これは学習ノートである。仏教勉強での自分むけのテキストである。まあ学習、理解・認識とは、とりあえず脳内において言語的に整理あるいは再構築することであろう。受験生ではないからメモライズは学習ではない。学習は言語活動であり、自分の言語として自分の脳内にアウトプットすることである。インプットではない。
このブログも会社のHPの誰も読まない片隅においているが、独り言であって、読者は一切想定していない。というより、無用である。読者はあくまで私一人である。徒然おもうことの言語化の粘土版がわりとして使っているだけである。
さて、今日のお勉強は、「空の思想」である。
1.ゴータマ・ブッダの無記
初期の最古層とされる仏典におけるゴータマ・ブッダをながめると、この人は宗教者というより教育者として捉え直した方か良いのでは、よく印象する。形而上的ないわば神学的な話は一切せず、また人とあらそわず、カーストにもこだわらず、人にじつ思いやりがある。そして臨終における最後の言葉は、生徒に対して、ちゃんと勉強しなさいよ、というのである。まるで校長先生であり、それがあるいはゴータマ・ブッダの実際なのかも知れないと印象する。
「アーナンダよ、あるいは後にお前たちはこのように思うかもしれない。『教えを説かれた師はましまさぬ、もはやわれらの師はおられないのだ』と。しかしそのように見なしてはならない。お前たちのためにわたしが説いた教えとわたしが制した戒律とが、わたしの死後にお前たちの師となるのである。 」
そこで尊師は修行僧たちに告げた。
「さあ、修行僧たちよ。お前たちに告げよう、『もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成なさい』と。」 (中村元訳『ブッダ最後の旅』)
わたしは死ぬけど、悲しんじゃいけないよ、みんなは、先生がいなくなっても、ちゃんと勉強をつづけなきゃいけないよ、と校長先生は生徒たちにいう。君たち、がんばれ、と。これは、他の宗教の開祖とはまったく、まったく違うあり方である。おそらくゴータマ・ブッダは、自分の死後、自分の存在が神話化されて、自分が仏教という世界宗教をつくりあげたことになり、2500年後も教祖・超人・超能力者・ゴッドとして人に伝えられ祭られていると聞けば、それは、さぞやさぞや驚くことだろう。
もし、「Do you believe in any religion?」とか「What’s your religion?」とか聞かれたら、ゴータマ・ブッダは「I’m agnostic.」とか「I’m an atheist.」と答えたのではないだろうか。
では、なぜ実践する校長先生が、神話的世界での釈尊になったか? ヘーゲルは「哲学を学びたければ哲学史を学べ」という。だが「仏教の歴史、仏教が仏教でなくなる歴史だ」という言葉もある。ゴータマ・ブッダから発して、その流れをたどり、話を21世紀の今に引きずり込んでみようというのが、わたしの趣旨だが、さてさて、さてさて。
仏教史をみるかぎり、ゴータマ・ブッダが、同時代において圧倒的な評判、影響力をもったことは間違いない。サンガ、彼の学校は組織化され、教員団も編成され、ある程度の組織原理、戒律なども整備されたようである。だが私見だが、いつの人間社会でも、人が組織されるということは、どのような集団でも「世俗化」されたということであろう。世俗化されれば、あとは世俗の運動法則により、自動運転されることになる。これはわたしの経験則的確信である。また、宗教団体は、世俗的集団の最たるものである。外部より経済的支援をうける職業的専門集団、徒食集団となるからである。
ゴータマ・ブッダの入寂後、校長先生がいなくなった組織は、その組織、資の道をまもるためにも、教理を明示・確立し、権威を校長先生個人の人格から、集団(サンガ)に移し替える作業が必要となる。王や富裕層の寄進をうけるためにも、それは必要なことである。その教理の基礎は、すべてゴータマ・ブッダが説いた真理という形をとらざるを得ないが、如是我聞なのであるが、ここで問題は、ゴータマ・ブッダが、そのような原理主義的教理を何も説かなかったことである。
知られているように、ゴータマ・ブッダの原始仏教の頃は、その教義はかなり曖昧なところの多い素朴なものであった。いかに苦を脱し、悟りに至るかの実践的なものであり、純粋に理論的な体系性や整合性は重視されていなかった。毒矢のたとえのように、矢を分析するより、まず治療という立場である。形而上的問題にうつつを抜かすより、多少理論的には不十分でも、実践において目的が達せられればよいという立場である。さらに「無記」との立場をとり、形而上的、哲学的議論はいっさい避けた。
これはこれで、ゴータマ・ブッダの生存時は、その人格で人に語ることができるから、それはそれでよかったのだろう。すこし曖昧でも、あの人がいうのだから、それでよい、ということだろう。
だが、その教団の継承者たちは、そうはいかない。教理を明示確立し、組織を維持発展させねばならないという心理が働くのは当然であろう。そして、時代がさがると、さまざまな部派に分裂し、教義の研究と宣明に努力を向けるようになる。アビダルマ仏教という理論仏教のながれである。
2.無我の実体はあるのか
わたしのような仏教の初学者でも、さまざまな本を読みながら、あれっとすぐに感じるのは、①諸法無我であり、仏教はバラモン教のアートマンの否定からはいっている。無我、アンアートマンである。つまり心は現象学的なものであり、魂のような実体はない。エクゾシストのように、エストプラズムなどは吐かないのである。②しかし、インド全般の思考だが、仏教も輪廻(サンサーラ)は認めているらしい。③すると、①アートマンつまり魂の実体は否定するのに、では②なにが輪廻すのか、輪廻する実体とは何か、という矛盾に突き当たる。なんなの、これ。これでは、話が通じないでしょうよ。
原始仏教から部派仏教、大乗仏教の成立と、その初期、中期、後期のながれを、まあぼんやり適当にながめていると、アートマンとアンアートマンの問題に帰着すると、じつは確信している。間違いない。ゴータマ・ブッダの出発点もここだが、ゆれうごく仏教史の理由は、ここにある。間違いない。ここを基準的として仏教史をながめれば、おそらく見える。これがわたしの最近の確信である。絶対に、そうだ。
結論から先にいえば、ゴータマ・ブッダの思想は、神と魂の存在を認めないものではないのか。諸行無常、諸法無我である。だが神と魂の存在を認めないだと、天国も地獄もわしゃ知らん、だと。こらっ、そんな宗教は、あり得ないぞ。誰もそんな寂しい話など聞きたくない。ゴータマ・ブッダの思想を宗教化にするには、原始仏教の、ゴータマ・ブッダの悟りの原点を否定、あるいは誤読する必要がある。でないと、教団は宗教団体として成立しなくなる。
さて、与太をすすめよう。
ロラン・バルトのテクスト論では、「作者の死」と呼んで、文章を作者の意図に支配されたものと見るのではなく、あくまでも文章それ自体として読むべきだとする。文章はいったん書かれれば、作者自身との連関を断たれた自律的なもの(テクスト)となり、多様な読まれ方を許すようになる。これは悪いことではなく積極的な意味をもつのであり、文章を読む際に、常にそれを支配しているであろう「作者の意図」を想定し、それを言い当てようとするほうが不自然であるとする。ポストモダンの哲学者デリダもほぼ同時期に、自分自身のなかに立ち現れる純粋な「いいたいこと」がまずあって、それが文章として表現される、という考え方を否定している。「いいたいこと」は純粋にそれだけとしてあるのではなく、言葉と不可分に結びついて成り立つと考えるからである。まあ、世の中には、こんなテクスト論もあるのである。これはわたしの個人的学習ノートであるから、論証など必要ないが、結果として、これがアビダルマ仏教の実際だったと強く感じる。アビダルマの意味は、法を研究するではなく、ゴータマ・ブッダの言葉を再解釈、つまり意図的に、あるいは無意識的に「誤読」することだったと、わたしは確信する。間違いない。金を賭けてもいい。つまり、それが原始仏教から部派仏教への移り変わり、「仏教が仏教でなくなる歴史」のはじめの一歩である。
いい調子だ。だいぶ整理できた。この調子でがんばろう。
さて、無我は縁起とともに、仏教の根本思想である。だが、無我の立場に立ち、霊魂の実在を認めない仏教の場合、輪廻の主体が何かを説明するのは、これはやっかいである。原始仏教では、無我を説明するのに、現象を五蘊・十二処・十八界などの要素にわけて、アートマンの実体を想定する必要がないことを根拠としたが、アビダルマもこれを更に徹して、現象世界の存在そのものを、その構成要素に解体して、そこに実体は何も残らないことを証明しようとした。ところが、有力部派である説一切有部では、そこで五種に分類される七十五種のダルマ(五位七十五法)の説を立てる。そして、この七十五種のダルマはもはや分解できず、それ自体が実在するものと考えるに至る。説一切有部では、さらに実在論をすすめて、無常の極限まで推し進めると、あらゆる事物は一瞬存在するが、次の瞬間には別の存在が生起するというように、まるで映画の一コマが連続するような発想だが、「刹那滅」という考えに至る。これは三世実有説となり、過去・現在・未来の三世で、一切のダルマは消滅することなく、常に実在しているという形になる。行為は、感覚的に把握できない無表業として残り、そのが肉体の死後、微細な五蘊からなる主体を通して、来世の生存に引き継がれるとされる。
その仕組みは、まあ二千何百年前に、インドのかたがた、よく考えたものだが、でもこれでは雰囲気は違うが、ゴータマ・ブッダの原点である無我、アンアートマンの否定、つまりそのような輪廻する実体のないことへの否定の、否定になる。アートマンは存在するかも、という「読み方」になる。でないと、人生は寂しいからね。
これは諸行無常、諸法無我の否定となるが、それでいいのか、となるが、それで良いのだとバカボンパパのながれとなり、大乗仏教では、自性、仏性、如来蔵、一切成仏と、さらには高野山ではないが、即身成仏てなことになる。これは進化論の逆である。これじゃあ、バラモン教帰りじゃないか。
まだましなずっと後世の阿頼耶識の理論においても、やはり、その認識論において、日常的な六識のほかに、マナ識とアーラヤ識を想定するのだが、識の顕在的な働きを現行と呼び、その現行の識は、アーヤラ識が潜在的に保持し、この保持された状態を種子(しゅうじ)と呼ぶが、その現行が種子にその影響をのこすことを熏習(くんじゅう)とよぶが、アーラヤ識はこのような種子を蔵す働きをするので、蔵識と呼ばれるとか。これが八識説だが、これは霊魂の存在、アートマンが存在する世界になる。インドはゼロを発見した国であり、理屈好きで知られるが、理屈が大好きなのだなあ。
だが、これをゴータマ・ブッダが聞いたら、さぞ驚くだろうことは、間違いない。
3.「空」の構造
色即是空、空即是色であり、ともかく「空」である。原始仏教の原点がアンアートマン、無我であるが、時代とともに魂の実体論が主流となる。その部派仏教の理論を、もういちど根本仏教の原点に引き戻そうとしたのが、二世紀のナーガルジュナ(龍樹)とされる。『中論』である。
龍樹の立場は、説一切有部のような実在論に対して、反論する。現象の世界において、その根底に何らかの実在、すなわち「自性」を想定すると、生成や運動が成り立たなくとする。つまり「無自性」の立場である。無自性であってはじめてものは相互に関連しあい、縁起ということも成り立つ。この無自性が「空」である。つまり、無我=縁起=無自性=空=仮=中道、となる。そして、言語で説明できるものと、できないものを分けて二諦説をとる。だが、第一義諦などの言語をこえたものを説くと、龍樹自身はなにもこれに関して語っていないが、人情として、言語表現をこえる悟りの体験があるはずだと考えたくなる。「空」にしても、上記の図式では「縁起」だが、実際には「空」というものが体験されるようにも誤読され、積極的に実相、真如などの言葉で表現さることも起こったようだ。このような言語をこえるものが体得されると思考されると、一種の神秘主義となる。密教は真言、つまり呪文だが、その方向にすすむ。
早朝の小便で思いつき、朝ごはんのテーブルで書き始めて、もう昼ごはんの時間がとっくに過ぎた。まあ、われながら良くまとめた。部派仏教、大乗仏教の教理の変化を、ロラン・バルトと重ねたところは、われながれ、ご苦労さまでした。腹へった。飯くお。昨日の朝は、あのおやじの露店のカオ・マン・ガイ、今日はよそのホテルのアメリカン・ブレックファーストだから、昼は何にしようか。ホーリーカフェでも行くか。夜は、トンヤン・クーンか。