鉄は熱いうちにうたねばならないが、フィーリングやパッションなどの感覚も、言葉で教えられた指導も、忘れないうちに文章化し、整理保存するのが私の流儀である。撮影フィルムを現像液であらわにしたあとは、ベストの瞬間で定着液にただちにつけないと、映像は消滅し、失われてゆくのだ。つまり経験は存在しなくなる。ワット・マハータートでの繊細な体験の記憶も文章化し残して、定着させておこう。
まず、お勉強の成果の概要から。 これは、プラユキ・ナラテボー氏の整理であるが、
まず、仏教系の瞑想法には、
「サマタ」 (Samatha = 止)と称する「集中系」と、「ヴィパッサナー」(Vipassana = 観)と称する「気づき・洞察系」の2種類がある。
「サマタ」はマントラやイメージなどの対象に意識を繰り返し向けていくことで、安定した集中力を培うことを目指す。
一方、「ヴィパッサナー」は、対象をあらかじめひとつに限定することなく、その瞬間瞬間に生じてくるものごとをありのままに自覚化することを繰り返しながら、洞察を育んでいく方法だ。
この2つの瞑想法を合わせて、「サマタ・ヴィパッサナー」(Samatha-Vipassana = 止観)と称し、そのバランスが大切とされる。
仏伝によれば、ブッダは出家後、2人の師につきサマタ系瞑想を最高度に極めたが、なおも究極的な安らぎは得られず、その後みずからが試みたヴィパッサナー系瞑想によって、解脱・涅槃に至ったとされている。
ヴィパッサナー系の瞑想については、現存する仏典では、「マハーサティパッターナ・スッタ」(Maha-Satipattana-Sutta = 大念処経)と、「アーナーパーナサティ・スッタ」(Anapanasati-Sutta = 出入息念経)のなかで、その詳しい紹介がある。
そして、タイの代表的な4つの瞑想として、タイでは、この2つの瞑想法のうちどちらを強調するか、どの対象に主に意識を向けていくか、内言(ラベリング)を用いていくかいかないかなど、あるいは同系統の瞑想法であっても、指導者によるテクニックが若干加えられるなどして、さまざまな瞑想法が実践されているが、代表的な瞑想法は以下の4つである。
1 「アーナーパーナサティ(出入息念)」瞑想法
2 「プットー(ブッダ)」瞑想法
3 「ユップノー・ボーンノー(縮み・膨らみ)」瞑想法
4 「サンマー・アラハン(正・阿羅漢)」瞑想法
1 「アーナーバナサティ(出入息念)」瞑想法
ブッダ伝来の伝統的な瞑想法で、前述の『アーナーパーナサティ・スッタ(出入息念経)』に沿い、呼吸への気づきを手がかりにして、
身体(Kaya)
感受(Vedana)
心(Cita)
法(Dhamma)
という順序で徐々に精妙化する4つの対象領域を、それぞれ4つの視点で洞察していく形式で、全部で16段階の瞑想プロセスを経ていくやり方である。
具体的には、まず姿勢を正して座る。そして呼吸をいちばん感じ取ることができる鼻の入り口あたりに意識を集中させ、ひと息ひと息ごと丁寧に「気をつけて息を吸い、気をつけて息を吐く」
Sato va assasati, sato va passasati
ここを始点としてさらに、呼吸をコントロールすることなく、ありのままの呼吸に油断なく細心の注意をむけつづける。そうしているうちに、だんだんと精妙化していく呼吸の細かな様相を見つめ、実感しつづけていく。
やがて呼吸と連動する身体感覚のありようについても感じられてくるようになったら、そのまま今度は身体感覚に生ずる諸相をもありのままに見つめ、体感していく。それから身体感覚に付随して生じてくる心の動きについても明晰に観察をすすめていく。
最終的には、
無常(Anicca)
苦(Dukkha)
無我(Anattan)
といった真理の法則性の認識にいたるまで洞察を深めていくものである。
2 「プットー(ブッダ)」瞑想法
「プットー」は、タイ語で「ブッダ」の意味である。これはタイのサマタ系瞑想の代表的なものとして知られている。方法としては、姿勢を正して座ったあと、
息を吸うときに「プッ」
吐くときに「トー」
と心のなかで唱えながら呼吸していくものである。この瞑想法でも呼吸のコントロールはおこなわないが、しかしアーナーパーナサティとは異なって、呼吸の観察からはじまって身体の感覚、心の動きまで洞察していくといったこともしない。ただひたすら「プットー」という言葉に意識を集中させ、くりかえし唱え、心を静め三昧にはいっていくことが目的である。いくつかの寺では、ただじっと座って唱えるだけでなく、数珠を瞑想の小道具として併用し、呼吸に合わせて、吸うときに「プッ」、吐くときに「トー」と唱えつづける方法もとられてもいる。また、呼吸は関係なしに、ただ「プットー」と言葉を唱えるごとに、ひとつずつ数珠をはじいていくところもある。
9月12日の夜以来、なんどか通ったが、サイアム駅ちかくの僧院で体験したのが、これであろう。夜の僧院の広間で、多数の信者が一時間、無言で結跏趺坐していた。だが、僧が壇上から低い声で瞑想中の信者に語り続けていたのは、意味がわからない。知人に聞くとパーリ語とタイ語で交互に話しているようだが、誘導瞑想なのだろうか。
3 「ユップノー・ポーンノー(縮み・膨らみ)」瞑想法
ミャンマーのマハーシ長老由来の瞑想法であり、タイにおいても広く知られ、多くの寺院で実践されている。とくにマハーニカイ派の代表寺院で、マハーチュラロンコン仏教大学が併設されているワット・マハータートでは、この「ユップノー・ポーンノー」瞑想法が取り入れられている。
この瞑想法では、姿勢を正して座ったあと、呼吸に連動して縮み・膨らみを繰り返す腹部に意識をむけていく。そして
お腹が縮んでいくときには
「ユップノー(縮む)」
お腹が膨らんでゆくときには
「ポーンノー(膨らむ)」
と、ひとつひとつ言葉を貼りつけて(ラベリング)認知していく。
私が通ったワット・マハータートの外国人向けのセミナーでは、指導僧は達者な英語をもちいていたが、 ふつうは、この瞑想法のリトリートでは、最初、参加者全員で一斉に声を出しながら行い、その後、ひとりひとりに分かれてからは心の中でラベリングしたりする。
また歩行禅もあり、その際には、一歩一歩を非常にゆっくりとしたスローモーションともいえる速度でおこない、その足の上げ下ろしのプロセスを
「ヨックノー(上げる)」
「ヤーンノー(はこぶ)」
「ジアップノー(下ろす)」
とラベリングしながら歩く。
それからさらに日常動作においても、
「立っている」
「座っている」
「触れている」
食事の際には、
「口を開ける」
「入れる」
「味わう」
「噛む」
「飲み込む」
などとラベリングしていく。また、身体感覚や心の状態についても、それを感じた時点で、
「暑い」
「寒い」
「眠い」
「怒り」
「うんざりしている」
「わずらわしさ」
などなど、たえずラベリングしながら確認していく。
上述の『マハーサティパッターナ・スッタ(大念処経)』と『アーナーパーナサティ・スッタ(出入息経)』においては、「ラベリングするように」とは記されていないが、今のあるがままの状態を仔細に観察、自覚するという意味で、これもヴィパッサナー系の瞑想のひとつと言っていいだろう、とプラユキ・ナラテボー氏は解説する。
4 「サンマー・アラハン(正・阿羅漢)」瞑想法
ワット・パクナムの故プラ・モンコン・テープムニー師によって編み出された瞑想法である。伝統寺院のパクナム寺および、パクナム寺から分院したあと、現代テクノロジーなどもふんだんに取り入れ、近代的な装いでタイの都市新中間層の人気をあつめるバンコク郊外のタンマカーイ寺。そして、その末寺でこの瞑想法がおこなわれている。
この瞑想法では、姿勢を正して座ったあと、呼吸を整え、「サンマー・アラハン(正・阿羅漢)」と唱えていく。
そして「水晶玉」や「光の玉」をまず鼻孔のあたりにイメージし、そこから目頭の中心、のど、へその上へと「球」が安定するように繰りかえし「サンマー・アラハン(正・阿羅漢)」と唱える。
この球への精神集中が強まるにつれ、心はととのい、情緒の安定がはかられる。さらに、球から光が発するのが見えたり、さまざまな仏像の姿が見えてくるにつれ、心の境地が次第にすすんでいくとされる。
この瞑想法は、イメージトレーニングによって高度の集中力をはかっていくサマタ系の瞑想といえよう。
この瞑想法は、今回の旅でも体験した。ワット・マハータートは学問寺の僧院の教室であり、建物は立派だが中身は質素なものだ。だが、この9月17日のタンマカーイ寺系列と思われる瞑想会では、アソーク駅そばの豪華なホテルを利用し、コーヒーも、上等な皿にもられたケーキもフルーツも食べ放題である。スクリーンにプロジェクターで映しながら法話し、そして後半の瞑想がはじまると、室内の照明がすべておとされた。闇の中で、静かな僧の言葉の誘導のもとに、全員がサマタに入るのである。頭頂から、額から、眉間から、順次に力を抜かせていく。そして体内の中心に意識を誘導する。だが、その闇の中の低い誘導の声を聴きながら、「これは集団催眠じゃないか」と私は非常に驚いた。一時間が過ぎ、瞑想の終わるときも、催眠誘導法の手順にしたがい戻しの誘導が行われていた。すこし催眠誘導法を学んだことがある。そのままである。これは危険だ。
あとでネットで調べて、そうかあの事件になったタンマカーイ寺系列と納得したが、しかし、瞑想法自体は、なかなかよいものだと私は感じた。タンマカーイ寺系列が多数の信者を獲得したのは、他の僧院のように、個人と個人のレベルで、修行と厳しい内観をしいるのではなく、このような集団での誘導をするからであろうか、とも感じた。アメリカの新興キリスト教団をまねたのだろうか。正当な上座部のやり方ではない。
タイのどの寺院でも、外国人でも遠慮なく勝手にはいって、勝手に瞑想する。始める時間も、終わる時間も勝手だ。布施は出してもよく、出さなくても良いが、私も誰も見ていなくてもドネーションボックスに100バーツ程度入れる。だが、ここではテーブルの向こうに僧が座り、その僧の前の金刺繍のされた綺麗な織物の上に、綺麗なタンブン用封筒に入れて、たがいに礼をしあいながら、うやうやしく置くという「様式」だった。僧への直接手渡しではないが、でも破戒になるよ。新しいビジネスモデルということか。世界に教祖の説教をネット配信しているらしい。
まあ、教団はともかく、瞑想法自体は悪くないと思う。方法論としては、ある意味、現代的、いそがしい資本主義社会向けかもしれない。どの内観法も「自律」が原則だが、時間と意志のかかる「自律」はむつかしい。少数派のものだ。大多数者は常に「他律」であり、催眠誘導法でも、自己催眠より他者催眠のほうが深い地点に達する。だから教団発展の商業的方法論としては、有り得る。ただ、大衆誘導であり、誰が主催するかで、きわめて大きなリスクがある。人は、みなエルンスト・カッシーラー、エーリッヒ・フロムのいうとおりだからである。また催眠誘導でも、被験者は施術者に強い依存心を持つようになる。それがカリスマ誕生の原理であり、きわめて危険である。どの宗教も、この原理を知らずに活用しているが。このやり方は、かならず危険な方向にながれる。もらった日本語経本では、サンガに帰敬する経文を、「サンガ」に対して礼拝しますを、「僧」に対して礼拝いたします、とこっそり書き換えている。
さて、正統派であるワット・マハータートでの Insight Meditation 修行の記憶の整理である。
① Standing Meditation
② Walking Meditation
③ Sitting Meditation
大阪で、スマナサーラ長老から学んだヴッパーサナ瞑想と内容はまったく同じである。ミャンマーのマハーシ長老が開発して在家むけの平易なメソッドである。問題は、英語でのラベリングの言葉である。あとはタイの指導僧のからだと足の動き、声のリズムや調子や「間」の取り方などだが、これは言語化できない。こまかい心の持ち方、はこびかたは教えられた。とくに Body and Mind である。おそらく、複雑な言葉を使ってはいけないのだろう。たぶん、赤ちゃん語がよいのかもしれないと思った。このラベリングを使うやり方が正しいかどうかは分からないが、すでにメジャーであり入門編としてここから入ろうか。その後に他のメソッドも試してみよう。
① Standing Meditation
「 Standing 」「 Standing 」 「Standing 」
Be mindful of the standing position. Try to be aware of “body” standing not “I” am standing.
② Walking Meditation
これは六段階があるが、自分にあったものでよいのだろう。
1. Right goes thus, left goes thus
2. Lifting, treading …右、左
3. Lifting, moving , treading
4. Hell up, lifting, moving, treading
5. Hell up, lifting, moving, lowering, touching
6. Hell up, lifting, moving, lowering, touching, pressing
壁まで来たら、「 Standing 」「 Standing 」 「Standing 」Meditation
45度づつ、3回にわけて、「 Turnig 」「 Turnig 」「 Turnig 」Meditation を行い、「 Standing 」「 Standing 」 「Standing 」を行い、また逆方向に Walking Meditation を行う。
③ Sitting Meditation
「 rising, falling 」「 rising, falling 」「 rising, falling 」
日本語では、「ふくらみ」「縮み」が使われるが、この言葉は、自分にあったものであればよく、何国語でもよく、自分のサティにマッチするものであれば、なんてもよいのだろう。催眠誘導法でもそうだが、複雑な言葉より、シンプルで短い言葉がよいのだろう。
問題は、かならず生じる雑念をどう払うかである。つまり、常に活発な脳の働きを、どう止めるかである。瞑想を体験するとは、自分がいかに雑念のかたまりであるかを体験することだ。そして、そのカットするやり方が重要となる。私の思いついた理屈によれば、瞑想の本質は、五蘊の「色」「受」「想」「行」「識」という人間の思考の流れと発生での、「色」と「受」の段階で止めて、「想」以下をカットするのが瞑想の本質ということになる。つまり、「色」「受」という、この脳の働きのすくない段階でカットし、「色」「受」のみの単調な繰り返しを行い、つぎの「想」「行」「識」という脳エネルギーを大量に消費する、ニューロンを酷使する段階にいたらせないのが瞑想の核心であると思いついた。「想」で「我」が発生する。おそらく脳の別の「野」に飛ぶ。サーンキヤ派でいえば、無数のプルシャがあるが、それぞれのラジャスつまり「我」が発生する。以後は「我」が中心となる。私の考え、私の思い、私の怒り、私の嫌悪などである。瞬間に出る。この「想」「行」「識」は、まず海馬、偏桃体、前頭葉前野などの作用であろうが、偏桃体の情動記憶などから発する強い妄見をともないながら、一気に脳皮質にラジャスが展開する。「我」の条件反射である。だが瞑想は、おそらく海馬段階でカットし、「我」を発生させる、その働きをになう脳内の「野」を休ませるのだ。そして今日、意識は視床-大脳皮質系の働きであると統合理論的に説明されている。ここで変性意識が生じるのであろう。変な脳波も、そりゃ出るさ。これが瞑想の本質だと直感する。
この発見が今回の旅の成果だ。ここから逆算すれば、人は、積極的に継続的に瞑想するしかない。ヨーガ・スートラの冒頭の目的宣言は、ヨーガの目的は「心のはたらき止滅」であるとする。ジュリオ・トノーニ、 マルチェッロ・マッスィミーニの『意識はいつ生まれるか』を読んだが、その統合理論的説明は確定定説ではないようだが、意識が発生する脳ニューロンのネットワークを「統合させない」のが「心の止滅」であると、とりあえず考えておこう。というより、海馬段階でカットすることか。外部情報「色」を、海馬で「受」し、偏桃体や前頭葉に引き渡さないことである。そんな気がする。情動記憶をになう偏桃体が「想」の動力因であろう。すると前頭葉が「識」か。無理やり五蘊にこじつけているが、あたっているかも知れない。ハーバード大学の研究では、瞑想により海馬が大きくなり、逆に偏桃体が小さくなるという。
ワット・マハータートの指導僧は、Monky mind 雑念の対処法として、逆らわずに「 thinking, thinking, thinking 」「 feeling, feeling, feeling 」「 hearing, hearing, hearing 」「 pain, pain, pain 」と三度ラベリングして、それで捨てるように教える。スリランカもミャンマーもタイも、上座部では同じ教えを指導する。すこし前途は遠いが、進めてみよう。理屈を思いついた以上は、自分の脳とからだで実験しょうじゃないか。
そして思うのだが、五蘊の「色」「受」「想」「行」「識」という人間の思考の流れを、「色」「受」のみで止めることは、日常生活の態度においても、おらそく正しい。われわれの思考習慣は、目の前の真実より、すでにできあがった羞恥、嫉妬、怒り、偏見の「想」「行」「識」が、物事に伴う自動作用として瞬間的に、条件反射的に展開するからである。個々の煩悩にともなう、過去の体験やトラウマにともなう妄見と偏見が瞬間にあふれ出る。自分に対しても、人に対しても、眼前の「色」「受」に対して、正しく見れない、脳が見たいように世界を見る。これが人間の仕組みであろう。ロシアフォリマリスト達の言っていた言語の牢獄、あるいは精神の自動作用である。
さらに考えてみると、内観の段階を超えて、ここまでかかわるか、どうかが、欧米の精神の健康法としての瞑想と、仏教系瞑想の大きな差となると思う。私は仏教徒ではないが、地域と立場とものの考え方だが、背景となる文化の内容もかかわるが、アジアでは仏教式で正しいと認める。小乗瞑想と大乗瞑想という言葉をでっち上げたいくらいだ。あっ、それいい。小乗瞑想と大乗瞑想である。