わたしの読書ビヘイビアの経路は、興味あるテーマの図書を徹底的に自分で探す、お気に入りの著者をつくる、それらの図書で評価・引用されている図書をもとめるの三つである。芋づる式とでもいうか。ミスター円と称される榊原英資氏は、ベンチマークしている一人であり、その著書『安部政権でこうなる日本経済』で水野和夫氏の『金融大崩壊』『世界経済の大潮流』での見解を高く評価している。「水野氏のビジョンは数百年の世界の歴史を踏まえた壮大なものですが、筆者もこの見方を強く支持しています。近代資本主義が終局に入り、経済は無極化、あるいは不安定化していくのです」と述べる。では、読まねばなるまい。
松尾芭蕉に「街道の一筋も知らずに歌をよむな」という趣旨の言葉を昔、どこかで読んだ記憶があるが、水野氏は、UFJモルガン・スタンレー証券のチーフエコノミストから埼玉大学の大学院教授という経歴である。この経歴は、わたしにとっては評点が高い。ずっと教師だけをしていた大学経済学教授の意見や受け外国の研究者の売りは、もうさすがにアホらしくて読めないからである。たとえば、今の日銀の岩田副総裁のようなレッスンプロ達である。わたしの音楽家の知人の娘さんが、桐朋大学だったかのピアノ科を出て、ドイツ留学。二十年前くらいにスイスの国際コンクールだ一位なしの二位になった。以後、ドイツ政府の芸術家支援金をもらいながら、世界でピアノリサイタルを開いている。日本では音大の教授が上位の先生として扱われるが、欧米ではそうではないそうである。演奏家でないとピアニストとして評価されないらしい。ゴルフの世界でも、プロとしての勝負をするツアープロとゴルフ練習場のレッスンプロは、ゴルフのプロでもまったく別種なのである。
ATプラスという雑誌をよく買うが、水野氏はそこの常連筆者である。その説に納得することが多かったが、そうか、ミスター円もそう感じていたのかと、ひとりで納得する。今の、とくに日本の経済学者の弱点は、学校で経済を学び、というより経済しか学んでおらず、それ以外の知識に欠けており、さらに松尾芭蕉的に言えば「街道の一筋も知らない」ところであろう。
経済を語る図書で、歴史や人類・文明まで語れる著者はすくない。ほとんどが「何々屋さん」であり、生涯一捕手のような人間ばかりである。だかケインズも哲学や歴史学を相当に深くおさめている。マックス・ウェーバーもそうであり、専門への考察の裏には、そのような史学の深い素養と他分野への教養がある。水野和夫は、ウォーラースティンなどの理論を援用し、「歴史における危機」こそ、時代の転換期に他ならないとし、資本主義の限界を、現在進行している「利子率革命」「貨幣革命」「価格革命」「賃金革命」の中に読み取っていこうとする。また、どの著書においても、実体経済の数倍になるマネー経済、マネー資本主義の暴走を注目している。そして「二十一世紀の利子率革命」をとこうとする。
「利子率革命」とは、2%以下の超低金利が長期間続く状況をいうが、金利は資本利潤率を反映する。つまり「利子率」とは、いわゆる実物投資のリターンを表している。利子率が2%以下になるということは、資本家が資本投資して工場やオフィスビルをつくっても、得られる利益が年率換算で2%以下になるということである。このような利潤率が著しく低い状態が長期化することは、企業が経済活動をしていくうえで必要最低限の蓄積が出来ないということであり、言葉をかえれば、このような超低金利のもとでは、投資機会がもう無いということである。資本を投資し、収益を得るという資本主義の骨組みが成り立たないということになる。そして日本では、10年国債の利回りが1997年9月に2%を切って以降、2012年で16年目に突入した。これは、古代ローマ帝国と16世紀初頭のイタリア・ジェノバを上回る人類史上最高の記録となるそうである。
「利子率革命」の背後には、投資が行き渡った結果、実物投資で利潤が上がらなくなり、これを打開するために金融化が推し測られ、レバレッジという錬金術で巨額の金融資産が生み出された。日本は戦後60年間で実物経済のレベルで1500兆円の金融資産をつくったが、レバレッジ空間では、金融帝国化した米国を中心として、1995年から2008年までのたった13年間で、100兆ドル(1京円)の資産が生み出された。株式交換で企業買収ができるようになったため、株式は貨幣となっていたと水野氏は見る。この「疑似貨幣」の登場が「貨幣革命」とされるものだ。これがリーマンショックやサブプライム問題に原因であり、マネー資本主義の暴走となる。
また「価格革命」とは、従来には見られない基礎的な資源の非連続な高騰のことをいう。原油価格は、第1次石油危機から2002年末までの約30年間、第2次石油危機やイラン・イラク戦争などによる供給ショックで一時的に高騰したものの、下限13・6ドルから上限29・3ドルのレンジで推移していた。しかし、2003年に入ると、供給ショックが起きていないにもかかわらず、従来の上限を超えて上昇していき、2008年7月には一時、1バレル=147ドルをつけた。その後、100ドル以下に下がったものの、20ドル代に戻る気配はない。これは、原油需要が先進国の10億人から新興国も含めた60億人へと拡大したことが要因とされ、今後、食糧などでも「価格革命」が起こる可能性がある。
この「価格革命」で資源価格が上がって交易条件が悪化すると、企業はその利潤の減少分を、労働分配率を減らすことで補おうとする。つまり賃下げである。交易条件とは、どれだけ効率よく貿易ができているのかをあらわす指標をいう。例えば、資源を安く手に入れて効率的に生産した製品を高い値段で輸出すれば儲かるが、逆に、高い値段で資源を手に入れた場合は、製品に価格転嫁できなければ儲けは薄くなる。つまり、「価格革命」に伴う資源価格の高騰で企業の利潤が減った結果、労働者の所得が下がり続ける状況が生じるようになった。これが「賃金革命」と呼ばれるものだ。日本では、1960年代に匹敵するような世界同時好況が実現した2002年以降、「いざなぎ景気」を超える長期景気拡大下でも、中小企業・非製造業はマイナス成長から脱却できず、労働者の所得は増えなかった。
欧州債務危機も、元はギリシャ一国の財政問題だったものがいつしか欧州全体の問題として扱われるようになり、果ては世界経済の行方さえ左右しかねない状況に追い込まれている。2008年の金融危機に続く事態に、世界の不確実性は高まっていく一方であり、この危機の連鎖と不可逆的な趨勢の原因を、水野氏は「歴史における危機」と「資本主義の大転換」にみる。ヤーコブ・ブルクハルトが19世紀半ばに指摘した「歴史における危機」が、1世紀を経て、この40年間で進行していると見るのである。1970年代に起きたニクソン・ショックと2度の石油危機、1980年代のプラザ合意とブラックマンデー、次いで1990年に日本で土地・株式バブルが弾け、94年のメキシコ危機、97年のアジア危機、98年のロシア危機と続き、同じ頃に日本では銀行・証券会社の経営破綻が相次いだ。その後、2000年に米国でインターネットバブルの崩壊を迎え、07年のパリバ・ショックを契機として08年に金融危機が起き、ギリシャの財政問題に端を発して10年に欧州債務危機が生じた。
影響は経済に止まらず、世界構造の変化にも及んだ。1989年のベルリンの壁崩壊、1991年のソビエト連邦解体、95年のオウム真理教による地下鉄サリン事件、そして、2001年に米ニューヨーク同時多発テロが発生した。1979年のチェルノブイリ原発事故で科学技術文明にも危機が訪れ、2011年の福島第一原発事故をもって「安全神話」は崩壊している。
水野氏の論の背景にはカール・シュミットやホイジンガをふまえて文明論的なところがある。水野氏のように、歴史哲学や社会理論などを援用して経済の長期停滞論を唱えてるというような立ち位置は、日本文化における専門家とは「何々屋さん」であり、生涯一捕手のような人間ばかりであり、そんなもんだとされることから、リフレ派の経済学者やエコノミストに「あいつは経済学を知らない」などと揶揄されているという。しかし、「グローバル化は政治・経済・社会のすべてを根本的に変える総合的なプロセスであり、その分析には経済学だけでなく政治学、社会学、文学など学際的なアプローチが不可欠である」と水野氏は述べる。じつにその通りである。今のリフレ派の経済学者やエコノミストの書くものを読むと「物価は貨幣量の逆数だ」とか、プロイセンのメッケル参謀少佐に教わった日露戦争の戦術論をいっさい変更せずに第二次大戦をたたかった日本陸軍のようなものである。それだけでもアベノミクスの先ゆきは恐ろしい。「『近代』自身が『反近代』をつくりだす」(テオドール・アドルノ)―近代とは、技術進歩によって経済成長をするということを皆が信じて疑うことがなかった時代を指すが、無限のエネルギーを創出せんとしてつくられた原発で事故が起きたことこそ、近代の終焉に他ならないとする。400年かけて近代化を図った欧州に対し、100年という短期間で近代化を達成した日本で起きたことが何より象徴的である。17世紀にデカルトやベーコンらが成し遂げた科学革命により「自然の征服」を可能としたかに見えたが、それは人類の奢りに過ぎなかったと考えるのだ。
社会学者である大澤真幸氏との対談集「資本主義の謎」で、水野氏は持論の「利子率革命」を以下のように語る。
「資本主義の成立を、何をもって規定するかという点で、私も利子率が最も重要な指標だと思います。利子は資本の提供者から見れば、利潤蓄積そのものです」
「利子率革命というのは、その国が資本を過剰なまでに蓄積したから起きるという点が重要なのです」
「近代社会において覇権国=超低利国となります・・資本を過剰に蒐集する国がまさに覇権国に他なりません。・・蒐集は必ず『過剰・飽満・過多』に行き着くということを経済学的事象で表せば『利子率革命』ということになります。過剰な資本は必ず、利子率の低下につながっていくのです」
「現在の『利子率革命』は・・蒐集の限界を示唆しているということです。9.15(リーマンショック)は、『電子・金融空間』における蒐集の限界を、ユーロ・ソブリン問題は、『領土空間』における蒐集の限界を、3.11による東電福島第一原発事故は、エネルギーコストについての限界費用一定の法則という先進国の特権を崩壊させたのです」と。
「なぜ、バブルが頻繁に起きるかといえば、新しい『実物投資空間』がなくなったからです。『実物投資空間』の膨張がインフレで、『電子・金融空間』の膨張がバブルです。つまり、インフレが生じなくなったから、バブルが繰り返し起き、バブル崩壊が同じだけ生じるのです。バブル崩壊でデフレが生じるのですから、そのデフレをインフレを起こして解消するというのは倒錯した議論です」
「利子率革命すなわち資本の低利潤化か長期化すると、過去の過剰資本に耐えられなくなって、具体的には働く人を貧しくすることでしか、資本を維持できなくなったのです。・・・米議会が非難したように、サブプライムローンは『略奪的貸付』だったのです」と。つまり、資本主義は投機的な方法や二極化=99%の貧困化をもってしか利潤を得られなくなっていると語る。
アベノミクスに対しては、「蒐集の時代は終わりつつあるのに、近代価値観に拘泥した『成長戦略』という竹槍で、ポスト蒐集の時代に立ち向かおうとしているのが今の日本です。近代的価値観を三つ集めて『三本の矢』と言っているようでは、先が知れています」と言う。「陳腐化しているとしか思えない『成長戦略』や規制緩和を未だに言い出す。あげくの果てに規制緩和の不徹底さゆえに、今の日本の低迷があると主張する」アベノミクスには、つよく批判的である。
つまり「二十一世紀の利子率革命」とは、「実物投資空間」では、すでに投資先がなく、為替・株等の国際市場であるバーチャルな「電子・金融空間」でマネー資本主義が暴走し、実体経済を破綻に追い込む「異次元」の世界ということである。ATプラス誌第16号で、水野氏は「実物投資空間」の膨張がインフレであり、「電子・金融空間」の膨張がバブルであると論じる。なるほど証券会社のチーフエコノミストの発想である。アベノミクスは、つまりインフレが生じなくなったから、バブルが繰り返し起き、バブル崩壊が同じだけ起きる。バブル崩壊でデフレが生じているのであり、そのデフレをインフレを起こして解消するとするのは「倒錯した議論」であると断じる。貨幣数量説は、国際資本の完全移動性が起きていない世界でしか成立しない。世界の金融資産は、実体経済の3倍にのぼる。そして実物経済は儲からない。現在のように国際資本が、1秒間に1000回もの取引がグローバルにできるような完全移動性をもってしまい、かつ世界の金融資産総額は200兆ドル、世界の名目GDPの合計が70兆ドルである。金融資産は実体の3倍になる。増加した金融資産は海外に資本流出するか株式市場、土地市場に流れる。実体経済はもうからないからである。昨年12月の日銀短観では、日本の全産業の平均的利益率は3%だった。これは多額の借金と労力を負担し、リスクを負いながら投資できる利益率ではない。メディチ家が、イタリアでの金利商売から、オランダの株式会社への投資に切り替えたように、これも「利子率革命」の結果ということになる。結論的には、もう成熟した日本では成長は有り得ない。成長とは後進国から中進国へ、中進国から先進国にタッチアップするときだけに生じる経済現象であり、すでに豊かであり、成熟した日本社会では、もう与件が存在しない。それより、成長しない幸福の道を探すべきだとする、のである。そいうことだろうな。十代の少年は毎年、背が伸びるが、六十代は背が縮むのである。それでよいのである。
そのとおりであろう。わたしは団塊の世代、日本の高度成長期に青年だった。あの頃の日本は、平均寿命が60歳を超えたばかりであり、平均年齢が28歳くらい。農村の子供たちが、都市の労働者として「蒐集」されていた時代であった。下宿は三畳であり、トイレと流しは共同である。欧米とくらべて、あらゆる意味で日本は後進国だった。いくらでも成長できたのである。小学校の給食費のかわりに、畑の野菜、米をもちこむ同級生もいた。学校も受け取っていた。つまり物々交換の時代から、貨幣経済にはいり、いまはバーチャルな擬似貨幣、電子経済の時代に入ったわけであるか。
ATプラス誌第16号で、水野氏はなぜ黒田新総裁を含めたリフレ派が馬鹿げた政策をするのかについて、貨幣数量説を誤解していると論じる。貨幣数量説は「流通貨幣量×流通速度=物価水準×取引量(実質GDP)」であるが、リフレ派の主張は、流通速度が一定だと仮定して、流通量を増やせば、二年をめどに右辺の物価水準か取引量のどちらか、もしくは両方上がるというものである。だが1990年以降、国際金融市場が整備されて、1000分の1秒で取引が可能になった。マネー空間での投資家は、供給力が二年後に限界になってインフレになることなど考えない。短期で売り買いして利益を確定しようとする。マネタリーベースを増やしても実体経済に投資先はないのであり、金融市場に、それも高速取引のできる電子・金融空間に流れるしかない。つまり流通速度が一定ではない。貨幣数量説の公式の右辺は、「物価水準×取引量(実質GDP)」ではなくて、「株価水準×株式の取引数量」が加わっており、しかも後者の規模が前者を圧倒していると述べる。NHKの「マネー革命」で世界の証券会社やファンドでは、ディーリングルールにたくさんのコンピューターが並び、秒単位ではげしく変化し、世界の取引所、銀行、ロイターなどの金融情報会社とつながり、それをホストコンピューターが売り買いを自動的に引き合わせ、そのネットの上で驚くべき金が動いていることを書いていたが、水野氏も元証券会社のエコノミストである。そのような現場で仕事をしていれば、巨大な金融資産の動く「電子・金融空間」について、世界のマネーの動きについて、身体感覚としてわかる部分もあるのだろう。
なにかの本で、冷戦までは核技術が世界を理解する中心だったが、冷戦後は、マネーが世界を理解する中心となった、との論があった。なるほど、わたしも水野氏のように、時代や歴史をマネーの動き、マネーの歴史としてみようとしているのかも知れない。たしかに、いま目の前で起きているのは「革命の時代」かも知れない。人の気づかないところで、革命がおこっているのである。