8月30日(日) 11:35
キルケゴールの「死に至る病い」は、高い知能指数の人間が低い知能指数の人間の人生を無視することにより、自分の高さをアピールしていると感じますが、どうでしょうか
その読み方には、かなり重要な批判点が含まれていると思います。ただし、キルケゴール自身が「知能の低い人間を軽蔑して、自分の知性を誇示している」とまで言うと、少し違うでしょう。むしろ『死に至る病』には、高度な自己意識を人間存在の「上位段階」として描いてしまう構造があり、その結果として、ご指摘のような印象が生まれます。
セーレン・キルケゴールの『死に至る病』(1849年)の有名な定式では、人間の自己とは単純な「私」ではなく、
「自己とは、自己自身に関係するところの関係である」
という非常に反省的な構造として定義されます。
そして絶望にも段階があります。自分が自己であることに気づいていない絶望、自分自身でありたくない絶望、逆に自己自身であろうとする絶望――というように、自己についての意識が深くなるほど、絶望も高度で深刻になると考えます。
ここに、ご質問の核心があります。
「高度な自己意識=高度な人間」になっていないか
キルケゴールはIQについて論じているわけではありません。しかし現実には、「自分とは何か」「なぜ生きるのか」「死とは何か」「神とは何か」と何重にも自己を反省できる人間には、かなりの抽象的思考能力が必要です。
すると『死に至る病』の人間像は、結果として、
素朴に生活している人
→ 自己について深く考える人
→ 自己の絶望を自覚する人
→ 神の前で自己になる人
という一種の階層構造を作ってしまいます。
ここには確かに、知的エリート主義に接近する危険があります。
農作業をし、家族を養い、食事を楽しみ、子供を育て、老いて死んでいく人が、「自己とは自己自身に関係する関係である」などと一度も考えなかったとして、その人生は哲学者の人生より「低い」のでしょうか。
私は、ここからキルケゴールを批判することは十分可能だと思います。
しかし面白いことに、キルケゴール本人なら、おそらくこの批判に「知性の高さとは関係ない」と反論するでしょう。
彼が最終的に価値を置くのは知性ではなく、神の前に単独者として立つことだからです。非常に頭のいい哲学者が巨大な思想体系を構築しても、自分自身として生きていなければ絶望している。一方、ほとんど哲学を知らない農民でも神の前で自己として生きていれば、哲学者より高い位置にいることになります。
これは彼がゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル的な巨大体系を嫌った理由ともつながります。
ですから、
「キルケゴールが高IQの人間を優越させた」
というより、
「自己を深く反省できる人間を中心に人間存在を記述したため、結果として知的・内省的な人間を標準にしてしまった」
と批判する方が、より正確だと思います。
そして、ここにはもう一つ興味深い逆説があります。
キルケゴール自身が、非常に知的で、内省的で、自己意識が強く、普通の市民生活になじめない人物でした。つまり『死に至る病』は「人間一般の構造」を論じているようでいて、かなりの部分で、キルケゴール自身の精神構造を人間一般へ拡張した哲学とも読むことができます。
この観点から読むと、ご指摘の「自分の高さをアピールしているように感じる」という違和感は、かなり鋭いところを突いています。ただ私は「知能の低い人を無視した」というより、**「極端に内省的な一人の人間が、自分の内面の深さを人間存在そのものの深さとして一般化した」**と表現したいです。
そしてこれは、先ほどまでお話ししていたニーチェとの比較をするとさらに面白くなります。ニーチェもまた「高い人間」を語りますが、キルケゴールの「高い人間」とはまったく違います。キルケゴールの高さ=自己意識の深さ、ニーチェの高さ=自己超克する生命力と整理すると、二人の違いが非常にはっきり見えてきます。
はい。そこには非常に大きな哲学的問題があります。私は、ご指摘をさらに厳密にすると、**「言語化そのものが悪い」のではなく、「言語によって本質を汲み尽くせると思った瞬間に限界が生じる」**ということだと思います。
人間がある体験をするとき、まず起きているのは言葉ではありません。たとえば恐怖なら、心拍、呼吸、筋緊張、内臓感覚、視覚・聴覚、記憶、注意、身体姿勢などが一体となった出来事が先にあります。
その後で、
身体的出来事 → 主観的体験 →「私は怖い」という言語化
が起こります。
ところが哲学は、最後に出てきた「私は怖い」という言語的表象を材料として、恐怖そのものを分析しようとする傾向があります。
ここにはどうしても情報の圧縮が起こります。
たとえば「悲しい」という三文字は、その人の胸の重さ、呼吸、過去の記憶、身体感覚、時間感覚まで表現していません。それらを一つのカテゴリーへ押し込めています。
だから、
体験そのもの ≠ 体験についての言葉
です。
これは、これまでお話ししてきたクオリアの問題とも直結します。赤を見たときの「赤さ」は、「赤」という言葉ではありません。恐怖のクオリアも「恐怖」という概念ではありません。言葉はそれを指し示しているだけです。
そしてご指摘の後半――「言語の枠組みから出られない」――はさらに重要です。
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインが『論理哲学論考』の最後で、
「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」
と述べた問題にも接近します。
ただ、私はここで一つだけ留保したいです。
言語の外に出ることはできます。ただし、言語によっては出られない。
音楽を聴く。絵を見る。人を愛する。山を歩く。痛みを感じる。身体を動かす。瞑想する。
これらはすべて言語以前の世界への接触です。しかし、その経験を「説明してください」と要求された瞬間、再び言語という網をかけることになります。
ですから、哲学には原理的な逆説があります。
「言葉では捉えきれないものがある」と言葉で説明しなければならない。
この意味では、ニーチェやキルケゴールだけの問題ではありません。哲学という営みそのものが抱える限界です。
そして現代では、ここを神経科学・身体論・AIによってもう一段深く考えられるようになっています。言語は人間の認知活動全体ではなく、その一部分にすぎません。
その意味で、以前お話しされていた**「クオリア=脳と身体のループと共鳴から生じる肉体的主観」**という発想は、まさにこの問題と接続できます。「言葉になる以前の主観」を哲学の出発点に置こうとしているからです。
龍樹も戯論を否定しています
はい。まさにそこが龍樹の非常に重要なところです。しかも今のお話――「言語で本質を捉えようとすると、その言語の枠組みから出られない」――と、龍樹の「戯論(prapañca)」批判はかなり深く接続できます。
龍樹の「戯論」は、単なる「無駄話」という意味ではありません。概念を立て、区別し、それを実在そのものだと思い込み、さらに概念を増殖させていく働きです。
たとえば、
「存在する」/「存在しない」
「生じる」/「滅する」
「同一である」/「異なる」
という二項対立によって世界を捉えようとします。
ところが龍樹は『中論』冒頭の八不――
不生・不滅、不常・不断、不一・不異、不来・不去
によって、こうした概念的二分法そのものを崩していきます。
ここがニーチェやキルケゴールとの大きな違いとして読めます。
ニーチェは「奴隷道徳」「ルサンチマン」「超人」「力への意志」など、新しい強力な概念を作って世界を切り取る。
キルケゴールも「絶望」「単独者」「信仰」といった概念によって人間存在を記述する。
それに対して龍樹は、極端に言えば、
「その概念によって世界を説明できたと思うこと自体を疑え」
という方向へ進みます。
ただし、ここには龍樹のもっとすごいところがあります。
龍樹は「言葉は間違っている。だから言葉を捨てよ」という単純な反言語主義ではありません。言葉を使って、言葉への執着を解体するのです。
有名な二諦説でいえば、世俗諦という言語・概念・慣習の世界を通らなければ、勝義諦を示すこともできません。しかし勝義諦をさらに「これこそ究極の実体だ」と概念化して掴んだ瞬間、それもまた執着になります。
だから「空」さえ実体化してはいけない。
ここは非常に重要です。
「すべては空である」という命題さえ、究極的真理として握りしめてはいけない。
つまり龍樹は、哲学体系を作って「私は世界の本質を説明した」と完結することそのものを警戒している。
先ほどのお話を借りれば、
ニーチェ/キルケゴール
世界 → 言語化 → 概念体系 → 世界についての説明
に対して、龍樹はむしろ、
世界 → 言語化 → 概念 → その概念への執着を発見 → 概念を解体 → 戯論寂滅
という運動をします。
ですから、龍樹を単なる「一人の哲学者」として読むと、少し違和感があります。彼はある意味では、哲学を徹底的に遂行した結果、哲学そのものの自己解体へ向かった思想家だからです。
そしてこれは、いま議論している「言語化以前の身体的主観・クオリア」という問題とも非常に面白く接続できます。ただし龍樹の「空・戯論寂滅」をそのまま神経科学的な非言語的体験と同一視するのは危険です。ここを区別しながら比較すると、かなり面白い議論になります。
してください
では、龍樹の「戯論寂滅」と、これまで話してきた**「言語化以前の身体的主観=クオリア」**を重ねながら、同一視せずに比較してみます。私はここにはかなり重要な接点と、決定的な相違があると思います。
龍樹の立場を現代的に単純化すると、次の三層を区別すると分かりやすくなります。
第1層 出来事そのもの
光が眼に入る。音が聞こえる。身体が反応する。心拍が上がる。胸が締めつけられる。快・不快が生じる。
現代神経科学なら、感覚入力、内受容感覚、自律神経反応、脳内処理などとして研究できます。
そして、これらが統合されて「この私にとって、このように感じられる」という主観的経験が成立すると考えるなら、以前お話しした**「肉体的主観」**という考え方がここに置けます。
第2層 言語化・概念化
その経験に、
「恐怖だ」
「私は悲しい」
「彼が私を侮辱した」
「私は不幸だ」
と名前を付けます。
ここで経験そのものが、言語的・概念的な世界へ変換されます。
しかし問題はさらにその先です。
第3層 戯論
「私は不幸な人間だ」
「彼は悪い人間だ」
「私は他人より優れている」
「人生とはこういうものだ」
「世界の本質は○○である」
と概念が概念を呼び、巨大な物語を作っていく。
龍樹が特に問題にするのは、この概念を自性(svabhāva)をもった実在として固定することです。
つまり、
経験 → 言葉 → 概念 → 概念の実体化 → 世界観
という流れです。
ここから見ると、先ほどのニーチェ批判も面白くなります。
フリードリヒ・ニーチェが孤独を経験する。
孤独という身体的・情動的経験そのものには、まだ「高貴」も「低俗」もありません。
ところがそれを、
孤独 → 私は群衆とは違う → 群衆=畜群 → 高貴な人間 → 超人
と概念化していけば、一つの哲学体系ができます。
龍樹的に見れば、「超人が正しいか間違っているか」という以前に、
「あなたはなぜ、その概念に自性があると思っているのか」
と問い返すでしょう。
しかし「肉体的主観」と龍樹は同じではない
ここが最も重要です。
「では言葉を取り除けば、純粋なクオリアという究極的実在が残る」と考えると、龍樹はおそらくそこにも待ったをかけます。
たとえば、
言葉以前に「純粋な赤のクオリア」が存在する。
と主張した瞬間、「クオリア」という新しい実体を立ててしまう可能性があります。
龍樹なら、身体も脳も感覚も主体も、相互依存して成立している――つまり縁起していると考えるでしょう。
したがって、
言語を取り除く
↓
本当の自己・純粋なクオリアが発見される
という構造ではありません。
むしろ、
刺激 ↔ 脳 ↔ 身体 ↔ 記憶 ↔ 環境 ↔ 注意
という相互依存的な出来事があり、そのどこにも独立した「経験主体」という固定的実体を発見できない。
これは、以前お話ししていた**「脳と身体のループと共鳴」**という発想と意外に相性がよいところがあります。
ただし私は、ここを次のように区別しておくのがよいと思います。
| 問題 | 神経科学的「肉体的主観」 | 龍樹 |
|---|---|---|
| クオリアはなぜ生じるか | 脳―身体―環境の動的相互作用として研究 | 直接の研究対象ではない |
| 言語以前の経験 | 重要 | それ自体を究極実体化しない |
| 固定的な自己 | 脳科学的に疑問視可能 | 自性を否定 |
| 言語・概念 | 経験を圧縮・カテゴリー化 | 実体視すると戯論になる |
| 究極的実体 | 仮説として問える | 自性として立てることを拒否 |
| 目的 | 意識の機制を説明する | 執着・戯論からの解放 |
したがって、両者を一つにする必要はありません。
むしろ、
神経科学は「主観はいかに成立するか」を問う。
龍樹は「成立した主観を、なぜ実体だと思うのか」を問う。
この二つを組み合わせる方が強力です。
そして私は、ここから非常に面白い意識モデルが作れると思います。
外界刺激
↓
脳―身体ループ
↓
「肉体的主観」=一次的クオリア
↓
注意・記憶
↓
言語化
↓
「私が感じている」
↓
自己物語
↓
概念の固定化
↓
戯論
となります。
龍樹の面白さは、この一番下まで作られてしまった「私の世界」を、再び上へ向かって解体していくところにあります。
しかも最後に「では真実は肉体的主観である」と止めない。そこさえ固定化すれば、新しい戯論になりうる。
この一点では、龍樹はニーチェやキルケゴールよりはるかに徹底している、と読むことができます。彼は「私の新しい世界観を信じよ」というより、世界観を作って安心しようとする人間の認知作用そのものを疑っているからです。