英人社長に何が起こったか?

  少年時代、「ヒチコックマガジン」の愛読者だった。ノックスの十戒(Knox’s Ten Commandments)やヴァン・ダインの二十則を基準に、そこらの推理小説を批判して賢ぶっていた少年だった。たとえば、最後に警官が犯人だったというのは「フェア」ではないとか。二十則に反しているとか。今の推理小説も、この基準に照らして「フェア」ではなく、読むほどのものは皆無と勝手に決め付けている。やはり、現実の「事件」のほうが、推理小説作家の脳水準より、はるかに興味深く、読むのに体力がいる。

 「オリンパス」事件である。その謎である。

 何代か前の社長時代の失敗を糊塗するため、代々の社長がその隠蔽をはかり、最後には「飛ばし」による粉飾決算を行う。必ずしも私的な金銭利得のためではないようである。しかし、新任の英人社長が気づき、追及しようとすると、取締役全員一致の決定により、英人社長は即日解雇される。そして、日本の企業体質を象徴する事件として、国際的にも注目をあびることになる。英人社長は、とうぜんの正しい行動をした。ところが、会長、取締役全員は、彼を排除した。「なにが英人社長に起こったか?」という事件である。また、「何が日本人取締役達に起こっていたか?」という事件である。

 発端はFACTAのスクープだが、オリンパスは2008年に産業廃棄物や電子レンジ用容器という本業と無関係な零細企業を200億円以上で買収し、イギリスの医療機器メーカーを株価より40%以上高い2117億円で買収。おまけにそれを仲介した「飛ばし」業者に、3割以上の法外な報酬を支払った。

 このFACTAのスクープを読んだ英人社長ウッドフォード氏は、問題を深刻に受け止めて、菊川会長の辞任を求めたが、逆に取締役会全員一致で解任された。英人社長が社外に公表し、第三者委員会が調査した結果、オリンパスは90年代から「財テクの穴埋め」のために企業買収額を水増ししていたことが判明する。監査法人も、じつは知って、黙っていたようである。菊川会長は辞任に追い込まれ、その後1ヶ月で、株価は80%以上も下がり、東証は報告書を出さない場合は上場廃止とすると通告、オリンパスは、窮地に追い込まれる。

 この事件・社会現象の特徴は、問題を告発したのが英人前社長だという点である。ある意味、オリンパス経営陣の「外部の人間」だということである。彼がFACTAを読まなければ、オリンパスのブランドは守られた。それが会社ぐるみの隠蔽工作の理由であろう。
 しかしオリンパスは日本の会社だが、株を保有しているのは世界の株主である。英人社長が、すでにFACTAに書かれて世間に出回っている自社の問題点を放置すれば、世界の株主は黙らない。株主代表訴訟に持ち込まれれば、取締役達はひとり数十億円の賠償金を求められるだろう。そのリスクを避けるために事実を公表した英人社長は、株式会社の原則よりすれば、合理的な正しい行動である。

 逆に、日本人取締役達が問題を隠蔽「先送り」したのは、「自分だけが秘密をもらすと地位を失い、失業者になる」というリスクを意識したからだろう。だから、取締役全員一致で、ウッドフォード氏がこの問題を取締役会に提議した瞬間に、社長を解雇した。すると、個人の訴訟リスク・会社のコンプライアンスを重視するか、組織の「和」を乱して組織から追放されるリスクを重視するか、という二択判断となる。そして、全員、「外国人」ウッドフォード氏の排除を決定する。

 なぜ、この日本の組織は、そのような非合理な決定をするのか? 山本七平は、「空気の研究」の中で、周囲に同調する「空気」こそが判断の決定要因であり、そして「空気」による意思決定というより合理的決定の放棄が、日本を敗戦に導いたと指摘した。オリンパスも、日本社会の中で、それが「ウチ」で処理できる時は、合理的な行動ではないが、成り立たないわけではない。昔の日本企業は、粉飾まがいの処理をしても、銀行がOKすれば、会社は存続できた。しかし時価会計で資産評価が公表され、世界中の株主がそれを見る時代には、社内の「ウチ」の「空気」では問題をコントロール・処理できない。つねに外部の目を意識しないと、グローバル資本市場では存続が許されないのである。「閉じた社会」から「開かれた社会」に移行せねば、世界マーケットから排除されるのである。

 「何が英人社長に起こったか?」また「何が日本人取締役達に起こっていたか?」

 幾何問題の解決には、適切な「補助線」を引くのが一番である。
 この場合は「空気」だろうか。
 不正を働く社員は、「そういった空気が社内にあったからだ」という。それを咎めなかった上司は、「不正を容認せざるを得ない空気があった」という。人や組織は、常に合理的な決断をするとは限らない。感情に左右されることもあるが、「空気」も、意思決定プロセスにおいて重要な意味を持っている。では、「空気」はなぜ発生するのだろうか?どのように発生するのだろうか?

 Harvard Business Review(HBR)1月号「日本軍『戦略なき組織』 検証 失敗の本質」の記事とダイヤモンド社「失敗の本質」、慶大菊澤氏『組織は合理的に失敗する』の文章を読んで、少しそのメカニズムをオリンパス事件に援用しようという気になった。

 「意思決定プロセスにおける「空気」~戦艦大和沖縄特攻作戦」

 まず論文は、新制度派経済学、ノーベル経済学賞を受賞(2009年度)したオリバー・E・ウィリアムソン氏の「取引コスト経済学」を説明する。

 これまで正当派経済学つまり新古典派経済学では、完全合理的に効用を最大化する人間が仮定され、このような人間観に立って市場の効率性が数学的に説明されてきた。これに対して、ウィリアムソンは人間は限定合理的であり、すきあらば利己的利益を追求する機会主義的な性格をもつものと仮定した。 そして、このような人間が市場で知らない人々と取引する場合、相互に駆け引きが起こり、多大な取引上の無駄が発生することになる。この取引上の無駄のことを「取引コスト」と呼ぶ。

 この取引コストを節約するために、知り合い同士の取引が生まれるということ、つまり組織が形成されると主張したのがウィリアムソンなのである。この同じ取引コスト節約原理にもとづいて、さまざまな組織のデザインも説明できるし、なぜ企業が垂直統合を行うのかも説明できるのだ。

 また、この取引コストが発生するために、個別合理性と全体合理性が一致しないという現象が起こるだ。つまり、現状が非効率なので、社会的にみてより効率的な方向へと変化すればいいのだが、変化するには多くの利害関係者と交渉取引する必要があり、そのために膨大な取引コストが発生する。この取引コストを考えると、非効率的な現状にとどまる方が合理的になるという不条理が起こるのだ。

 太平洋戦争時の「戦艦大和の沖縄特攻作戦」も、「出動させざるを得ない空気」によって決行されたという。
 山本七平は日本軍組織の意思決定プロセスに注目し、空気の存在とその非合理性を追求した。そして、空気による非合理的な意思決定に失敗の本質があると結論づけた。この山本七平が空気論の典型として取り上げたのが「戦艦大和の沖縄特攻作戦」である。海軍上層部というエリート集団が、なぜ、大和特攻のような非合理的な作戦の決行を決断したのか。これについて山本七平は、「そういう空気があった」からだと言う。すなわち、戦艦大和艦長は、大和特攻作戦について論理的に納得したわけではないが、空気に従い決断した、というわけだ。

 「大和の燃料は沖縄までの片道分であり、護衛機がつかない。そんな状態で沖縄へ到達できるのか。沖縄まで到達できなければ意味がない。むしろ、大和は本土決戦で米軍と刺し違えるべし」
 時の水上艦隊司令部、伊藤長官の考え方は、極めて合理的である。
 しかし、派遣されてきた参謀長の、
 「一億玉砕の魁になってもらいたい」
 という懇願の元、理詰めで反論していた伊藤長官は、一転沖縄出撃を了承した。
 「我々は死に場所を与えられたのだ」
 と大和乗組員、および、護衛艦長達に伝え、全員が納得したと言われる。
 これは、論理的に納得したのではなく、「空気」の決定に従ったためだと、山本七平は分析している。

 伊藤長官および護衛艦長たちが、なぜ反対意見を取り下げ、「空気」の決定に従ったか。Harvard Business Review1月号「日本軍『戦略なき組織』 検証 失敗の本質」の記事と図書「失敗の本質」では、当時の関係者インタビューも加味し、ウィリアムソン氏の「取引コスト理論」をこの問題に展開して、以下のような考察を行っている。

1. 特攻作戦の非合理性と非効率性は明確であったが、それを訴えると、熱情型の軍人から卑怯者と揶揄されることが十分予想できた。冷静、かつ、論理的に反論しても、言い逃れと受け取られる恐れがある。軍人にとって、卑怯者と罵られるのは、耐え難い苦痛であった。
2. 沖縄方面の戦況について、天皇から「海軍にもう艦はないのか。海上部隊はないのか」とご下問があった。海軍上層部はこれを「水上艦艇は何をしているのか」という叱責の言葉と受け取った。
3. 若く未熟なパイロットを中心とする神風特攻隊、陸軍特攻攻撃を展開している最中、海軍水上部隊だけが無傷でいるわけにはいかない、と海軍上層部は考えた。水上部隊は役立たずと見られ始め、そういう偏見が定着すると取り除くための労力は非常に大きなものになると考えた。
4. 敗戦が濃厚であり、大和を温存すれば戦勝軍に没収され、戦利品として見世物にされることを恐れた。事実、戦後、海軍の戦艦は水爆実験の的として利用された。

 海軍のような「戦闘プロ集団」のはずの集団でさえ、合理的効率的に意思決定がなされなかった。これらの要因を「取引コスト」という。このコストは、会計上目に見えないコストであるが、殆どの人間はその存在を認識できる。そして、「空気による意思決定」に反論するためには、参加者が負担する取引コストを低減し(ゼロになることはありえない)、利害を一致させる提案でなくてはならない。それができなければ、「空気」に支配された不条理な意思決定がなされる可能性は高いのである。当時の海軍関係者は、もっとも「取引コスト」の安い、楽な決定を選んだ、個々人が主体的に選んだということのようだ。

 つまり山本七平の空気論に対し、海軍上層部は合理的思考のうえに大和特攻作戦を決断したとして、その意思決定プロセスを説明するのが、菊澤氏の「合理的に失敗する組織」等での指摘である。 

 海軍上層部にはそれなりの合理性があったはずである。山本七平が言うように、「非合理的空気」が初めから存在したというのでは、彼らの論理性、意思決定プロセスを説明しているとは言い難い。山本七平は、どのように「空気」が発生するかについて説明しないが、菊澤氏はそのメカニズムを解き明かす。

 人間同士が取引する場合、多くは駆け引きが生じる。ここに多大な無駄が発生し、それを取引コストと呼ぶ。この目に見えないコストが人間を不条理に導く。場合によっては、反社会的行動に導く。論稿では、戦艦大和の沖縄特攻においてどのような取引コストが発生したかを示す。「軍人として卑怯者と罵られることで被る取引コスト」「天皇を説得するための取引コスト」「海軍は役に立たないという偏見が定着した場合のこれを取り除くための取引コスト」などを挙げ、海軍組織が戦艦大和の沖縄特攻を「合理的に判断した」ことを説明している。

 ここで用いられている図式と「取引コスト」という概念を、先代社長から「財テク失敗」による粉飾と「飛ばし」を受け継いだ前社長で現会長、英人社長を全員一致で解任した取締役達に当てはめると、それがスッパリと当てはまりすぎて、なにやら物悲しい。自社の、もし社会に知られれば大きな打撃をうける真実を公表することによる「取引リスク」の重さ、しかし、英人社長の解雇で予測されるデメリット計量の「取引リスク」の量は? 実力者会長の辞任を求めて反撃された場合、失業は覚悟せねばならない「取引リスク」の重さ、この「ウチ」の論理は、非合理的、反社会的にならざるを得ないと述べるが、その結果、取締役全員は「ウチ」の論理に従い、反社会的行動を選択する。戦争に行っても、自分だけは弾が当たらないという心理だったのだろうか。その結果、オリンパスは売りに出されることになった次第だ。経営陣のミスの隠蔽が、その全員一致の決定が、会社の存続にまで拡がってしまった。

 「取引コスト理論」的に考えれば、
 まず、ウィリアムソン的フレームを用いれば、英人社長も日本人取締役全員も、ふつうの人間として完全に合理的でなく、また完全に非合理的でもない。
 オリンパス内部に積年の不正が内在していたことを全員が知った。全員が合理的なら、すぐに事態を段階的に、社会の理解をある程度得れる形で公表し、損害を最小限にとどめたはずだろう。FACTAのスクープで、それが社会に漏れている段階で、全面隠蔽など、できようはずもない。利害関係者全員が、その状況と、全面隠蔽による多大なリスクとコストを理解したら、より正しい方向に修正せねばならないところだ。しかし、それにも自社の反社会的行動を暴露するというコストが伴う。会長の辞任を要求するというコストも、サラリーマン取締役としては、きわめて大きかろう。これが、オリンパスの取締役会を不条理に導く。
 オリンパスにとって、不正を公表することに伴う人間関係上の取引コストが、それぞれの取締役にとってあまりにも大きければ、公表することによるメリットを差し引いても、不正の隠蔽のほうが得と個人的に判断されることもあろう。
 この場合、オリンパスにとっての社会的合理性と、組織の個別合理性は不一致となる。オリンパス取締役達は、個別合理性を選択したほうが得との判断の下で、不正の隠蔽と、外部人である英人社長の排除を全員一致で決議する。
 この時、オリンパス取締役会のメンバーの行動は、違法、反社会的となる。彼らはそれを自覚している。自分の正当性を公言できない。沈黙するしかない。やましき沈黙、これが「空気」発生のメカニズムだと菊澤氏は「合理的に失敗する組織」で述べる。人間関係を重視してきた日本型組織では、人間関係上の取引コストが発生しやすく、人々も容易にそれを認識する。メンバーは、その取引コストを即座に計算する。そこに「空気」が発生し、メンバーは「空気」に支配される。「空気による意思決定」となる。はじめから「空気」が存在したのではなく、一人一人が合理的に計算し、その結果、沈黙して大勢に従うことが得だという点で、オリンパス取締役会メンバーの計算が一致したのだ。彼らは「合理的」に「空気」を生み出し、それに従ったことになる。これが「取引コスト節約原理」である。ウィリアムソンの取引コスト理論を援用すれば、以上のようになるだろう。

 一方、英人社長のように、オリンパス組織内の人間関係が薄い人、組織の外部の人は、「ウチ」にある人間関係上の取引コストの存在を、つまり「空気」を十分に認識できない。またそのような内なる限界合理性をひそかに肯定する思考習慣はない。オリンパスの粉飾決算と「飛ばし」を、会社に危機と損失をもたらす反社会的行動であり、違法かつ非合理と見なす。そして異議を申し立てる。ところが逆に、全員一致により追放される。英人社長の表現によれば、イディオット、愚か者達によってである。

 そう言えば、ニセ・ユダヤ人イザヤ・ベンダサンの著書「日本人とユダヤ人」の中で、ユダヤでは全員一致の意見は、排除されるとあった。議論において本来ありえない全員の一致が生じたということは、それは偏見か強圧に基づくものであり、行ってはならないというのがユダヤ的叡智であるとニセ・ユダヤ人は述べていたと思うが。

 菊澤氏は、戦艦大和を論じて、知性の自立と他律を述べる。これから脱却できる知性は、カント的意味での「啓蒙された人」と論じるのだが。まあ、カントは現代日本のサラリーマン社会の人間ではないから、正論が言える。集団の中のその他大勢、取替えのきく一人ではなく、孤立した知性であるから、一応、正しいことが言える。オリンパスで言えば、準軍隊組織である企業において、そのような組織の心理、行動様式に反することが、つまり組織人としての立場に反することが、いくら「啓蒙」されていても可能かとなると、日本的組織の中にある限り、それはないだろうが。菊澤氏の机上の意見は、現場組織では、これは難しかろう。

 私見だが、クラウゼビッツ「戦争論」では、戦争は敵味方の衝撃の動的な相互作用であるとし、作戦計画もつねに現実の予測不能の「摩擦」にさらされると、「摩擦」概念を述べている。これは「取引コスト」もその一種として捉えることができるだろう、かな、どうかな。すこし違うか。「摩擦」は偶発的であり、「取引コスト」は意識的・無意識的で、ある意味主体的、自己完結的であるか。「取引コスト理論」と「摩擦理論」を、すりあわせることはできないだろうか。「摩擦節約原理」として、クラウゼビッツとウィリアムソンをギメラ化でないだろうか。いや、できそうだな。わたしがMBAの子なら、ひと屁理屈つくりあげるところだが。

 ともかく、英人社長ウッドフォード氏は、取締役会の室内において、社会に通用しないウチなる論理「和をもっと尊とし」となす菊川会長はじめ取締役全員の冷たい「目」にさらされながら、その室内に充満するアジアの異国の不気味な「空気」の中で、孤立無援のまま、社長としての、異端者としての死を宣告されたわけである。その時の、氏の驚き、心理は、察するにあまりある。「文明の遭遇」ならぬ「異国文化の衝撃」であろう。そして彼は、のちに「愚か者」という言葉の入った題名のFACTA関係者でオリンパス事件をスクープした著者の本に登場することになる。この題名は、解任された元社長マイケル・ウッドフォード氏が著者に問いかけた「どうして日本人はサムライと愚か者(イディオット)がこうも極端に分かれてしまうのか」という言葉からつけられたものだとか。ここにいう、「サムライ」とは、オリンパスの不祥事を正そうとして内部告発した社員やFACTA関係者、この本の筆者のことなのかと。「愚か者」とは、ウッドフォード氏を解任した元会長・社長の菊川氏と同調する経営陣、広報担当、筆者のスクープを後ろ向きにしか検討しなかったマスコミ、今回の粉飾を指南した某証券会社の人間、同社を上場廃止にしなかった証券取引所、あるいは筆者の主張に沿えばその裏で糸を引いている某銀行の人達のことか。

オリンパス騒動に関して、「自壊する「日本型」 株式会社 オリンパス症候群(シンドローム)」(チームFACTA著 平凡社)という本が出ている

本書はFACTA関係者、元日本経済新聞証券部記者の阿部重夫氏(雑誌FACTA編集発行人)と磯山友幸氏、松浦肇氏と元財務官僚高橋洋一氏による4人の共同執筆。オリンパス事件の背景とそれに連なる歴史を当時の新聞記者と官僚がわかりやすく解説した興味深い図書である。

1.言えない秘密(タンスの中の骸骨:Skeleton in the closet) 失われた20年の正体

20年前、本書は、山一証券が破綻した頃の話から、金融史の裏側の解説が始まる。失われた20年(lost 2 decades)の根源を著者達はえぐり出す。25年にわたり「飛ばし」を隠していたオリンパスの正体こそ、世界からは日本の不振の謎の答えであったと述べる。損失隠しを「ウチ」のためだと3代(下山敏郎、岸本正壽、菊川剛)の社長らが株主の金を使って不始末を処理してきた。
なぜ日本を代表する企業のひとつオリンパスがこのような不正を続けることができたのか。それは日本独特の「ウチ」という概念があると、著者達は指摘する。反社会的行為であるにも関わらず「会社のため」という身勝手な美徳で化粧した「ウチ」を信じ込んでいる経営者、役員たちこそが日本の病巣であり、失われた時代がまだまだ続くこと冒頭で述べる。

2.角谷通達によるバブル崩壊から始まるオリンパス事件簿とか

1985年下山社長の時代に、オリンパスは、プラザ合意による急激な円高による営業利益の減少をうけて、積極的な金融資産の運用(財テク)に走しる。5年後の1990年、バブル崩壊により損失が膨れあがったために、一層ハイリスクハイリターンの金融商品へと邁進する。その当時、もてはやされた金融商品が特定金銭信託(特金)とファンドトラスト(ファントラ)である。本書では含み益を計上しなくて済む金融商品と説明している。企業にとって、含みの利益を計上して税金を払うことは避けたいことが本音なので、広く企業に受け入れらた。この商品を開発したのが野村證券。原理は単純で、価値が変動して解約しない限り利益が確定できないことを理由に、税金の支払い義務がないこと。そして、これを担保にして銀行から融資を受ければ、企業としては借り入れとなるために、本業の利益を圧縮できるという理由からだ。

しかし株価が軟調になると、一転して、証券大手は増え続ける損失補填で大蔵省に助けを求める。そして出された通達が、角谷証券局長の通達で、損失補填は禁止され、一任勘定は名目上では投資顧問会社へ移管させられる。この金融商品・特金やファントラの損失をタックスヘイブンのペーパーカンパニーへ「飛ばす」手口は山一證券が始めた。

3.山一の飛ばしという幻のスクープ

日経新聞証券部で不自然な山一証券の財務諸表に注目していた著者の一人である阿部重夫氏が、その名もペーパー・カンパニーという社名の海外企業を使って6300億円もの巨額な損失を飛ばしている証拠を突き止める。
破綻直前の山一証券の「飛ばし」と、オリンパスの「飛ばし」の違いは、額の大小の差でしかない。山一が破綻するほど巨額債務で、ほとんどの日本の代表的な企業、そして我々の掛け金を運用する厚生労働省の年金福祉財団(現在の年金積立金管理運用独立行政法人)は苦しんでいた。そしてその傷跡はいまだ癒えていない状態、それが「失われた20年」であり、今につづく「現状」でもあることを本書は述べている。

4.宮沢喜一首相の不良債権処理を先延ばしで葬った寺村信行こそA級戦犯者だとか

金融機関の40兆円という不良債権処理が緊迫の懸案となっていた宮沢喜一首相当時、大蔵省銀行局長は寺村という男だった。寺村は、あからさまに宮沢の公的資金投入案に反対した。後に「寺村先送り行政」と言われ、決定的な不良債権処理の好機を逃がす。ここでも大蔵省と銀行頭取らの責任問題をうやむやにするという「ウチ」という共通の倫理観が優先された。
しかしすぐにツケが回ってきて、日住金、拓銀、長銀、日債銀など大手が破綻することで、ひたすら先送りする寺村信行に批判が集まる。結局、大蔵省は最後まで寺村を庇い続けるが、「巨額損失みんなで渡れば怖くない」という大蔵省の役人により、たった6000億円で金融機関を救済する宮沢喜一の案を葬ったことが、日本経済の先行きの分水嶺であったのだと、本書は述べる。

5.エンロン破綻から綿々と連なる飛ばし請負人達

山一証券や長銀などの破綻が、最初の10年とすれば、Lost Decade(失われた10年)の二巡目は2001年に起きたアメリカのエンロンのサドンデス(突然死)が発端となる。
エンロンも、デリバティブに手を染め巨額損失はChewcoやJEDIといったペーパーカンパニーに隠していた。翌年には、通信会社ワールドコムも損失を隠すために38億円の架空利益による粉飾が発覚して破綻している。どちらもオリンパスは、この手口を踏襲しているようである。このような「飛ばし」を請負う連中がエンロン以降も跋扈しているらしい。

90年代のロスト・ディケイドに「飛ばし」という商法違反を行った体制が、形状記憶合金のように戻ってきたそうだ。オリンパスの問題は、たまたまラッキーなかたちで暴露されたともいえるが、誰もが薄々感じているように、リーマン・ショック以降の不良債権にフタをしている企業は、ほかにもたくさんある。これからはそこにメスを入れていかないと、オリンパスが単なる特異例で終わってしまいかねない、とか。

6.小泉政権の規制緩和は不良債権の飛ばしの手段となった

小泉政権時代にアメリカに習い、不良債権の証券化という手法が導入された。具体的にはSPCや任意組合、匿名組合といった監査の緩い事業体が認可される。当時竹中平蔵(金融および経済財政政策担当)大臣の元で財務局理財部長として働いた高橋洋一氏は、このSPCが結局不良債権の流動化ではなく、隠れ債務に苦しむ企業にとって飛ばしのビーグルとして使われたことを指摘している。

 だから第二のロスト・ディケイドの日本復活が頓挫したことと、オリンパスの不正経理スキャンダルは、実は裏表の関係にあるのだ、とか。

7.偽りのコンプライアンスと監視不在の日本

オリンパス事件の裁判では、被告側の弁明で「経営判断原則」が焦点になるとか。オリンパスは、今回の粉飾に関して企業存続と発展のためにやっていたことだから、経営側の責任を問うなという答弁をしている、とか。 オリンパスはこの企業社会の共通認識を悪用し、露骨に「M&Aは中核的戦略」として不正を隠した例であると、本書は指摘している。ウッドフォード氏が取締役会で議題をこの問題のM&Aにしたとたん、社長信任の議題へ変更し、役員全員が不信任に挙手するといった具合に、経営陣全員が一致して不正を隠すという行動に走っている。

8.結局オリンパスは誰の所有物だったのか?

解任されたウッドフォード氏が株主の委任状争奪戦を挑むが、すぐに諦める。撤退の記者会見で、理由は、メーンバンクの三井住友銀行がウッドフォード氏の復職を歓迎しないことであると述べている。

本書では、三井住友銀行の持ち株会社である三井住友ファイナンシャルグループが、不正会計に関与していたという疑惑もあるとした上で、現経営陣を温存したままいち早く「支援」を明言していることは、不自然であると指摘している。900億円もの融資先であるために不正を暴いたウッドフォード氏に協力を求めることが最善であるにも関わらず、逆に、頑なに排除する三井住友銀行には「銀行の利益にならない何かがある」と本書では指摘している。少なくとも日本では、その債権関係と株主構成により、上場企業経営者の生殺与奪は銀行が持っている。

9.株価が上がらないのは日本市場では支配プレミアムがないため

本書は、結局日本の株式市場が低迷している理由に、オリンパスのような不祥事に対して銀行側の債権保全が優先されてしまい、銀行と経営者間の「ウチ」の論理でかたづけられるからである、と説明している。このように株主の企業統治は形骸化して、オリンパスの再建案も、三井住友銀行系SMBC日興證券が主導して資本提携先を探している。株式には転売できる「物的証券」と配当を受け取る「利潤証券」、そして経営に関与できる「支配証券」という3要素があると教科書では示しているが、日本には支配証券としての価値は欠落していることを、本書では指摘している。

10.感想:P.F.ドラッガーも指摘していた日本企業の問題

本書の書評をWeb上で、ある人が書いていた。その人は「オリンパス症候群」を読了したところ、ドラッガーを思い出した、とか。既に1981年(昭和56年)の時点で取締役会が機能していない日本企業へはドラッガーも警鐘を鳴らしていることを、その人は指摘する。ドラッガーのキーワードに「モダン」(近代的合理主義)という単語がある。ドラッガーによるとモダン時代はジェームスワットによる蒸気機関で工業社会と同時にアダムスミスにより「国富論」が発表されたことで始まる。モダンは第二次大戦で終焉し、戦後は「ポストモダン」の時代へと移ったとドラッガーは説明する。さらにポストモダンとは「組織」の時代であると、ドラッガーは定義している。組織が大切だからこそ経営者は責任とマネジメントを重視すべきと喝破している、とのその書評人は言う。

大きな町工場でしかなかったかも知れないオリンパスに充満するのは、山本七平のいう言語化できない「空気」以前のものなのか、不足するのはマッキンゼーの7Sのいうシステムと価値なのか。オリンパスは、合理的に、つまり内部の限界合理性に従って、敗戦したわけである。映画「何がジェーンに起こったか」では、二人だけの閉ざされた世界で、妹ジェーンの姉ブランチに対する呪詛は消えず、やがてジェーンは姉の人生を支配する暴君と化してゆくのだが、英人社長、菊澤氏的フレームからすればとりあえず「啓蒙された人」は、三井住友銀行の登場を見て、あきらめて故国の家族のもとに帰る。

わたしは、「摩擦節約理論」がなんとか組み立て、でっち上げられないかと、いろいろ頭をひねりつづける。もちろん、計数的に把握、表現できる形でである。

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