ローレンツ ソロモンの指輪 再読

 図書の整理の途中で、ふるい本を、つい再読している。ふたたび凡てを読み返すのではない。何十年前に読んで、すこし気になっていたところをパラパラめくるだけである。あの頃は、肩まで髪の毛を伸ばしていた。今は、リアップをしている。その間に、なにをどう感じるように変化したのか、そのようなセンチメンタルな感慨であり、また当時から、なにか腑に落ちなかった部分の読み直しである。 

 動物生態学者コンラート・ローレンツは、その著書「ソロモンの指輪」の中で、じつに興味深いことを述べる。ふつう我々は、狼を獰猛かつ残忍動物だとみなすいっぽう、鳩やノロ鹿を平和な生き物だと考えている。だが、それは大きな誤解だというのである。

動物に関する話には誤解が多い。本書はあちこちでその盲信を指摘する。キツネはずるいと言われるが、けっしてほかの肉食獣以上にずるいわけではない、聡明と考えられているワシはニワトリよりもバカである、などなど。

とくにローレンツが力説し、また示唆に富むのは、モラルと武器の関係である。ローレンツの観察によれば、おとなしいと考えられているウサギやノロ鹿、これは「バンビ」のモデルだが、また優雅なクジャク、平和の象徴扱いされるハトは非常に残酷だという。本来、人間と違い自然界の生き物は「同種殺し」はやらないと考えられていた。しかし、これらの「草食系動物」は場合によっては同種の相手を死に追いやる。他方、狂暴と思われているオオカミなどの「肉食獣」は相手を必要以上に痛めつけることはない。

この一般の盲信と異なる実態をローレンツは次のように分析する。

「ある種類の動物がその進化の歩みのうちに、一撃で仲間を殺せるほどの武器を発達させたとする。そうなったときその動物は、武器の進化と平行して、種の存続をおびやかしかねないその武器の使用を妨げるような社会的抑制をも発達させなければならなかった」

ローレンツによれば、自らの牙の危険性を熟知している狼は、仲間同士で戦う場合、劣性の狼が首を差し出して降伏の意思を表すと、優勢な狼はそれ以上相手を攻撃することはないという。同一群の狼に序列はできるが、いったん序列がきまるとそれ以上無益な争いをして傷つけ合うことはなく、それぞれの役割を果たしながら仲間同士助け合って行動する。

そのいっぽう、鳩やノロ鹿のように弱くておとなしそうな動物が仲間争いを始めると凄惨な事態が起こるという。たとえば鳩の群を大きな檻の中で飼ってみると、ストレスなどが原因で争いが生じた場合、強い鳩は弱い鳩を攻撃して殺してしまうばかりか、死んだ鳩の内臓が剥き出しになりズタズタに裂けた状態になっても攻撃の手を緩めない。小鹿のバンビのモデルになったノロ鹿の場合も同様で、いったん争いが生じると強い鹿は弱い鹿をとことん追い詰め、相手の内臓が破裂し絶命してもなお執拗に攻撃し続ける。人間社会と同様に弱者に対する集団攻撃も起こる。その種の残忍さは弱い動物が具えもつ特性であるという。

争いに負けた鳩やノロ鹿が通常絶命するまでに到らずにすむのは、広い自然界の場合、敗者が一時的に逃走することにより悲劇を回避し自己防衛をおこなうことが可能だからだ。ストレスがもとで集団内に争いが生じ、しかも弱者に逃げ場がないような時には見るも無残な結果になってしまう。鳩やノロ鹿などの動物にとって「逃走」は重要な意味を持っているわけだ。

ローレンツの考察によると、生来、人間という動物は鳩やノロ鹿と同様の生態学的特質を有しており、その本性はきわめて残忍なものなのだという。
 人間は文明的に進歩することによって、自分の体とは無関係に、急速に発達した武器をもつ動物となった。急速な武器の発達はその武器の抑制能力の発達を追い越してしまっている。ローレンツの言う武器に見合う「社会的抑制」がない、それが人類だというのである。

 かって岸田秀は、ローレンツからの引用であろうが、人間は人間を殺す、本能の壊れた生物との述べていた。してみると、人間なる生き物をオオカミのように信じることはできない。人間は、オオカミのようモラルを持つことが出来ない。さらに言えば、現代社会は「逃走」することのできない箱、人工的な檻である。この人工的な「檻」の中で、逃走することのできない人間は、さて、オオカミのようなモラルを持つことができるかどうか、ということだろう。これが人類の運命を左右する、というローレンツの言葉は示唆に富む。

 そういえば思い出した。わたしは島根県の出雲部で生まれ育っているが、出雲には「狐憑き」というものがある。誰かが、ある家のことを「狐が憑いた」と噂を流す。すると、その家は地域から排除されて、いわば村八分。その家から嫁にいった娘は、かえされる。理由はない。「狐憑き」の血は、排除されねばならないからである。その家は、社会的な死を集団により与えられる。ムラは、集団で社会的殺戮をはじめる。江戸時代、明治、大正、昭和二、三十年代、その家はどこにもいけない。つまりムラという檻から「逃走」できない。貧しく陰湿な山陰から、逃げ出せないまま、切り刻まれるのである。本能だけでなく、モラル・文化も狂っているということになるのか。つい昔のことだが。

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