ジョルジュ・バタイユ(Georges Bataille, 1897–1962)の思想は、一言でまとめれば、「理性・有用性・自己保存によって組み立てられた人間世界から、その外へ出ようとする思想」です。
ニーチェ、フロイト、ヘーゲル、マルクス、宗教人類学などを吸収していますが、体系哲学を作ろうとした人ではありません。むしろ「体系によって世界を閉じること」そのものを疑いました。
1.人間は「役に立つ世界」を作った
バタイユがまず問題にするのは、人間社会が基本的に有用性によって組織されていることです。
働く、蓄える、生産する、計画する、未来に備える。
つまり、
労働 → 生産 → 蓄積 → 再投資 → さらに生産
という循環です。
これは近代資本主義だけの話ではありません。バタイユにとって、人間が「明日のために今日を犠牲にする」ようになった時点で、すでに人間的な秩序が成立しています。
ところが彼は、ここで非常に奇妙な問いを立てます。
人生は、本当に何かの役に立つために存在するのか。
ここがバタイユの出発点です。
2.「消費」ではなく「蕩尽」
そこで出てくる重要概念が dépense(蕩尽・消尽) です。
人間は蓄積するだけではありません。むしろ、せっかく蓄えたものを、何の利益にもならない形で大量に失います。
祭り、豪華な贈与、戦争、供犠、贅沢、芸術、性愛などです。
普通の経済学なら「無駄」と考える。しかしバタイユは逆転させます。
この「無駄」こそ、人間存在の重要な部分なのではないか。
この考えを経済・文明論にまで拡張したのが『呪われた部分(La Part maudite)』です。
彼の「一般経済学」では、世界は不足をどう配分するかだけではなく、むしろ余剰エネルギーをどう処分するかという問題を抱えている、と考えます。
太陽は地球に膨大なエネルギーを無償で注ぎ続ける。生命は成長する。しかし成長には限界がある。
すると最後には余剰を、
浪費しなければならない。
この発想はかなり独創的です。
3.エロティシズムは性欲の理論ではない
バタイユの代表作『エロティシズム』でいうエロティシズムは、単なる性愛論ではありません。
彼は人間を基本的に「不連続な存在」と考えます。
私は私、あなたはあなたであり、二人の意識は完全には一つになれません。個体である以上、私たちは孤立しています。
しかし性愛の極限では、この自己と他者との境界が一時的に崩れる。
そこでバタイユは、
不連続性 → 境界の侵犯 → 連続性
という構図を考えます。
この「自己の境界が崩れる」という経験が重要なのです。
したがって性愛、死、供犠、宗教的恍惚は、彼の中では意外なほど近い位置にあります。
4.「禁止」と「侵犯」
ここがバタイユ思想の核心の一つです。
文明は、
「殺してはいけない」
「近親相姦してはいけない」
「死体に触れてはいけない」
「性的行為には一定の規則がある」
という禁止(interdit)によって成立します。
しかし人間には同時に、それを越えようとする力があります。
これが侵犯(transgression)です。
重要なのは、バタイユは単純に「禁止を破れば自由になる」と言っているのではないことです。
むしろ、
禁止があるからこそ侵犯が成立する。
禁止と侵犯は敵同士ではなく、相互依存しています。
これは彼の最も鋭いところです。
5.死
バタイユにとって死は非常に重要です。
生きている私は「私」という境界を持っています。しかし死によって、その個体としての境界は消滅します。
したがって、
性愛―供犠―死―宗教的恍惚
には共通構造がある。
それは、
個体として閉じている自己が、一時的あるいは最終的に解体されること
です。
この意味で、バタイユのエロティシズム論は「性の哲学」というより、自我境界の哲学と読んだ方がよいと思います。
6.「内的体験」
そして『内的体験(L’Expérience intérieure)』になると、さらに極端になります。
宗教には普通、
神 → 信仰 → 救済
という目的があります。
しかしバタイユは神を信じません。
それでも神秘体験そのものには強い関心を持っています。
そこで彼が追求したのが、
神のいない神秘体験
ともいうべきものです。
自己が崩れ、言葉が崩れ、主体と客体の区別まで不安定になる極限状態です。
ここには禅や神秘主義との類似があります。
ただし決定的な違いがあります。
仏教、とくに龍樹なら、言語的概念化への執着を離れ、空をも実体化しない方向へ進みます。
バタイユはむしろ、エロティシズム、死、恐怖、笑い、恍惚などの極限体験を通じて、理性的主体を破壊しようとする。
したがって方向性は似て見えても、方法がかなり違います。
7.バタイユとニーチェ
バタイユに最大級の影響を与えた人物の一人がFriedrich Nietzscheです。
ニーチェから、
- 神の死
- 道徳への疑い
- 合理主義への不信
- 生の過剰
- ディオニュソス的体験
を受け継いでいます。
ただしニーチェの「力への意志」に対して、バタイユはむしろ力を獲得することさえ放棄する瞬間に関心を持ちます。
「強くなる」よりも、
自己そのものを失う。
こちらへ向かいます。
8.バタイユを一枚の図にすると
彼の思想には一本の軸があります。
理性・労働・生産・蓄積・自己保存
↓
禁止によって秩序を作る
↓
しかし生命には過剰が生じる
↓
蕩尽・祭・性愛・供犠・笑い・死
↓
禁止を侵犯する
↓
自己と他者の境界が揺らぐ
↓
「私」という閉じた主体が崩れる
↓
内的体験・連続性
こう整理すると、バタイユはかなり分かりやすくなります。
そして、これまでお話ししてきたハイデガーやニーチェに対する「言語によって世界を作り、その言語の内部で完結しているのではないか」という批判をバタイユに向けると、面白い違いが出てきます。バタイユ自身も言語・理性の限界を強く意識しており、言語の外側を「体験」によって突破しようとしたからです。
ただし、ここにはバタイユ自身の大きな矛盾があります。
「言語では到達できないもの」を、なぜ何百ページもの言語によって語るのか。
この点から見ると、龍樹の「戯論」とバタイユの「内的体験」を正面衝突させることができます。私はこの比較は、ハイデガーの場合以上に面白いと思います。