扁桃体史上主義 その7

カール・ユングは「私たち一人ひとりのなかに、私たちが知らない別の人がいる」と言った。ピンク・フロイドは「僕の頭のなかに誰かがいるが、それは僕じゃない」と言った。

デイヴッド・イーグルマン『意識は傍観者である』の原著は、Incognito: The Secret Lives of the Brain (Vintage)、〈イタリア語〉匿名者の意味である。私が私だと意識しているものは、脳のほんの一部分の作用に過ぎず、匿名であり、意識がコントロールできない部分を脳の大部分が占めると述べる。私たちの存在は、脳の活動に大きく左右されている。その一方で私たちの意識は、物事を認識するまでに脳内で起こっているプロセスには、全くアクセスすることができない。脳は無数のサブルーチン(サブエージェント)が行動という出力チャンネルを求めて競争し合う議会のようなものであり、また、人の脳内では複数の意思決定系がせめぎ合っており、最終的なアウトプットが選択される仕組みである。また既に良く知られている事だが、自覚的な意思決定の前に既に関連した神経系は活動を始めている。つまり意思をもっているこの私は、じつは真の意志決定者ではない。デカルトは「我おもう、ゆえに我在り」と言ったが、違うようだ。「意識」とは、脳の活動を統括する主体ではなく、単に脳の活動の最終段階を報告されるだけの傍観者であり、それは無意識のプロセスの結果であり、自分の中に正体不明の他人(匿名者)が存在しているようなものだというのである。

サーンキヤ派は、プルシャ(Purusa)がプラクリティ(Prakrti)を観照することで、まず最初に、統覚機能(buddhi覚、mahat大)が生じる。これは確認の作用を本質として、心理・精神・認識活動の根源をなす。この統覚機能が、さらにその中にあるラジャスによって開展を起こすと、自我意識(ahamkara我慢)が生じる。このそれぞれの個我は、三つのグナの配合率により、さまざまな性格を持つことになるのだが、自己への執着を特質として、「これは私のものである」「これは私である」といった自己中心的な観念の拠り所となる。また、この自我意識は、つねに統覚機能(buddhi覚、mahat大)を純粋精神、プルシャ(Purusa)すなわち自我であると誤って考える、とする。これがサーンキヤ派での意識、自我の構造である。自我意識(ahamkara我慢)は、つまり「意識」は、みずからを「これは私のものである」「これは私である」と認識するが、つまり、意識や自我は瞬間の生成であり、思う意識とは、じつは真の意識ではない、となるか。デイヴッド・イーグルマン『意識は傍観者である』が論じるように、純粋精神であるプルシャ(Purusa)も、ただの「傍観者」でしかない。仏教なら「無我」となる。外界は、唯識派のいう「識」の所産であり、シャンカラのいうように幻影であり、脳内現象である。

つまり、意識や自我は瞬間の生成であり、われわれが思う意識とは、じつは真の意識ではない、となるか。すると、二千年以上前のインドの瞑想者・哲学者はすでに現代の脳科学と同じ結論を出していたことになるのか、あるいは、ヨーガ実践の中で、考えたり感じたりしている自分と、見ている自分が分離されて、世界と同一化するという心的体験の所産なのか。

マイケル・ガザニガ『わたしはどこにあるのか』によれば、「脳には私という自我(self)を司るところなんてない。ないけど、脳がはたらいている過程で、世界のセットとして自我(self)というものをつくるんだ。困ったことに、ある時点で現れたと自我(self)いう化け物が、ぜんぶ支配するようになるんだ」とか。つまり、「私」というものを司るモジュールは脳の中のどこにもないらしい。

サーンキヤ派も認識手段としての瞑想を重視しているから、なにも行わない、観るだけの純粋精神としてのプルシャ(Purusa)は、禅定にある自分の投影であり、プラクリティ(Prakrti)は、あるいは禅定における外界の投影かも知れない。『サーンキヤ・カーリカー』によれば、「プルシャは(ブラクリティを)観照するために、またプラクリティは(プルシャの)独存のために、両者は結合する」とある。そしてサーンキヤ派やヨーガ派の立場では、自我意識(ahamkara我慢)は、その実態はなく、止滅されるべき現象だということになる。『意識は傍観者である』がいう自分の中に正体不明の他人(匿名者)が存在していることを、認識手段としての瞑想により、発見したのだろうか。それを頭ではなく、体感で理解できるまで禅定して学ぶのが、彼らのいう識別知(vijnaan)かも知れない。

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