今日2013/06/15の日経新聞に「長期マネーの不在のもろさ」とする記事があった。今、日本の株式市場は波乱を繰り返している。相場の乱高下は投機マネーによるものであり、それに市場が振り回されている。浮き彫りにされるのは、長期の視点で株式を売買する投資家が、投機筋に比べて圧倒的に少ない日本市場の構造的もろさである。昨年来の上昇相場で外国人は日本株を10兆円買い越した。だがそれは短期売買で利ざやを狙うヘッジファンドでありり、5~10年の時間軸で考える投資信託や個人投資家を開拓しない限り、安定した株価上昇は見込めない、という趣旨であった。
そのとおりであろう。カジノ資本主義の時代であり、市場は賭場である。デイトレーダーもミセス・ワタナベも、利ざや狙いのギャンブラー達である。おいちょかぶ、チンチロリンを株や通貨でしているわけである。ネットとパソコンを使ってである。
わたしが「あっ」と思ったのは、そこではない。使われている言葉である。「長期マネー」「投機マネー」この2つの言葉である。そしてああこれだと気づいた。
NHKスペシャルで放映され、そして図書にもなった「マネー資本主義」「マネー革命」はよい企画であり、素晴らしい内容だった。ウォール街と金融工学にフォーカスしながら、世界と時代の変貌を描いていた。そして今、日本のアベノミクスではマネタリズム政策、貨幣数量説にもとづく金融緩和政策がとられ、そして既にその失敗が予見されている。
「マネー」「貨幣」は同じと考えてよいだろう。翻訳であり同義語である。しかし、たとえばNHKの「マネー資本主義」における「マネー」は、前述と同じ「マネー」ではない。もととも資本主義の神の座には「マネー」が座るのであり、「マネー資本主義」は同語反復であり、形容矛盾である。最近の経済論でも、ここらの良い表現で書かれたものがない、まあ遺憾であった。今日の日経新聞の記事の表現で気づいた。ここを「投機マネー資本主義」と書き換えれば良いのである。そう気づいた。あるいは「国際投機マネー資本主義」でもよい。「newマネー資本主義」でもよい。
つまり言葉として「貨幣」があり、その同義語の「マネー」があるが、それら古典経済学的用語とは別に、この21世紀には、「投機マネー・newマネー・電子空間マネー・ゴーストマネー・バーチャルマネー・新信用創造マネー・レバレッジマネー」という新らしい概念、言葉が必要だと気づいた。
2010年末で、世界の金融資産総額は200兆ドルだとか。それに対して世界の名目GDPは2011年で70兆ドルだとか。つまり金融資産は実体経済の3倍だということである。この実体経済の言葉が「貨幣」であり「マネー」である。しかしカジノ資本主義においてネット通して瞬時に世界を飛び交うのは「貨幣・マネー」の3倍のボリュームをもつ「投機マネー」であるということだ。これが銀行や証券会社やファンドのデーリングルームや世界中のミセス・ワタナベの居間のパソコンから、飛び散り、駆け回り、地上の実体経済のはるか上空で溢れかえっているのである。そして地上の実体経済をも支配する。
世界中カネあまりである。しかし実体経済は飽和しているし、利益率も極めて低い。それへの投資も経営も金銭第一主義の立場からは、時間もかかり、非効率である。実体経済の3倍の世界の金融資産額は、カジノにしか行き場がないのが現実であろう。
アベノミクスが失敗するのは、これは必然である。貨幣数量説の「貨幣」は、ニクソン・ショック以前の、つまりドルと金が連動していた為替の固定相場時代の遺物としか考えられないのである。ミルトン・フリードマンがその理論的背景とされているが、その反ケインズ的言動も、当時の、1970年代のドル=金時代のものであり、彼が主導したといわれるドル=金制度の廃止と変動相場制への移行後には、逆に適用できないものだったわけだ。その説には、為替の変動相場と1990年代からの世界の金融自由化による変化は、織り込まれていないのである。
物価や貨幣、取引量については、アメリカの経済学者アーヴィング・フィッシャーによって、
MV=PT Mは貨幣量、Vは貨幣の流通速度、Pは物価水準、Tは財貨の取引量
という式で考えられた。これがフィッシャーの交換方程式である。これは恒等式であり、これが常に成立するという前提である。
フリードマンは、フィッシャーの恒等式を、貨幣量と物価のあいだの因果関係を表す式と解釈して、Tを一般化してGDPとしてYと記号化し、
MV=PY
とした。この1960/1970年代の「貨幣数量説」を、2013年の日本がとるわけである。しかし、である。70年代に入り、ケインズ経済学を批判したフリードマンの経済学=マネタリズムが、アメリカの金融政策に実際に取り入れられたが、また79年にはFRBが金融政策の基準に貨幣供給量を採用したが、それは失敗したはずである。その失敗を確認されたマネタリズムを、今、30年後に日本が行おうとしている。金融ビッグバン、グローバル化など、時代環境がまったく変わっているのにもかかわらずである。
これは、水野和夫氏の意見が、どう考えても正しい。
水野氏は『資本主義の謎』において、貨幣数量説は国際資本の完全移動性が起きていない世界でしか成立しない。国際資本が完全移動し、「電子・金融空間」が「地理的・物的空間(実物投資空間)」を圧倒する規模になると、いくらMを増やしても、物価上昇(GDPデフレーター)につながらない。MV=PYを想定することに大きな誤りがある。
株式市場や債権市場の規模がそれほど大きくない時代は、T(取引量)=Yに近い形となる。ところが、金融がグローバル化し資本市場が大きくなると、増加したMは、海外に資本流出するか、国内の株式市場や土地市場に向かう。その場合は、式を、
MV=P1Y+P2A
と貨幣数量説を書き換えねばならない。P1はGDPデフレーター、P2は資産価格、Aは資産市場の取引数量である。また、グローバル化したのは、「実物投資空間」では儲からなくなったからである。だとすれば、経営者や投資家は投機家となって、Yを増やすような工場投資をするよりも、株式市場や土地市場で今日買って、明日売ったほうが、手っ取り早くしかも巨額に利益を手にすることが可能になる。
そういうことであろう。水野氏の式が、オリジナルなものなのか、検証に耐ええるものなのかは分からないが、これで最近の日本の株式・債券・金利市場の混乱、政策とメディアの混乱の背景が理解できる。20世紀的な市場や政策プレイヤーの旧態的意識と、21世紀「投機マネー資本主義」の実態、電子・金融空間の実態とその運動則が、すでに時間的に乖離しているのである。
今日の結論は、貨幣とマネーとnewマネーの3つの言葉が成り立つという私的結論である。債権の証券化も、デリバティブもオプションも、M&Aにおける株式の交換も、新しい形のさまざまな信用創造も、ある意味newマネーである。そのようなマネーの総量は、誰にも、どの機関にも分からないらしい。カオスである。つまり誰にもコントロールできない、ということになる。