今となれば過去の人間だが、小泉政権のころの角栄の娘、真紀子は、いつかは総理大臣になるのではないかという勢いがあった。小泉劇場型政治の重要な役者であった。今は、すっかり実態が曝されて、ただの中身の無い我儘おばはんと見られているし、まあ、その通りであろう。
たまたま行きつけの喫茶店に立花隆の「田中真紀子研究」が置いてあった。刊行は2002年、本の趣旨は当時の真紀子ブームの中で、田中真紀子を通してみた現代日本政治における「角栄の遺伝子」問題を研究するということらしい。立花隆の真紀子観は、ワイドショーにでてきて威勢よくしゃべりまくる元気がよいオバサン・タレントの部類であり、野村沙知代程度の人間くらいのようである。そして立花隆は「真紀子の異常な言動に唖然とした」とする。
それを立花隆は、政治のワイドシー化の流れの一つと観て、ある意味、時代の必然とするのだが、わたし的には「真紀子の異常な言動に唖然とした」に、思い当たることがある。そこでアマゾンで松田史郎「田中真紀子研究」も取り寄せる。こちらは週刊誌の取材グループのものであり、立花隆本の解釈的論説と比べて、具体的なエピソードが多い。読んで呆れる。唖然とするわけである。
彼女が未婚の頃から家庭においても暴力的であり、たとえば娘に怒鳴られて便所に逃げ込んだ父角栄を、便所のドアを蹴りまくりながら、出てこいと大騒ぎしたエピソードもどこかで読んだことがある。父は娘をジャジャ馬と呼び、娘を妊娠させた婿を、こんな女を孕ませて、お前はすごいと褒めたとか。もっともこの婿殿も義父から拳骨くらっていたというから、まあ米糠三合が無かったのねと同情ものだが。それが、おばはんになったのである。
二冊の本を読み比べて、よくわかった。彼女は重度のADHDなのだ。そしてADHDの3割はアスペルガも持つとされるが、ADHD/ASなのである。尼崎ドラム缶殺人事件の角谷美代子と間違いなく同じである。勝手にアニマルキングダムをつくり、そこの唯一的支配者として君臨しようとするタイプである。なんでも、彼女によれば「人間には、敵か、家族か、使用人の三種類しかいない」そうである。立花隆は、真紀子には「人間の情において根本的に欠けているところがある」とする。脳梗塞で倒れ、病状が悪化した父角栄を、地元の支持者の前で、フライパンで頭を叩いたとか、はじめての当選での地元との公約に、父を地元に連れて帰るがあり、実際連れて帰るのだが、古い父の支持者の前で、口のきけない父角栄を横に、その第一声が、「皆さーん、目白の骨董品がきましたー、これが私の公約第一号でーす」とやったらしい。亡くなった小渕前首相を「小渕さんはお陀仏さん」もひどいが、あれほどのオヤジを人前で「骨董品」呼ばわりするのも輪をかけてひどい立花隆は呆れる。
外務大臣時代も、傍若無人かつ支離滅裂な話ばかりであり、外務大臣の公的行事のドタキャンは常であり、指輪をなくしたら、秘書官が盗んだと騒ぎ立て、全員のポケットまで調べる有様。角谷美代子である。そして本人には何の反省もなく、みな相手が悪いのである。
外務省の官僚は、彼女の日々の状態を「お姫様モード」「女王様モード」「もののけモード」にわけて対応していたようである。また外務省官僚が田中大臣に重要事項の説明をするのだが、集中がつづかず3分くらいで足をブラブラしだし、スリッパを壁まで飛ばしては、自分で拾いにいったりするようである。その癖、なにか失敗すると「わたしは聞いていない」と逆ギレするのが日常。さすがに資質がないということで罷免される前は、自分を罷免すれば、外務省機密費が内閣機密費に上納されていることをバラすと小泉政権を脅迫する有様。
自身もADHDである医師司馬えり子氏は「ジャイアンとのび太」と分かりやすくADHDを二つに分類するのだが、田中真紀子は極端なジャイアン型となる。立花隆は、真紀子の性格に呆れ、不思議がりながら、彼女を「ガキ大将」とする。彼女は、この人が許せないとなったら、とことん許さず、人前で平気で侮辱罵倒するし、首を切ってもその再就職を徹底して妨害するとか。外務大臣時代も、真紀子の嫌がらせを徹底的に受けた秘書官が「生涯にこれほどひどい侮辱を受けたことはない」といって職を辞し、上司が言葉をつくして慰留しても断固として戻らなかったとか。私邸の秘書や使用人となると、さらにひどく、フライパンで頭を叩かれたり、雨の中砂利の上で土下座させられたり、数カ月しかつとまらない人が大部分とか。この異常な行動を立花隆は彼女は「ガキ大将」タイプの人間であり、「腕力だけはあるので、利害関係の一方の当事者として自分を置き、権力によって相手を泣かせ、自分が一方的に利益を得て喜ぶというガキ大将タイプ」だとする。つまり、ジャイアンである。しかし、あくまで自分が正しい。
自身もADHDである精神科医師、ドクターやんばる氏の臨床現場からの発言であるブログ、ホームページはよく読む。そこで氏は「自己正当化型ADHD」という表現を使う。以下、引用。
このタイプのADHDは自分では「自分が当たり前」「自分のほうが正しい」と思っていることが多く、「少数派」という認識自体が困難で、また自分に不利なことは認めない。
「人に執着しない」ことなど他の特徴はADHDそのものなのだが、小さいときから自分が中心で人より優位に立つことを求め、逆に自分が不利なことを認めることが難しいADHDの一群があり、自己評価が下がらない特徴のみアスペルガー症候群に似ている。表面的な学歴や極端なブルーカラーへの偏見などを相手が従うまで延々と言い続けたりする。
人のことでは合理的な考え方が出来るが、自分のことは客観的に考えることが難しく、自分を正当化しようと無理やりの言い訳ばかりするのが特徴だ。
ドラえもんの「ジャイアン」や「モラハラ」の加害者としてよく現れるのがこのタイプだ。
依存的で被害的、人から痛めつけられているからと人を悪く言って自分に注目してもらおうとする特徴がある。思い込みが激しく、人の誠意を試そうとしたりするが、基本的には自分を評価するかどうかだけに関心があり、相手は誰でも良い。
【基本特徴】として、
1. 異常に表面的な考え方。例えば極端な学歴至上主義や、ブルーカラーへの強引な差別など。周囲の人を馬鹿にすることが多く他者を決して褒めない。
2. 自分の価値観が全てで、周囲の全員にしつこく繰り返して主張し続ける。自分の価値観以外の考え方が存在すること自体が理解できない。
3. 自分の行動が、状況により相手から見ると全く違う意味を持ちうることを全く想像できない。周囲の他者の気持ち、意志などを認識できない。
4. 自分の評価にはこだわり、無理のある言い訳を繰り返して自分が悪いことは一切認めようとしない。合理的でなく非常に情緒的。
5. 「人には執着しない」「極端に割り切ることが出来る」といったADHDの基本特徴は同じで、人に愛着が無い点でアスペルガーとは全く違う。
6. 「ADHDのAC」になることはあるが、自己評価は下がらず、自己正当化を続けるため周囲に攻撃的となり、周囲から見ると非常に困った人になる。
【様々な経過】として
自己正当化型ADHDも、例えば小さい頃から「あなたの考えは?」と本人の考えを聞き、いちいち根拠を示して合理的に説得する試みを続ける等、「合理的な環境」では、他のADHDと同じように合理的なADHDになることは可能だ。
しかし他のADHDがはじめから「無私」「無差別」の合理的な志向を持つのに対し、教育と本人の努力無しには合理的な考え方や「相手から見たら異なって見える」ことの理解は困難である。
したがって、自己正当化型ADHDが甘やかされると、何でもゴリ押しする「ジャイアン」となり、強引に言い張って主張を通すパターンを続け、大人になってもモラルハラスメント、パワーハラスメントなどの加害者となる。
逆に親から強引に押さえつけられると、「自己正当化型ADHDのAC」となるが、基本的に自己評価は下がらず、「自分が被害者であることをアピールする」ことをしつこく続けることが多い。
【ケア】としては
成人の自己正当化型ADHDはそれ自体のコーチングやケアに乗ることは少なく、子供のACや様々なハラスメントの加害者として問題になることが多い。ADHDの診断も否認することが多く、根拠も無く「診断した医師が間違っている」と主張することも多い。
子供も成人も、ケアとしては、「他者から見るとどの行動も本人の意志とは別の意味を持ちうる」「自分の価値観は絶対ではない」ということを丹念に合理的に説明していく他は無い。特に子供のときに合理的な接し方(本人の意見を聞き、根拠を述べさせ、その根拠で正否を判断する。逆に本人にはきちんと根拠を示して反論することを続ける)をすることは大事である。
成人のケースでは、意味のあるケアは、「被害者を逃がすこと」しか出来ないことも多い。
このドクターやんばる氏の言葉、「成人のケースでは、意味のあるケアは、「被害者を逃がすこと」しか出来ないことも多い」とは、まあ、田中真紀子においても同様だろう。ドクターやんばる氏によれば、ADHD者に欠けているものとして「感謝」「謝罪」「共感・同情」をあげる。つまり発達障害であり、そして発達していない精神の領域あるいは脳の部分である。またADHD者の最大の課題は「コミニュケーション障害」だとする。他者が理解できない、他者の存在が理解できない、他者の感情が理解できない、その結果、他者を怒らせ、他者を傷つけるのである。
太宰治の小説は、自己愛に満ちたくだらない中年男の戯言、ドストエフスキーの「地下室の手記」のパクリ程度と思っていたが、最近「太宰治とADHD」という本を読んだ。精神科医師の間では、太宰治は文学者というより境界性人格障害の一事例とされるらしいが、その目で見れば、太宰治の小説は、すべてADHD者の自身と外界とのかい離、他者と世間を理解できない、普通の人間感情を理解できない男の独白ばかりである。それが普通の人には特殊なので、まるで文学かのように見えたのだろう。太宰治を読み直して、それが確認できた。ジグソーパズルのピースがカチッとはまった感じである。
太宰治のような意識的、内省的な高い知性があれば、その原因を自己の内部に求めるのだろうが、普通はジャイアン、立花隆的表現ではガキ大将にとどまることになる。そして延々と他者を批難しつづけ、激昂し、罵倒し続けるのである。人には、それぞれさまざまな考え、感情があろうことが、おそらく生まれつき理解できないのである。自分しかない。ドクターやんばる氏の「自己正当化型ADHD」となり、「成人のケースでは、意味のあるケアは、「被害者を逃がすこと」しか出来ないことも多い」となるか。立花隆的表現では「人間の持つ情がわからない」からである。
ドクターやんばる氏によれば、ADHD者に欠けているものとして「感謝」「謝罪」「共感・同情」をあげるが、日々の生活においても「ありがとう」という言葉、「ごめななさい」という言葉、そしてたとえば身近の誰かが病気等で苦しんでいたら「大丈夫か」の言葉の一つも無いのだろう。逆に煩わしがって罵倒する。立花隆的表現では「人間の持つ情がわからない」だが、「他者の痛みがわからなあい」のである。だから、他者を罵倒できるし、加害者としての自覚もないまま、いくらでも人を傷つけることができる。それどころか、本人は自分を常に被害者と位置付けるのである。「恋愛できない脳」という本があったが、そういうことであろう。男女の情が深く交流してつくりあげる恋愛は、たとえば太宰治には無理である。女を取り替え、取り替えて道具して利用し、果ては心中の道連れにまでしようとする。コミュニケーション障害の人間は、セックスはできても恋愛はできない。だから、それに執着する。
ドクターやんばる氏は12歳をすぎると有効な治療はむつかしいとするが、すると、それまでにいかに「ありがとう」「ごめんなさい」「大丈夫?」の言葉を、血になり肉になるほど習慣づけるかが、津島家と田中家の課題だったのであろう。ドクターやんばる氏は、教育と本人の努力無しには合理的な考え方や「相手から見たら異なって見える」ことの理解は困難であると述べる。
人間社会は「人間の情」で成り立っているのであり、「人間の持つ情のわからない」人間が生きれる世界ではない。人の痛みがわからない人間が住める場所ではない。太宰治しかり、田中真紀子しかり、角谷美代子しかりである。「太宰治とADHD」という本では、太宰治の「操人癖」を述べ、人を操り、支配したがるのはある種のADHDの特性の一つとするが、太宰治のような洒落た口たらしで人を操ろうとするのではなく、田中真紀子、角谷美代子は、ぶち切れ、侮辱、執拗な長時間の罵倒、肉体的あるいは精神的な暴力により他者を支配しようとする。これはでは、狭いところで秘密のアニマルキングダムはつくれても、広い世間では、とても通用しない。いつかは排除されるしかない。「人間失格」である。
田中真紀子をよんで、太宰治を読み直し、腑に落ちることが多い。太宰治の小説を文学として読むより、心療内科の症例として読んだほうが、実態に即していると思うが、田中真紀子についても、立花隆的に政治研究事例としてより、同様に症例として読み直したほうがよいと確信する。もっとも、なのにあれほどの政治的影響力を一時は持ったということは、その上での政治研究として意味がないこともないのだろうが。ADHD者の比率は6%であるとか。兵庫県警も、そのような視点を取り入れるべきかも知れないし、である。
ただ、ダビンチ、リンカーン、アンシュタイン、エジソン、歴史上の天才や偉人にADHD者は多い。日本史なら織田信長、坂本竜馬など。スティーブ・ジョブスもビルゲイツも紛れもないADHD者である。ADHD世界からは、人類史の花形的人物を多数輩出している。まあ、ジョブスを主人公として最新の映画のテーマは「最低の男が最高の会社をつくった」らしいが。それはそれとして。