石原莞爾 最終戦争論

どの土地にも神話が必要である。伝説の人物も必要である。つまり「物語」が必要である。第二次大戦における日本陸軍を論じる際に、つまり無策なまま暴走して自滅したわけであるから、人材不足であり、どの戦史評者も否定的言辞にならざるを得ない。唯一、能力をほめられているのが、石原莞爾である。関東軍作戦参謀として、板垣征四郎らとともに柳条湖事件を起し満州事変を成功させた首謀者であるが、のちに東條英機との対立から予備役に追いやられ、大戦中は無役のまま過ごし、病気のため戦犯指定を免れている。もともと頭脳明晰、陸軍の異端児とされるが、陸士・陸大の優等生であり、関東軍作戦参謀、参謀本部作戦課長をつとめている。これは彼が閑職である京都師団長の頃の講演を著作として世に出したものである。ちょうどバトル・オブ・ブリテン。ゲーリングのドイツ空軍がロンドンに大空襲をかけ、ドイツ陸軍部隊がイギリス上陸作戦の準備をしている頃の講演である。「バスに乗り遅れるな」という風潮の時代である。

昭和陸軍最高の頭脳とされる石原莞爾の論であるから、まず、よほどのレベルと期待したのは、わたしとしては当然である。だが、はじめは当惑し、途中からすこし呆れたというのが、読中、読後感である。私見だが、軍参謀は、なによりも軍事科学者でなければならない。日本陸軍の参謀本部は、その設計者がプロイセン陸軍のメッケル少佐であるように、プロイセン陸軍の参謀大学、参謀本部をモデルとして創られたはずである。クラウゼビッツ、モルトケ以来のプロイセン陸軍であり、それはドイツ陸軍として第一次・第二次大戦を戦う。それをモデルとして創られたはずである。それは、合理主義と科学的思考を第一とするのが本義である。彼我の戦力の合理的判断、正確なる情報と全体像の把握、個別事情の勘案など、科学主義、合理主義に徹している。かってな主観や、まして宗教感情はては占いなどの入る余地のない冷徹な世界のはずである。紀元前千年の中国での、焼いた亀の甲羅で戦争の吉凶を占う時代では、とっくにない。中国でも、紀元前500年には孫子が出現している。

そして評判の知能派の、名高い本である。読みながら、陸軍中もっとも頭のよいといわれた石原莞爾がこれでは、あの戦争は、これは勝てるはずはないと思うしかない。

日本軍は、日露戦争で進歩がとまったといわれる。海軍は、日本海海戦の「勝ち」パターンにこだわり、以後革新がなかったとか。補給に有利な日本近海において、長駆遠征して疲弊消耗している敵艦隊を待ちうけ、そして艦隊決戦を挑むのである。陸軍も同様に、日露戦争の夜襲、銃剣突撃のパターンから一歩も進めなかったとか。これはプロイセン陸軍の参謀少佐であるメッケルが指導した戦術である。日露戦争での日本陸軍の「作戦要務令」は、プロイセン陸軍のそれを、そのままコピーしたものを使ったとか。その旧プロイセン陸軍、日露戦争の思想と戦術で第二次大戦を戦ったのである。しかし欧米の諸国は、凄惨な第一次大戦を経験している。毒ガス戦争を経験し、航空機と戦車による殺戮を経験し、何年にもわたる塹壕で対峙しての機関銃戦、砲兵戦を経験し、国力のすべてを使い尽くす総力戦を経験している。戦争観、戦術思想も、おおきく進化したのである。ドイツの戦史作家であるパウル・カレルだったかの言葉に、「機械の戦争に、花咲く野にフラーをさけぶ死はない」という表現があったと思う。

たしか何の本だったか、第二次大戦のドイツ軍の将軍の言葉として、戦争とは、単一面積に対して、どちらの軍がより多くの鉄とガソリンを叩き込めるかだ、とあった。勝敗はそこにかかっていると。近代戦とは、そのとおりであろう。ナチス・ドイツ陸軍は、機械化兵団と戦車軍団による徹底的な機動戦を展開している。同様に、アメリカ海軍のキング元帥の言葉だったと思うが、戦争とは補給である、これがすべてである、と書いた本を読んだことがある。

日露戦争を基礎とする教育をうけた軍官僚である石原莞爾には、そのような近代戦術の思考はないようである。精神である。銃剣派と呼ばれるべきか。ソフトもそうであるし、ハードも、日露戦争の村田式を改良した三八式であった。わたしは、ずいぶんと戦史を読んでいる。いささか詳しいほうだろう。20代のころに、旧日本陸軍の「作戦要務令」「歩兵操典」を読んだことがある。前者は将校の、後者は下士官の戦術マニュアルである。内容は、こんな感じ「第4節 突撃
1、第68
突撃は兵の動作中特に緊要なり。兵は、我が白兵の優越を信じ、勇奮身を挺して突入し、敵を圧倒殲滅すべし。いやしくも、指揮官もしくは戦友に後れて突入するが如きは、深く戒めざるべからず。
兵は、敵に近接し、突撃の機近づくに至れば、自ら着剣す。
2、第69
突撃を為さしむるには、左の号令を下す。
突撃に進め
駈足前への要領により発進し、適宜歩度を伸ばし、「突込め」の号令にて喊声を発し猛烈果敢に突進し、格闘す。之が為、突入の少々前、銃を構う。
突撃を発起せば、敵の射撃、手榴弾、毒煙(注毒ガス)に会するも断固突進すべき。
3、第70
兵、突撃の要領を会得せば。各種の状況、地形において周到なる教育を行う。この際、突撃および射撃を反復互用する動作、手榴弾の投擲に連携して行う突撃、装面して(注:ガスマスクをつけて)行う突撃などに習熟せしむるを要す」です。
しかし、鉄条網と機関銃座で防御陣地を構築し、赤外線スコープと、電話型無線機、自動式のガーランドライフルとグリースガンを装備しているアメリカ軍に、これかと。これは無理だと思ったことがある。さて石原莞爾、この本の前半で、世界の戦史・戦術を語り、当時のヨーロッパ情勢を語っているのだが、それを受けて、世界は幾つかの地域の戦争トーナメント戦になるとの結論を得ているのである。そして、最終的には世界は、その勝者によって統一されると。もちろん、その最終戦、優勝決定戦のプレイヤーに日本はなるとの結論だが。

読む限り、その兵学思想は、やはり日露戦争の形である。彼は、ヨーロッパの戦争はドイツの勝利ですぐに終了すると考えている。バドル・オブ・ブリテンはドイツ空軍が敗北し、すぐにドイツがソ連に侵攻する、どのような形であれ、アメリカが参戦し、日本もヨーロッパの戦争に引きずり込まれるとは夢にも思っていないようである。それは30年後だと。この講演と著作化が昭和15年であり、翌16年に真珠湾攻撃が起こるのであり、世界情勢がまったく読めていないが、まあ、それはよいが…。

しかし驚くのは、世界を、戦争を、日蓮宗の教義から判断しようとしていることである。元参謀本部作戦課長・大佐、現京都第十六師団長・中将がである。石原莞爾は国柱会の会員であり、宮沢賢治もそうだが、熱心な日蓮宗の信徒である。たとえば、満州国をつくった際に「南無妙法蓮華経」の垂れ幕をさげている。国柱会は、今ならカルト教団と呼ばれるような団体だが、その特徴は、「末法思想」にある。

釈迦入寂後、千年は正しい法の守られる「正法」の時代であり、それから千年は、正しくはないが形は守られる「像法」の時代であり、それ以後の万年は、法が破られ道が廃れる「末法」の時代であるとの説である。
日本の仏教教団の大概は、法華経を根本としている。しかしいわずもがなだが、法華経はお釈迦さまとは何の関係もないというのが本当だろう。あれは、後世にインドで創作され、さらに中国で編集された偽経と見るのが、まあ、そんなものであろう。ふつう仏教史研究においては、
1.原始法華の成立は西紀前一世紀
2.第二期法華の成立は西北インドに於いて西紀後一世紀
3.第三期の成立は西北インドに於いて西紀100年前後
4.第四期の成立は西紀150年前後
とされる。それが中国でさらに変容する。そして飛鳥時代の日本に伝来される。

しかし日本では、猛威を振るう。日蓮は、元寇の到来を末法の一つの証として、みずからを末法の時代を救うという弥勒菩薩、本化上行菩薩だと称した。そして他宗に対する攻撃を開始した。石原莞爾が入っていた国柱会も、その、いわばカルト思想の系譜に連なる。そして、彼も時代は日蓮の予言どおりに進展していると、世界を観るのである。軍事専門家としての、現役の陸軍中将としての石原莞爾の判断ではない。予言がそうはなっていると彼はいうのである。ゆえに、絶対的にこれは正しいと。

そして「結び」において、「今までお話して来たことを総合的に考えますと、軍事的に見ましても、政治史の大勢から見ましても、また科学、産業の進歩から見ましても、信仰の上から見ましても、人類の前史は将に終わろうとしていることは確実であり、その年代は数十年後に切迫していると見なければならいないと思うのであります」との結論を出している。この時期の数十年後なら、昭和四・五十年ということになる。その時期に、最終決戦が行われるとか。日蓮の予言に照らしてもそうなるのである。「日蓮上人は将来に対する重大な予言をしております。日本を中心として世界に未曾有の大戦争が起こる。そのときに本化上行菩薩が再び世の中に出て来られ、本門の戒壇を日本国に建て、日本の国体を中心とする世界統一が実現するのだ。こういう予言をして亡くなられたのであります」

俊材とされた石原莞爾であるが、いまの流行語でいえば、肉食系ではなく実は草食系というべきか、牧歌的というべきか。グーデリアンやマンシュタイン、ジューコフやロコソフスキーとは別種の人間である。彼は、第一義的に詩人なのかも知れない。パウル・カレルの表現を逆用すれば、「花咲く野に万歳をさけぶ死がある」と思っていたのか。日露戦争の村田銃を改良した三八式を握ってである。世界を統一するのである。これなら、永田鉄山とともに、軍の近代化を企図したかも知れない東条英機のほうが、まだ先進的だったとすら印象させる。読後感は、いろいろな時代があり、いろいろな人たちが、それぞれの固有の「物語」、あるいは集合的な「物語」を持っているのだという感慨しかない。人は、かならずしも考える葦ではない。人は物語をかかえる葦なのである。まずはなんというべきか、まずは、その時代の「空気」を嗅ぐという意味では、よい「小説」であるということなのか。当時の「物語」を知る意味でも、である。

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