設備投資」である。出発点は、あくまで需要である。供給構造に問題があるときも、現象としては需要に問題が出てくるのである。
グラフにして、生産年齢人口と設備投資の関係を見てみると、二本の折れ線は、低下傾向がつづき、1990年代後半には、ゼロを切ってマイナスに転じている。同様に、企業の設備投資のグラフも同じパターンを描き、生産年齢人口と軌を一にして鈍化している。企業が向上の建設や生産設備の導入を抑制している。この二つの折れ線がほぼ並行して推移している。
生産年齢人口の減少が個人消費の現象につながり、それを見越した企業が設備投資をしなくなるというメカニズムだけでなく、やはり人口動態が問題となる。それは個人の需要(個人消費)にも影響するが、企業の支出(設備投資)にも、直接的な影響を与える。過去の論では、設備投資は労働力人口に関係なく、ある程度キープされると考えられていた。生産性の向上とイノベーションが経済を牽引すると考えられていた。だが、そうではなかった。
1990年代、2000年代と、労働力人口の増加がとまった後は、設備投資もどんどん下がっている。つまり、労働力人口の減少は、必然的に成長率の低下をもたらす。少子高齢化が進んだ結果として、日本の潜在成長力は低下し、低成長時代に突入したのである。その潜在成長力が、「日本経済の実力」なのである。
①生産年齢人口が減少→個人消費が減少→企業が設備投資を控える
②生産年齢人口の減少→労働力人口の減少→企業の持つ工場やオフィスのような資本に余剰→企業の設備投資需要が減少
企業の資本収益性が低下するから、企業の需要である設備投資が減り、経済全体の需要が落ち込んで、供給過剰からデフレとなる。それが今日本でダラダラつづいているデフレの原因である。生産年齢人口の減少による需要の現象こそが問題である。それを金融緩和論者の思考のように、それを救急側の減少と読み違えて、緩和すればインフレが起こるはずだとか、設備投資が増加するはずだというのは、間違った見込みである。
不動産バブルは、人口ボーナス期の最後に起こる現象である。日本の青年年齢人口の割合が、増加から減少に転じたのは、1990年代初期であった。この時、不動産バブルが起こった。アメリカやアイルランド、スペインの生産年齢人口のピークは2005年前後に来ている。なにが起こったか?アメリカでは2007年にサブプライムローン問題が表面化し、2008年にリーマン・ショックへと発展した。アイルランドもスペインも、2007年までに不動産バブルがおきており、その後のバブル崩壊がソブリン問題という国債の信用不安へと尾を引いた。
各国で起きた不動産バブルもの時期も、人口動態の変化と関連していると見るべきである。人口ボーナス期には、企業経営者は資本ストックを増やそうと設備投資を行う。企業は借り入れをしてでも設備投資をするが、それでもこの時期は、投資をすればそれだけ利益がでる、というムードが支配的となる。大投資ブームが起こる。
ところが、人口ボーナス期が終わりに近づくと、投資といっても、本当に収益性の高い投資プロジェクトは、ほとんどやり尽くされている。だがブームは続いており、目の前で不動産価格がどんどん上昇している。いわゆる「期待」である。いつの間にか、不動産価格が上昇を続け、採算のとれない投資プロジェクトばかりが行われるようになる。それが人口オーナス期に入った瞬間、設備投資の抑制がはじまり、価格を吊り上げていた投資ブームが一気に冷める。バブルの崩壊である。そうやってバブルが崩壊し、企業は大量の過剰債務や過剰ストックを抱え、銀行の不良債権は膨張した。
この段階になって初めて、人口動態が真の原因だと気づく人たちが現れたという流れとなる。だが、まだ日本という国が、人口動態によって構造的な低成長時代に入ったことを認識できない人がたくさんいる。
それゆえに、今の金融緩和政策には反対である。たしかに金融危機の時に大胆な金融緩和を行うことには、一定の効果がある。ゼロ金利政策や量的緩和といった極端な金融政策は、危機時の緊急対策としては有効である。金融システムに対する不安感が高まると、金融機関の行動が極端に萎縮し、信用収縮がおこり、実体経済に影響を及ぼす。これは防ぐためには、中央銀行が大量の流動性を供給し、金融システムの動揺を抑えることは重要である。
だが、構造的な低成長(第三章で小野氏は、これを不況の定常化という)になった今では、問題の本質と状況が違う。現在の日本の低成長は、金融危機が原因ではない。病気が違うから、処方箋も違うのである。だが日本は一本やりで、金融危機等の非常時につかう極端な金融政策を長期化・固定化させてしまった。それによって中央銀行は、実体経済に影響を与える力を失った(氏の言うこれは、日銀のゼロ金利政策で、日銀は金利操作による影響力を自ら捨てたとの意味であろう。ゼロであるから、もう金利は下げられないし、無制限に国債を買い込むのが日銀の方針であり、金利を上げれば、その時は国債の利払い費の額により死活的というより殺人的ダメージ、日銀と政府の一蓮托生的な破産というダメージを与えるという趣旨であろう。その場合は、その負担を国民に押し付けることにより、日銀と政府は生き残り、負債を消しこむしかないが、大火事になる。つまり日銀は、もう手段的に手詰まりであると氏は言うのであろう)うえ、さまざまな弊害、副作用がすでに起きている。これ以上の金融緩和は必要ない。必要ないどころか、やっても悪影響ばかりであろう。
いま日銀は、ゼロ金利政策を行うと同時には、国債を大量購入している。だが、ゼロ金利政策とは、金利ゼロで金融市場から資金調達ができるということである。普通に考えれば、資本コストが安のであるから、リスクを取ってこの資金を成長分野に貸し出していこう、となるはずである。ところが、日銀が国債の金利を低く抑えようとしている。国債の価格は金利が下がると上昇するから、金利が上がれば利払いにくるしむことになり、日銀は国債を買い入れて、値段を高い水準に、つまり国債の金利を低い水準に維持していこうとする。すると金融機関とすれば、成長企業を掘り起こすようにリスクをとるより、日銀が価格を維持してくれる国債を買ったほうが有利だ、となる。結果として、民間の企業には融資が行われないことになる。金融機関の本来の役割は、成長分野を発掘し、リスクをとって貸し出しをすること、それにより産業を活性化し日本経済を維持することである。この機能が、ゼロ金利政策や国債購入政策で長期化・固定化されて損なわれてしまっている。
(河原氏のこの分析は、この図書「金融危機の罠」の執筆が、昨年の12月であり、以後のアベノミクス、日銀総裁の路線変更および新金融政策以前の知見であり、その意味で先進的であり、要点をついていると思われる。ただ、今年の4月に、黒田新総裁は、日銀による国債の大量購入の方針を打ち出しており、国債市場から銀行を追い出す施策をとっている。新規発行額の7割を日銀が買い取る。金融機関は民間への貸し出しより、国債を買うという楽な運用をつづけており、産業金融の役割を放棄していた側面もある。畑を焼き払って、虫を追い出すようにものであるが、これに関しては、黒田総裁のグッジョブである。しかし長期的には、こうして購入した膨大な国債の利子をどうするか、出口をどうするかは、これは難しすぎるだろう。国債はある意味、将来の国民所得の先取りである。昔の会社は給料の前借りをさせてくれたが、前借りはよくない。つぎの月が、思い切りつらいと経験者は思う。まして机上の経済理論がどうであろうと、できれば国が前借りしてはいけない。長期的には、甚大な悪影響が予測されるが、さてどうなるか。また日銀が無条件に発行国債の7割を買うような事態は、これは中央銀行による財政ファイナンス、政府の赤字補填であり、政府の財政規律をみだし、後先のない放漫財政、政府運営になる。つまり「つけを孫に押し付ける」政策が延々とつづけられることになる。ゼロ金利政策がつづく限りは、政府は財政赤字の危機感をもたずに国債を発行できるが、金利上昇局面ではどうするのか。とうぜんにいつか破断界がくるはずであると、老人ホーム業者でも考える)
現在のデフレと低成長は、人口動態という基底的な現象によって発生していることにあり、その状況を認識しないで極端な金融政策をつづけていることには百害あって一利がない。だが、政治の世界では、人口動態に応じた本質的な構造改革は議論されず、「もっと財政政策を、もっと金融緩和を」といっている。これは民主主義の宿命的な問題ではないかと思う。
そもそも代議制民主主義は、産業革命がおこって、どんどん社会が豊かになっていくとき発達した利益分配のためのシステムである。政治の役割は、成長の果実である税収をどう分けるか、どのように「利益を配分」するかを議論することにあった。だから議会には、自分たちのところに利益をよこせといった代表が送り込まれてきた。
ところが、生産年齢人口の減少が始まって、税収が伸び悩むようになると、こんどは給付の削減や負担の分担をせねばならなくなった。これは選挙による代議制民主主義のもっとも苦手とする部分である。いまの日本の財政制度や社会保障制度、たとえば年金制度も、これは人口増加を前提として成り立つように作られている。これらが作られたのは、経済が10%近くもあった高度成長期の終わりの頃、1972年、1973年あたり、田中角栄に代表される時代である。その頃は、高度成長で膨張したパイをどう分配するかが財政政策の主要な関心事だった。
だが、いつまでも10%の成長率を前提としたシステムのままで、うまくいくはずがない。生産年齢人口の減少と低成長時代(第一章・第三章論者も同見解)に対応した制度をつくれ、という当たり前のことがなされなかった。
生産年齢人口が減り、高齢者が増えれば、働いて税を支払う人の割合が減る。国民全体の担税能力はす必然的に低下する。この現実を前にすると、増税を求めるなり、社会保障給付の削減を選挙民に求めるしかない。だが給付削減はおもに高齢者が対象となる。彼らは選挙の票田である。立候補者は、決してそんなことは言えない。どうしても人口オーナスによるパイ縮小の時代に入ったこと自体を認めない姿勢になる。「日本経済の実力は低下していない。景気が回復しないのは財政・金融政策が足りないからだ、日銀のせいだ」となる。まさに、「負担の分配」が苦手な民主主義の宿命である。
そもそも政府には恒常的・継続的に成長率を高める能力はない。日本政府にかぎらず、多くの政府にない。政府が経済政策として行う財政・金融政策は、いまの日本ではなにか本質的には経済を動かしていけるものであるかのように扱われている。だが、そうした財政・金融政策は、それ自体で新しい付加価値を生み出すものではない。財政・金融政策の本質とは「財政政策は所得の前借りであり、金融政策は需要の前倒しである」ということである。
つまり、国が財政政策をおこなうときは、国債という国民からの借金を元手(国民が直接買うか銀行預金する→銀行が国債を買う→それを国が使う)に、公共投資を行ったり、減税や補助金を通じて間接的に消費や設備投資を増やそうとするが、この借金は将来国民が得た所得(将来の税収)から返済しなければならない。返せば、プラス・マイナス・ゼロである。天からお金が降ってくるわけではないのである。だから、財政出動して一時的に景気が上向いたように見えても、それは本質的には何の価値も生み出しておらず、ただ「将来の国民の所得を前借り」しているだけである。
金融緩和政策も前借り的な側面がある。たとえば「来年、車を買おう」という人たちがいたとする。金融政策により金利が下がると、借金がしやすくなるので「それなら今年、買おう」とする人もいる。ただ、この人は一年早めて買っただけであるから、来年になると、もう車を買ったりはしない。本来は来年にあるはずの需要を前倒ししただけである。需要は増えてはいない。金融緩和では、デフレは脱却できないのである。
もちろん政府にも関与できる部分がある。それは民間部門の自由な経済活動を可能にし、現場での創意工夫を発揮させ、生産性を上げさせていくことに尽きる。政府にできるのは、みずからの活動領域を縮小すること。つまり規制緩和で民間にまかせることである。
人口動態によって決定的に政治の役割が変わったにもかかわらず、政治家には負担の分配ができない。民主主義の弱点である。その弱点が、少子高齢化によって潜在的成長率や担税力が低下しいている現実から目を背けさせ、一時しのぎの策でしかない極端な財政・金融政策を続けさせている。また個人も企業も「将来不安」から消費を抑制している。現役世代は、年金などの社会保障制度の持続可能性を疑っている。若者は、どうせ自分は年金をもらえないだろう、日本は借金まみれで、いくら働いても将来はどうせ大幅増税されるだろう、と思っている。その結果、消費を抑制する。企業はそれを見て、投資を抑制する。家計と企業が、お金を使うのをやめるのである。
現在、株高が続いている。すでにバブルのプロセスがはじまっているかも知れない。いずれ長期金利が上昇する。長期金利が大きく上昇することになれば、公的債務残高がいまやGDPの二倍までに膨れ上がっているため、利払い費が急激に膨らむ。財政が危機的状況に陥るのを防ぐため、日銀によるファイナンスが進むことになるだろう。財政の赤字を補填するため、日銀が国債の購入をさらに増やしていくことになる。これは事実上のマネタリゼーションである。
株高などのバブルが崩壊すれば、人々は日本の潜在成長率がマイナスの領域に入っていることを認識し、将来の税収で公的債務が返済されないと考え、財政破綻懸念から長期金利の上昇がはじまる可能性がある。あるいは、政府は円安誘導を続けているが、円安が進むことで、輸入インフレが上昇し、金融市場のインフレ予想を高め、長期金利が上昇することも考えられる。
そのとき日銀は、①物価安定の視点に立てば、2%を超えるインフレの加速を回避するため、継続的に利上げする必要がある。物価上昇の熱を冷ますためには、つまり日銀は政策金利を引き上げなくてはならない。
しかし、②そのことは、長期金利の急激な上昇、つまり、国債価格の急落をもたらす恐れがある。大量に国債を購入している銀行とすれば、国債価格の下落は、損失の発生であり、自己資本が目減りする。金融機関の経営を揺るがすことになり、日本の金融システムを動揺させる。その場合に、日銀はさらに国債を購入し、国債の価格を高く買い支えせざるを得ない。
日銀が、①物価を安定させながら、②他方で、国債を買い支えることは、両立し得ないのである。国債管理制度に強く組み込まれた日銀は、①物価を安定させることと、②金融システムを安定させることの、両方を目指すことは難しいのである。①②は、トレードオフである。
このジレンマに陥ったとき、日銀は①物価の安定より、②金融システムの安定化を選ばざるを得ないだろう。金利が上がりはじめれば、物価の安定か、金融システムの安定化の、いずれかを犠牲にせざるを得ない、地獄の道を進むことになる。これが中央銀行ファイナンスによる追加財政政策、マネタリゼーションのいくつく道である。
長期金利上昇と円安進展の負のスパイラルが生じ、最悪の場合は、財政危機、金融システムの動揺、資本逃避が同時に訪れる可能性がある。ひとたびそのような危機に襲われたら、一般市民の生活もただではすまない。再び立ち上がることが非常に困難なような、何年にもわたって市民生活に影響を与えつづける深刻な危機になるだろう。
いくらマクロ経済学が発達し、マクロ経済政策の技術が進歩したからといっても、マクロ経済に対する私たちの理解や知識は、依然として限定的(つまり、あれはいい加減なものであるとの趣旨か)である。政策効果が大きいとすれば、それは劇薬なのであり、大きな副作用があるはずである。さらに難しいことに、どのような副作用がどの段階で現れるか、極めて不確実である。不確実性(誰にも分からない)に対抗するには、安定性を主眼においた政策をとるしかないのだが、その逆の道を進んでいこうとするのがアベノミクスである。
政策を決定する際には、少なくとも社会やマクロ経済に取り返しのつかない悪影響を与えない、という慎重な姿勢が必要である。裁量的なマクロ経済政策が万能と考えることの危険性、進歩主義的な介入主義への過度の信頼に対する反省(この部分は、アメリカ・ヨーロッパの金融危機に際して、マクロ経済学者への信頼は著しく低下したとされることを指しているのか)が、わずか数年前に起こった世界的金融危機から得られた教訓だったはずである。
日本は、同じ過ちをまた繰り返すのだろうか。本当に心配である。
以上、河野氏の要旨である。論旨にもデータにも矛盾はなく、十分に納得できる。アベノミクスは、それを主導する経済学者が「やってみなければわからない」と標榜する、つまり、ある意味では丁半博打である。だが、本書で藻谷氏、河野氏、そして第三章の小野氏も指摘するように、日本のマクロ経済学(日系シカゴ派か)の現状は人口動態の変化など考慮せずに、パイの縮小、低成長は理由のあることであるとの認識なしに、たんなる「貨幣現象」であるとして、いまだ高度成長が可能だとの前提にたっている。その日本経済認識の前提がすでに間違っている。したがって、間違った前提から導きだされる「解」は、とうぜんに間違いである。とすれば、それは河野氏も、さぞや心配なことだろう。それが、4月のエコノミスト誌での「取り返しのつかいない失敗の可能性がある」という言葉として表出されたわけであるか。
コーラン「食卓編」に曰く。「知持てる者、幸いなるかな、汝、指導者なり」真理である。