性の外部経済

朝、いつもの京橋駅のそばの喫茶店に行き、なじみの女の子に注文を聞かれ、モーニングをたのみ、店の新聞を読み、週刊誌を読む。週刊文春には警世家の中村うさぎ氏の連載がある。先々週のテーマは、「性的価値のパワー」である。氏の説によれば、通説は知性や才能や精神的な豊かさが大切な人間的価値であり、美醜や性的価値とくらべると、そちらのほうが格段に高次元の価値と考えられている。しかし、本当にそうかと。氏はそう設問する。美醜や性的価値が低次元の価値基準だとみなされているなら、なぜ女達はあれほどまで美醜にこだわり、性的価値を高めようとするのか、と氏は問う。そして「違うね」と氏は断言する。
人間のあらゆる価値の中で、美醜や性的価値は群を抜いて理屈抜きに強い。それは一つの絶大な権力である。「人間本来の価値」と呼ばれるものを一瞬で吹き飛ばす有無をいわせぬパワーがある。エロスは権力であると氏は述べる。そして、さまざま市場のなかで性産業は「買い手より売り手が一方的に強い稀有な市場である」と結論する。

ここで命題が誕生する。「買い手より売り手が一方的に強い稀有な市場である」のメカニズムはどうなっているのか、である。

設問は経済学的命題であるが、性と結婚の経済学に関しては、1992年のノーベル経済学賞を受賞したゲーリー・ベッカーが「家族論集」において、経済学の「効用」の概念を適用して分析している。秀逸である。
「男と女が結婚をしたり、子供をもったり、離婚をするさい、彼らは利益とコストを比較し、彼らの効用を最大にしようと試みる」と述べる。男女はそれぞれ自己の所得を最大化するという仮定が成り立つのであり、それ以外のどんな縁組みも、この仮定より優れた結果を約束しないと考えるのである。これが合理的選択アプローチであり、個々人はその基本的な嗜好にもとづいて自己の効用を最大化し、また異なる個々人の行動は、外在的かつ内在的市場によって調整されると仮定している。つまりベッカーによれば「ごく普通の人」の心の中にも内在的に「市場」があり、それが効用の最大化の調整を続けているらしい。それは外在的市場においても、内在的市場においても貨幣価値で評価できるということである。

ベッカーは、判事であり法学者であるリチャード・ポズナーと共同でブログを立ち上げ、経済学と法学の二つの立場から、政治や社会について論じ合っている。ポズナーは「法の経済分析」「正義の経済学」の著者であり「正義はお金で測った富の最大化」という素敵なアメリカ的法学思想をもつ。
ポズナーは、そのブログでの議論(「ベッカー教授、ポズナー判事のブログで学ぶ経済学」)において、カトリック教徒と米国カトリック教徒、聖職者もかかわった最近の性スキャンダルについて、性道徳がこの半世紀でおおきく変化したとして、それを経済学的アプローチで考えようとする。そして「性がもたらす喜びや緊張からの解放という意味での性のベネフィットは、生物学的根源に深く根ざすものであるので、むしろ、求めるべき回答は性のコスト側にあるだろう」とする。
そして、性行動のコストを考えると、それは過去半世紀の間に劇的に低下したとする。①ペニシリンの発見およびコンドームの普及により、性病が安全、確実かつ安価に治療できるようになった。②避妊手術が合法化され、また技術が向上し、望まない出生を大幅に減らせようになったとする。
さらに根本的に重要な点は、③社会における女性の役割が変化した。サービス経済の拡大、家電などの出現による家事時間の大幅削減などにより、女性の就業機会は拡がった。それは女性の金銭的独立性高め、彼女らにとって結婚による利益を縮小させた。また子供をもつために一時的であれ、恒久的であれ、労働市場を離れることによる遺失利益は、女性の賃金が高いほど大きくなるという意味で、出産にともなう機会費用は増大した。これは、女性にとって結婚のコストを高める要因となっている。
これらが重なり合った結果、婚姻率が下がり、平均結婚年齢が上がり、また離婚のコストも低下しているとする。また同様に、男性にとっても結婚による利益は減っており、離婚することへのコストは低下している。これにともなって、結婚している状態で性行動を行う期間は短くなる半面、婚外の性(これも避妊手術の向上や妊娠中絶によりリスクは減少している)への需要は高まっている、とする。
さらにポズナーは論じる。「経済的および技術的な変化の結果として、性が危険であるとも重要であるとも考えられなくなったことで、性は倫理的にも善くも悪くもない行動と見做されることになるであろう。それは食事をとることが、ほぼそうなっているのと同じである。」つまりポズナーは、家庭のものであった食事が、お金を払ってレストランで外食するように、性も貨幣で交換できるものとする。これは、売春が倫理的に問題のない行為であるとの意味になる。アメリカの高名な判事さん、法学者がそう言う。性が、道徳その他の面で、食事をとる行為と同様の、単なる消費活動の一つになるとの斬新な見解である。このポズナーの理論は、もともとはベッカーの家族論やコスト論にもとづくものであるが、ベッカーはブログであわてて否定して、性行為は家族単位の中での二人の親密な関係であり、消失することのない感情上の愛着や心の襞がたくさん含まれていると、打ち消そうとする。

だが、ベッカーとポズナー両人とも、人間はあらゆる領域において、自己の利益をはかり、合理的に効用を最大化しようとする存在であるとの前提は一致する。

たしかに昔の日本の見合い結婚であれば、第三者である大人が調整するのであり、両者にふさわしいレベルでの効用の最大化が達成されるであろう。また衝動的に同棲をしたり、できちゃった婚をする男女については、ベッカーは、「若者は性を欲して結婚する。だが、そうした動機にもとづく結婚は離婚を招きやすく、非婚者の増加と婚外の性に対する需要の増加をもたらす」と経済学的分析を行う。つまり貨幣評価による効用の最大化とコストの夫婦相互の調整の行われていない婚姻は、経済学的にも成り立たないのであり、破綻する可能性が高いということである。なんでもお金で評価しようというところが、じつにアメリカ的で素敵である。また男女間の「勘定」の存在は、洋の東西を問わず、経験則として誰でも知っている。金の切れ目が縁の切れ目という金言も、その経験則より来ている。お宮寛一である。医は算術という言葉があるが、医にかぎらず、すべからく算術ということである。

先週、ニック・ポータヴィーの「幸福の計算式」という本を買ったが、それによるとイギリスの場合だが、他者の死の値段として、円建てで換算すると、配偶者の死は3800万円、子供の死は1500万円、母は270万円、父は250万円、友人は100万円、兄弟姉妹の死はなんと、たった12万円だそうである。また結婚の値段だが、結婚の初年度の値段は、2500万円だそうである。
これは、結婚初年度の場合の試算であって、2500万円の値段がいつまでも続くわけでもない。「独身から既婚者への1回限りの変化によってもたらされた幸福の価値」であり、持続的な定価ではない。現実問題として、ここにも限界効用逓減の法則が働くはずである。たとえばグラフをつくって横軸に時間、縦軸に値段をおけば、時間と値段は反比例関係にあると思われる。線は右肩下がりになるのであり、時間とともに値段は下がり続ける場合が多いと、普通考えられる。わしゃ、知らんけど。つまり男女ともに、相互的に効用が低減していくのであり、両者とも自己利益の最大化は達成されない。維持コストが引き合わなくなるのであろう。離婚の価格は98万円、兄弟姉妹8人分の死程度の安さである。

さて、もとの命題にもどる。中村うさぎ氏は、今週発売の週刊文春の連載において、「エロス権力」という分析をおこなっている。
「女は生まれつき、男に対してエロス権力を行使できる特権的立場にいる。だが、そのエロス権力は十代から二十代がピークであり、その後は年齢とともに力が減衰して、閉経して生殖能力を失う頃には、壊滅的な状況になっている。」
「一方、男はエロス権力に対抗して経済力や社会的地位といった権力で女を支配しようとするのだが、これは若い頃よりむしろ年齢を重ねてからのほうが有利になっていくシステムなのだ。こればかりは、もう、如何ともしがたい男女の非対称性である。その代り女は若い頃に絶大な権力を持てるわけだから、これくらいの非対称性はむしろフェアとも言えるかもしれない。」
中高年女性が、美魔女という言葉をつくりだし、躍起になって若さや美貌や現役感に固執するのも、そのエロス権力という既得権を手放したくないからに他ならない、そうである。

さて本来の命題であるが、もとより性産業市場は、不透明市場であり、長期市場ではなく、超短期市場、瞬間的な取引きである。このような市場では、冷静かつ公平な財貨の交換は成り立たない。売り手が優位であることは、中村うさぎ氏の権力理論でも説明できるし、ゲームの理論でも説明できるし、またCoolidge effectでも説明できる。またバブルを説明する根拠なき熱狂理論の援用も可能である。さらに、閉鎖された特殊市場であり、特殊商品である。比較優位ではなく中村氏の説くごとく絶対優位であり、複数財ではなく単一財であり、また相対取引であるから、市場機能の調整による一般均衡は成り立たない。取引機会と取引費用を問題としているのだが、とくに取引費用について考えれば、相手を探す費用、交渉過程の費用、合意を監視する費用、ハンドバックなどの維持費用、レストランやラブホなどの場の費用も加算されるのであって、それは買い手側が負担せねばならない。まったく本来的に公平な取引ではない。原価計算は成り立たない。また今日の市場は、過去のように奴隷的労働者の市場ではなく、大阪の飛田新地がそうであるように、自由意思労働者の市場であり、いや個人事業主であり、価格決定権自体が売り手側にある。つまり一般の商品市場においては、需要曲線と供給曲線の交差する均衡点で価格形成されるのだが、この市場においては、このミクロ経済学の基本原理が、まったく成り立たないのである。

だいたい、こんなところが、この産業・市場のメカニズムというところか。中村うさぎ氏の意見、性産業特殊論は実に正しいのである。ノーベル経済学賞の受賞者であるベッカーのアプローチに従えば、社会構造が変化した過程で、男女間の取引コスト、自己の利益の最大化、効用の最大化については、当初はともかく、私見では、しかし時間軸とともに限界効用の逓減の法則が働き、受ける利益と遺失する利益がある時点で反転することになる。2500万円が、どの時点で両者の正負の均衡点、忍耐可能点、ガマンの限界、損益分岐点となるか、それとも新しい付加価値を急遽形成することができるのか、ということになる訳である。効用と価格の逓減について、マクロに見れば、統計的に大数の法則が働くはずである。

さらにであるが、コストが引き合わない場合は、ポズナーの説く「食事をとることがほぼそういうふうになっているように」外在的市場の利用という社会現象の変化を認めるという展開となる。「性が婚外で行われるにつれて、つまり、ひとたび結婚と性のつながりが弱まり、性が子供を産むためのたんなる手段より、その行為自体に価値があるものと考えられるようになる」と、経済学の手法により性革命が進行する基底を理解することが可能になる、そうである。
ベッカーによれば、経済成長や技術的進歩などの出来事が新しい誘因をつくりだし、それに反応して人々の行動が変化することはよく起きる。当初は社会一般の基準がその変化を妨害するとしても、それでも行動は変化する。そして新しい行動が社会に広まり、また習慣的になるにつれ、社会基準のほうが行動に適応すべく進化する、そうである。

まあ、人間社会の本音が、エゴと打算と算術の集合であることは、とくに秘密ではないが、ノーベル経済学賞の受賞者がいうと、なにやら恐れ多く、ありがたい。してみると、橋下大阪市長の在沖縄アメリカ兵は「風俗を活用せよ」との爽やかな合理的解決、古典的かつ新時代的解決、素敵な提案を、在沖縄アメリカ軍司令官が不快に感じたと報道されるのは、ノーベル経済学賞受賞者とアメリカの権威ある法学者の説く現在進行中の性革命にてらしても、現代的消費活動の一つとしての外在的市場利用のすすめにてらしても、アメリカ軍人の外在的市場における消費行動の現実にてらしても、そりゃ変やんか、となる。まあ、どうでもいいことだが。
ブログにおいてポズナーは、「古代ギリシャを一例とする多くの文明は、われわれ自身の社会に比べると、性についてもっと無頓着だった」と述べる。何年前に、熊本を団体旅行したが、バスガイドさんが、おてもやんの可愛い恋愛について話していた。嘘でしょ。ずっと昔に読んだ本の記憶では、当時の熊本では、娘は結婚前に女郎になり、そこで金を稼ぎ、タンスの一竿も買う。その稼ぎのよい娘ほど貰い手が多かったという内容であった記憶がある。それが、おてもやん。元歌も遊郭の騒ぎ歌のはずである。ともかく、おてもやんとしては、取引優位、売り手優位にあり、相手の男を選べるのである。とうぜんに自己利益と効用の最大化をはかるのであり、嫌な盃はしないのである。西鶴も近松も、そんな話ばかり。性と算用である。
何年か前の日曜日の午後に、道を歩いていると、友人の結婚式帰りらしい着飾った二人の若い女性が通りすぎる。その一人が、連れにキッと言う。「あんたも安売りしたらあかんで」と。相手は、唇をかみしめて兵士のように「うん」と答えていた。ああ、戦場の同志たちなんやと感動したものだ。まあ、これも、どうでもいいことだが。が、就活も大変やけど、婚活マーケットはもっと大変やろなあ。売りと買いの市場のなかで、利益の最大化と言っても、周辺相場もあれば、相手もあることやから。一発勝負だし、自分を値付けし、相手の商品価値を値踏みせねばならないし、しかも、情報はつねに非対称である。どの市場も、つねに不確実性に満ちている。ウォール街の金融工学にブラック=ショールズ式があるように、誰かが婚姻工学を開発して、彼女らのために、計算式をつくってやれないものか。ああ、面白そうだが考えんとこ。以上、週末の暇つぶしの思考実験である、と言うより、まあ、ひとり寝の与太やなあ。だが、性産業と婚姻市場を同一に論じて宜しいかという問題に関しては、ベッカー教授もポズナー判事も、経済学的アプローチとしては、それで宜しいと答えるはずである。

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