微笑みの国の騒乱

 2年前、2011年の夏にタイにいた。丁度選挙の時期であり、現職のアピシット首相とタクシン元首相の妹であるインラック女史の看板がバンコクの街中に立っていた。ともに美男美女である。それにまじって、独特の顔をした、つまりギャングのボスのような顔をした中年男の写真看板がバンコクのいたるところにあった。タイ文字は読めないので意味は解からないが、いかにも精力的な容貌の男が、犬を連れたり、赤ん坊を抱いたりしている看板だった。あとで知ったが、これはソープランドチェーンのオーナーのチューウィット氏である。その選挙の立候補の口上が面白い。タイの政治は汚職と腐敗にまみれている。わたしは、政治家にも役人にも警察にも、さんざん賄賂を渡した。汚職と腐敗の当事者で賄賂を渡すプロである。汚職と腐敗にもっとも経験のある自分こそが、この国の汚職と腐敗退治にもっとも適している、というとんでも論理である。まあ、理屈と膏薬はどこにでも付くものである。写真看板で一緒に写っている犬は、犬は嘘をつかない、犬は賄賂をとらない、ということらしい。赤ちゃんも、赤ちゃんは汚職をしない、人をだまさない、ということらしい。どう見てもテレビの悪役俳優にしか見えないこの候補者が、堂々と、そのとんでも論理で選挙活動をし、そして当選したらしい。まあ、すこしでもタイの役所と関係した人ならみな言うのだが、役人、警察の汚職と賄賂、権力乱用は公然の秘密ですらなく、とうぜんの日常である。また政治家と軍幹部の不正と蓄財も、タイ国民周知のものである。だから、このようなとんでも論理の元裏町の顔役が、それにうんざりした選挙民の意を逆にくんで、国会議員に当選したりする。

 タイ在住の長い日本人からの話だが、ある日系の会社社長が、タイに帰化申請をしたらしい。おそらく外国人事業法から逃れるためだろう。その申請を受けた部局の長から連絡があり、受理するから、ある程度の金額の要求を仲介してくれという要請があったらしい。その人はそれを申請した日本人に伝えると、信用しなかったらしい。一円も渡さないと、逆に疑いの眼で見る。それをタイの役人に伝えると、ああそうかと、そのタイの役人は、申請書をまるめて、その場でゴミ箱にほうり込んだらしい。まあ、ある話である。
 よくバンコクの路上の椅子とテーブルを置いただけの路上レストランで夜のビールを飲むのだが、うちの店は本来は一万五千バーツを月に警察に払わねばならないが、八千バーツで話をつけていると言っていた。空港に行くタクシーでは、自分のような貧乏な運転手なのに、よく警察が車をとめて、百バーツ二百バーツをとると嘆いていた。タイ警察に賄賂がきくのは周知であり、それどころか、それを目的に摘発もするらしい。

 この時、2011年の下院選挙では、タクシン元首相の実妹であるインラック・シナワトラが率いるタイ貢献党が過半数の議席を獲得。これにより、インラックが首相となった。タイ初めての女性首相の誕生である。その兄のタクシンは、タイ愛国党を創設し、2001年政権に就いた。それまでの民主党政権がバンコクや南部の富裕層を支持基盤としていたのに対して、北部のチェンマイ出身であるタクシン首相の支持基盤は北部から東北部の貧しい農民層である。タクシン首相時代は、北部の貧困層にばらまき政治を行い支持を固めるとともに、バンコクや南部既得権益層の権益を奪う政策をおこなっていたため、既得権益層の、つまりそれまでの民主党支持層の激しい反発を受け、後のクーデターにつながることになる。
 そのため2006年タクシン元首相は軍事クーデターで失脚するが、それ以来、タクシン派、反タクシン派が政権交代を繰り返してきた。タクシン派は大票田の北部を中心とする農村地帯や 都市部の貧困層を支持基盤にし、農民などへの手厚い政策もあり、選挙には圧倒的に強い。現在の与党タイ貢献党に圧倒的な影響力を持つのはタクシン元首相だ。最大野党の民主党は、都市部の中産階級以上の層が中心といわれ、従来の保守層の権益を尊重する。タクシン元首相の影響力の打破を目指すが選挙ではタクシン派に圧倒される可能性が高い。図式化すれば、貧困層と富裕層の対立ということになるが、とうぜんながら富裕層より貧困層が圧倒的に多いのであり、選挙になれば、貧困層の勝ちである。

 そしてこの12月、2013年12月9日は、たまたまバンコクに居た。反政権は、つまり民主党系の大規模デモの日であり、バンコクポスト紙などもさかんに煽っており、またwebでも、まるで暴動が始まるかのような扱いである。じっさい日本に帰ったら大変な目にあったね、心配していたなどと言われた。だが、その日にわたしは、これは願っても無い良いチャンスだと、バンコクの街を騒乱と暴動をもとめてさまよっていたのである。でも、まったく発見できなかった。普通の、普通の日々の普通の風景である。コンビニがビールの販売禁止になっていた程度だ。4時くらいにBTSに乗ると、鉢巻や旗をもった女性を何人か発見した程度である。でも、幼稚園の運動会が終わったら、これからお家でご飯を作らなきゃ、という感じである。

 翌日10日、たまたまカオサンに行くつもりで民主の塔の近くに行くと、あれまあ、ここが反政府派の本拠地、泊り込みの場所になっていた。ラッキーと思ったものだ。だが、長閑なものである。みなシーツを引いて横になり、配給の食糧や水をもらってだべっている。たくさんの露店が出て、食べ物やデモグッズを売っている。わたしも露店をまわり、タイボクシングのコピーソフトを買った。反政府指導者の顔がプリントとされたシャッツも買おうと思ったが、あほらしいからやめた。まるで和やかな大運動会である。警察の姿は一人も見ない。政府が警察をいっせいに引かせたらしい。警察庁に入り込んだデモ隊には、警察側が炊き出しの食料を配ったらしいが。日本に帰ると新聞などでは「微笑みの国がなぜ」という論調だが、現場でみると「微笑みの国」だなあ、ということである。

 前日8日の夜に、バンコクの知人と飲んでいたのだが、その人の会社の半分は明日9日のデモに参加すると言っていた。その人も、タクシン派の赤シャッツではなく、民主党系の黄色シャッツ派のようである。バンコクの教育を受けた中間層だから、まあ、こちらの階層だということだろう。
 ただ外国でご当地の政治談議などしてはならないから、言わなかったけど、現インラック政権は、ちゃんとした選挙で選ばれた合法的に政権である。だが反政府派は選挙によらない人民会議で政治を決定しようとなどと言っている。民主主義の基本は選挙制度であり、選挙により選ばれた政権を倒す唯一の方法は、選挙しかない。その選挙を否定して正しい民主主義を打ちたてようという反政府派の論旨は、こりゃなりたたんだろ、ということである。国際論調も、この流れを自然として、反政府派の論旨を無理筋とみている。当然である。

 何年か前に、チェンマイに行くと、反タクシン政権が誕生してチェンマイは非常事態宣言が出ていたが、たくさんの赤シャッツが集まって気勢をあげていた。チェンマイ在住の知人に聞くと、タイはタクシンはも反タクシン派も、所詮は権力と金をもったボスたちが中心で、あれは金をもらって動員されているだけだ、と言っていた。選挙になるとヒットマンが出るらしい。選挙の時期は、流血がよくおこるので酒類が販売禁止される。票も金で売買だと彼は言っていた。おそらく、その通り、今の政治対立もボス達の利権争い、旧来の既得権益層とタクシンに代表される新興利権層の争いの一面も大いにあろう。役所の許認可権限の強いタイでは、政治を握ったほうが、金をつくれるからである。

 でも、あのインテリであるタイ人の知人は、なのに、なぜ、それでも反政府がよしと考えるのか? またタイの富裕層や中間層は、そんな無理筋な選挙制度、つまり民主主義を否定する話しに同調して、なぜあのようなオバチャン達まで参加させての大量動員が成り立つのかという疑問が生じるわけである。この人たちは「あほちゃうか」では済まない、そのタイ政治のメンタリティーのようなものは、なにか、という疑問である。これについて、すこし引っかかるものがあったので、大阪に帰ってから調べ直した。じつはかって読んだタイ関係本のなかで「タイ式民主主義」という言葉があったのを思い出したからである。本棚から発見した。1993年刊岩波新書「タイ 開発と民主主義」末廣昭氏著である。

 以下、整理する。

 かってタイでは軍事クーデターは珍しいものではなかった。三年に一回おこる年中行事のようなものであった。政治家と軍幹部の汚職と蓄財は周知のことだが、しかし軍がクーデターに当たってその正当化のための理由としていたことの一つに「国会の独裁」がある。「国会の独裁」に対してクーデターを行うというのは、じつに奇異に写る。軍のクーデターによる独裁に対して、それを議会政治が是正するならわかるが、国会が独裁体制だからクーデターが正当化されるという論理は、これはほかの国では難しい。しかし、その軍のクーデターに対して、大多数のタイ国民は「無言の支持」をするという。1991年のクーデターでも、クーデター直後の新聞の世論調査でも、回答者の七割が軍の実力行使を肯定したという。では、民主主義の否定を意味するクーデターを、なぜタイ国民は容認するのか? そして数年後にまた民主主義を守る運動を軍に対してするのか?

 これについて著者は、「この問いに答えるためには、タイでそもそも民主主義(プラチャーティパタイ)がどのように展開し、また、いかなる意味を与えられてきたのか、その点を歴史的に再検討することが不可欠」だと述べる。タイで民主主義制度が採用されたのは、1932年の立憲革命からとなる。この時にフランス帰りの少壮官僚と軍人達が王政を倒して議会制度を導入した。ただし、タイの民主主義が欧米諸国でいうデモクラシー、つまり議会制民主主義や政治的多元主義を意味したかといえば、そうではない。たとえば1960年代に用いられた「タイ式民主主義」という概念である。
「タイの政党は国民階層の利害を真に代表する組織ではなく、私利私欲に走る利益集団でしかない。政党政治は社会に腐敗と混乱を招き、それどころか共産主義の拡大すら招く。タイにとって望ましい民主主義とは、国王を元首とし、政治指導者(つまり軍-著者引用)が国民の主権と利益を代表して国を統治する体制でなければならない」

 このタイ式民主主義の考え方では、「国会の独裁」という表現も、じつは国会を私物化する政党政治を批判することが最大の目的であり、これを駆逐するクーデターは「民主主義」の破壊を意味しないし、むしろ政治安定を実現するための手段である、これが軍の主張である。二二六事件の将校達と似たような論理展開である。当時の日本においても、現在の日本においてすら、二二六事件の将校の論理は共感されている。

 そしてタイのケースでは、クーデター・暫定政権・暫定憲法・新憲法・総選挙・議会の復活・しかし議会政治が足かせとなると軍は「政党政治の腐敗」を理由にまたクーデターを起こす。この「タイ政治の悪循環」がまわりつづけるようである。ただ、タイの政治変動が軍の権力を維持するための自己正当化のプロセスだけかと言えば、そうでもなく、タイ式民主主義を特徴付ける二点も重要な役割を果たしたとか。

①クーデターであれ新憲法制定であれ、国王の承認が不可欠の要件をなすこと
②政治指導者は国民の利益の実現、つまり社会的公正=「タム」の実現を要請されていること

 タイ語でクワーム・チョーク・タムつまり「タムにかなう」という言葉が、そのまま権力の正当性を指すらしい。このタイ語のタム(仏教用語ではタンマ)はサンスクリット語からの転用で、本来は「法」「仏法」を指す。日本ではインド、中国を経由してダーマ、ダルマ「達磨」の言葉に転化している。したがって、タムを実現しない政治指導者は、クーデターや国王の指示によって追放されても仕方が無い。腐敗した当時の政権を倒した1991年のクーデターが、大多数の国民から受け入れられたのは、そのためであった。逆に、極端に世俗権力を集中し、社会的公正の実現に努力しない政治(軍)指導者を、国民自身が非難し追放することもある。1973年、1992年の政変もそれである。

 この考え方をまとめたのが、1957年のサリット政権だとされる。サリット軍司令官は、1956年の総選挙は、過去の中でも最も汚い選挙であり、こうした病気を治すためには、もはや投薬ではなく抜本的な治療、つまり手術が必要であると主張した。つまり軍の決起である。二二六事件と同じ論理である。その軍事革命を支える柱としてサリットが持ち込んだ三理念がある。
第一は、「民族・宗教・国王」の国是を基盤とする国民統合、
第二は、「開発体制」によるタイ民族と国家の発展、
第三だが、これが「ポー・クンの政治」あるいは革命団の言葉でいうなら「タイ式民主主義」の実施である。

 どうやら、このタイ式民主主義あるいは「ポー・クンの政治」という概念が、今回2013年12月の騒動を読み解く鍵かも知れない。その流れが、今のタイ社会にも連綿するから、正しい民主主義実現のために、選挙で選ばれた政権を、選挙を経ずに倒そうという思考、今の黄色シャッツの行動の深層である。そう考えれば、彼らの行動が、タイ人の知人が黄色シャッツにシンパシーを持つのが、理解できるような気がする、ような気がする。

 タイ語で母はメー、父はポーである。クンは国王を意味する。タイ王朝の建設者として有名な13世紀のラムカーヘン大王が、統治者としての国王の姿をポー・クン、つまり「慈父としての国王」に求めたことに端を発するらしい。サリットは、その数多い演説の中で、しばしば国家を「大きな家」と呼び、国民を「子ども」そして国家の指導者を「家族の父」にたとえたらしい。サリットは、首相としての自分を国政の運営者ではなく、国民の庇護者として位置づけようとした。タイ国民が国王に対して抱いてきた二つのイメージ、すなわち「神としての国王」と「慈父としての国王」のうち、後者に政治指導者、もしくは首相のあるべき姿を重ねあわそうとしたのである。したがって、指導者と国民の関係も「支配するもの、される者」ではなく、親子のように「庇護する者、される者」の関係でとらえた。サリット首相は、アジアに一時いた開発独裁型の政権であり、あらゆる地位と権力を自分のもとに集中し、独裁政治を実施する。しかし彼の考え方では、指導者が慈父=庇護者として国民に君臨する限り、それはタイ固有の統治原理にかなっていた。「ポー・クンの政治」とはまさにその意味であり、また「徳」をもって上から指導する「タイ式民主主義」の大きな特徴もそこにあったと、岩波新書「タイ 開発と民主主義」において著者末廣氏は述べる。

 この「民族・国家・宗教」の三原則と「ポー・クンの政治」が、今もタイ社会の底流にあるのならば、つまり必ずしも、選挙により選ばれた政権が、タムとして語られるような正統性をもたない、あるいは喪失したと見なされるならば、「国会の独裁」ならば、かって軍がそれを理由としてたびたびのクーデターを起こして、それを国民が無言の支持をしたように、この2013年12月現在の、反政権派黄色シャッツ組のデモも、説明が、わたしなりには説明がつく。だが、いまさら21世紀のタイで、それだけでは成功するとは思えないが。マイペンライの成り行きで、あげた拳の下ろしどころが無い印象だが。だが、役人・政治家・軍幹部の汚職はあの国の宿あであり、ゆえに「国会の独裁」に対して、このような反民主主義的手法で、民主主義を守るというロジックも成り立つわけであろうか。

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